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「気づきのポイント」 「身体と意識の境界線」 【質疑応答】        

2019/09/26
先日、ワークに参加された方から質問をいただきましたのでシェアします。

(一部、編集・加筆しています)



【五感の気づきの瞑想について】

瞑想時、日常時にワークでやったように音、刺激、思考などへの自分の反応
を見ているのですが音を聞くときは体の中が音の振動が体内に伝わってきたのに
反応しているのを見ている感じ、その他の刺激でも同様にその刺激、思考などに体の内部の
何かが反応しようとしているのを見る感じになってます。
瞑想としてはこれで良いのでしょうか。
ワーク時にも聞きましたが結構せわしない感じで忙しい感じです。




見るのは「反応」ではないです。

「反応」は何かの事象の結果ですが、見るべきは「原因」と「結果」の区別のない
瞬間です。

「反応」が出てきてから見ようと意図すると、音や刺激や思考や感覚に触れた瞬間を
見逃し、それらによって引き起こされる自分の反応を一瞬待って見ようとして時間差が
生まれてしまいます。

また、このように見ていると「自分(の反応)」という感覚もなくなりません。

そうではなく、感覚に触れた(意識にのぼった)まさにその一点を
「意図のベクトルを動かさずに」見るのです。

もちろん、最初の瞬間を見切れずに次の反応が起こった後に気づくこともありますが、
反応自体を意図的に待ち構えていたのでなければ、それはそれでかまいません。
(とはいえ、集中力が弱い段階では反応が起こった後に気づくことが大半ですが)


とにかく、常に気づいた瞬間自体に気づくことがポイントです。

ここが難しいところなのですが、気づく瞬間を待ち構えてもいけないのです。

また、気づきという概念を探そうとするのも違います。

あまり考えすぎると瞬間とはなにか、気づきとは何か、と混乱してきますが、
シンプルに今この瞬間に顕れた事象をひとつひとつ見ていきます。


次に、本来は「正しい音の聞きかた」というものはないのです。

今回は訓練の段階として聞くことだけに特化して瞑想しましたが、そもそも瞑想における音は
「耳という特定の場所」でとらえようとしたり意図的に「聞きにいく」ものではなくむこうから
勝手に「触れ」、勝手に「響く」ものです。

音の「聞きかた」「触れかた」「響き方」「感触」等は瞬間瞬間の状況と集中の度合いによって、
どの瞬間と振動に気づくかが異なってきます。

気づくレベルは毎瞬毎瞬異なっています。


例えば、集中が浅ければ身体感覚と自己の定点感覚に付随して音の発生源の位置や距離、
音の続く時間、リズムやメロディやフレーズ、何が発した音かへの興味、その音に対する好嫌、
といった音が聞こえた瞬間に誘発される様々な思考が同時に付随して起こってきますし、
集中が少し高まって身体の境界線が薄れてくれば、音の振動が皮膚に触れる感じや刺激の
強弱、ある周波数が身体内部の特定の部位に響く感覚などに気づくようになってきます。

さらに集中が高まって完全に身体と自己が消えていれば、音と自身の区別がなくなりあらゆる
音の振動が瞬間瞬間、場所のないところでパラパラと非連続的に顕れては消えていくのを
自分自身として見ている(響いている)ようになったりします。


ここでポイントは、音を聞く、あるいは感覚を見るときには「こういう意識と心構えで聞こう」という
態度をいっさい決めずに、ただその場その場で受動的に受け取った瞬間の事実だけを判断なし
に見るということです。

身体感覚が優位の人の場合は音の振動が身体の様々な部位に触れ反応する瞬間に気づくことが
多いですが、「音の聞き方として身体感覚だけをみていればよい」ということではないのです。

だからといって「自分の得意な身体感覚以外での音の聞き方を意図的に探そう」とするのでも
ありません。


このあたりは非常に微妙な感覚かつ勘違いしやすいポイントで間違ったまま続けても先に進まない
ため、瞑想⇒レポート⇒修正を繰り返し、個人のパターンに気づくことが必要になってきます。

○○さんの現在の気づきのセンスは繊細でよい感じなので今後はさらに集中力を深めて受動的に
見ることが自動化するレベルへもっていけたらよいと思います。

せわしないと感じるのは気づきの自動化が確立していないのと、見たり聞いたりする対象と瞬間の
状況を「自分」とくっついた気づきの意図が一回一回探しにいってあちこち動いてしまうからです。

集中力が高まれば自己が切り離され気づきの主体が移動せずに軽く高速であらゆる事象に「触れて」
いるような感覚になってきます。



【黒点に集中するワークと丹田の集中について】

意識が下に降りてゆく時に丹田であればまだ丹田を黒丸としてそれ
以外にずれるものを観察しやすくなるのですが(それでも観察するたびに上に引き戻されますが)、
丹田より下に降りたとき体から出て地面に潜っていく時によって立つべき黒点というかズレを
見るための基準は地下に置くで良いのでしょうか?



丹田の奥へより深く入っていく、というのは丹田を突き抜けて身体の外へでて地面へ潜っていくと
いうことではありません。

身体感覚をもったまま意識できる丹田の一番深いところを見つけたら、その後は呼吸とともにもう
一歩奥の身体と意識の境界線に「出会い」ます。

この境界線の場は身体の輪郭や物理的な対象物を離れているところであって、物理空間の「奥」
(地底)ではないのです。


境界線に出会ったら(睡眠に落ちる瞬間に意識がひっぱられつつ「潜る」感覚に近い)身体と物理的な
輪郭のイメージを手放します。

この、輪郭のない場には黒点のような物理的な対象物があるわけではないのですが、それでも意識が
収束されているポイントがはっきりとあります。


集中力が弱い場合はポイントからズレて認識が境界線上(肉体と意識の境界)をいったりきたりして、
丹田という場の内部あるいは周囲で様々な事象が様々なレベルで起こっていることに気づきます。
(黒点を見ていて意識が逸れる瞬間に起こる思考や感覚の顕れのように)

最初の段階では境界線自体に出会ってそこに意識を収束させ続けること自体が難しいため、
まずは丹田という大まかな場所(骨盤内部5センチ四方ぐらいのイメージ)の内部を肉体的な感覚で
意識し、そこで起こっている感覚を見ていくだけでもかまいません。

集中を一点に収束させる感覚がわかってきたら徐々に境界線の奥へ潜ってとどまっていられるように
なるので、その位相からズレを見切っていくことになります。


ちなみに、肉体として地下にひっぱられているように意識を向けておくのは丹田ではなく「尾てい骨」
です。

ただし尾てい骨のポイントを意識するのは瞑想前の準備として行い、丹田に意識をむけたら肉体の
ことは忘れます。



身体と意識の境界線というのはピンとこないのですがとりあえず初期の段階としては音、
感覚、思考などを見ている「自分」というものが丹田付近にあるという認識で良いのでしょうか?



丹田に意識を集中したときの感覚には「自分」という言葉やその他いかなる
言葉や概念も付随させないようにします。

丹田に集中すると様々な感覚が起こってくると思いますが、その感覚に「見ている主体」
という「実体感」を持たせないでください。

とはいえ、なにか実体感のある定点がなければどのように見ればよいのかわからないのは
人間として当然のことです。

ワークはいわば、定点を取り払って事象だけを見ようという、人間としては矛盾することを
やろうとしているのです。


丹田に意識を置くというのは、自我が対象を認識するときにあちこち動くことをいったん静め、
一時的な定点として仮に意識を一点に集中させておく目的があります。

境界線というのは、例えば丹田に集中したとき、身体にくっついた意識では腸の動く感覚や
ちくちくする感覚や痛みや圧迫感や暖かさなど、肉体に由来する感覚が次々に起こってきますが、
肉体を超えた意識においては、肉体という器の境界の限界のない真空のようなところで
起こってくる感覚を瞬間瞬間、連続性をもたない点として見ています。

境界線を完全に超えると、睡眠に入った後に「落ちる」感覚と同じで「自覚」が保てませんが、
これを避けるために、落ちるか落ちないかという境い目で見ているようにします。


ゴムを使ったワークを思い出してみてください。

ゴムを丹田の前で縦にひっぱってその「張力」と丹田の感覚を同化してみたときに
ふっと軽く入り込めるポイントのような場所が見つからなかったでしょうか?

そのポイントに顕在意識を「落とし込む」ような感覚です。
(とはいえ、意図的に落とし込もうとはせず、丹田に集中する意識を「置いておく」こと
によって勝手に落ちる瞬間をただ「待つことなく」待ちます)


また、丹田ではありませんが、水を飲むワークで水の感覚が消える境目を見たときに
消える瞬間の前は肉体で感知しているのに対し、消えた瞬間のすぐ後からしばらくは
微細な余韻とそこに意識が細く吸い込まれるように入り込んでいくのが感じられたと思います。

この余韻との境目が肉体感覚と意識そのものの境界線となります。


ただし、丹田に集中のポイントを設定したときの境界線は、水が消える位置でおこる余韻とは
違った感覚を伴います。

これは、自我感覚が丹田と密接に結びついているという構造からくる感覚の違いです。

このとき、ある種の丹田特有の実体感が伴うのですが、この実体感を「自己」と結びつけないように
します。


この感覚をすぐにわかろうと焦らないでください。

意図的にやろうとすると意図と自我がくっついて頭部の方向へ意識が上がってしまいます。
何度も繰り返すうちに「すとん」と入る場所があることに気づく瞬間がきます。

本当は、丹田付近になにかの実体があるわけではないのです。
丹田に集中するのは身体構造の便宜上のテクニックです。

丹田に集中することを利用して、身体の枠をまず忘れ、真空の場で起こってくる様々な事象を
ニュートラルに眺めているようになることが最初のステップになります。


言葉だけで説明する限界があるのですが、ここは本当に難しい微妙なところなので
逆にすぐに実感できるほうが稀です。

また、目的がズレるとなぜこのワークをやっているのかがわからなくなります。
このワークの目的は自我を落として身体の枠を超えたところで見るということです。

このあたりはポイントがつかめるまで何度も繰り返しワークでも行っていきます。


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