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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <0.はじめに>     

2019/09/26

<目 次>

0. はじめに
1. ルビンの壺と「あいだ」
2. 覚醒とは
3. 現象発生の現場と衝撃
4. 時間と空間と形
5. 愛・信頼・祈り・無私・善悪・覚醒の鍵
6. 3つのセンターにおけるワンネス体験
7. 死・誕生・運命・カルマ
8. 現象・魔術・ツボ・物質
9. 瞑想・認識・酩酊・うねり
10.覚醒によってわかること
11.よくある間違い・注意点・ヒント
12.提供可能なワークについて
13.おわりに


************************
0. はじめに


この本は、覚醒を「目指して」しまっている「あなた」、そして、一瞥体験にとどまってしまっている「わたしたち」へ向けた、指南の試みとして生まれた。


これまで覚醒の話を聞いて、そのときは感動しても、あとから煙に巻かれたような気分になって、結局なにも変わっていないことに当惑したことはないだろうか?

あるいは、すでに一瞥体験はあるものの、未だ現象世界の意味や構造が不明瞭なままだったりすることはないだろうか?


ここに書かれていることは、「わたし」の体験から、3Dの人間の認識機能において「実際にはっきりと見ることができる」ものであることを断言する。

これを読んだとき、もしかしたらエゴの居心地の悪さやいらだちを覚え、思考で理解できずにめまいがするかもしれない。

また、覚醒側からの視点による独特の言い回しに違和感を覚えることがあるかもしれない。

それは覚醒の主体の位置と、人間の言語と文字の構造とのズレに由来する。


いまわたしはこれを、見かけ上、わたしたちの「ストーリー」のなかのあなたに、「ストーリー」の階層から「ストーリー」の形をとりつつ話しかけているが、それと同時にわたしたちの覚醒が、「あなた」という読者を媒体として、わたしたちの覚醒自身にダイレクトに話しかけている。

覚醒の階層からみれば壮大な「ひとりごと」として。
(何をいっているのか頭が混乱するかもしれないが、この意味はのちに体感できるようになる。)


わたしたちはずっと眠り続けてきた。
あるいは、一部のわたしたちは自ら望んで寝坊してきた。

こちらのわたしたちは、何度も何度も、3Dの引力のうねりに流され、瞬間に乗り遅れるという寝坊を繰り返してきた。

だが、ある意味、それは瞬間に間に合えば次の瞬間、即座に目覚めうるということでもある。

(実は寝坊している連続したわたしが続いているのではなく、寝坊している瞬間の同化が、無限かつ非連続的にあるというだけなのであるが、このことはおいおい説明を試みる。)


ほんとうは、あなたたち(わたしたち)も瞬間瞬間に次々と目が覚めて、目が覚めているものは別の次元に旅立っている。

こうしている間にも、あらゆる瞬間、3Dのわたしたちに「いま」同化していないわたしたちは、次々と分岐していっているのだ!

それは、この地球上で特定の覚者が出現してどこか別の世界へ旅立っていく、という意味ではない。

まさに、無数の「わたしたち」自身の無数の可能性である無数の「わたし」が、いまこの文章を読んでいる瞬間の「わたし」だけを取り残して、覚醒そのものとしてあるのである。


それも実は、目覚めていない瞬間に同化しているあなたのその瞬間の意識だけが、取り残されているように感じているだけなのだ。

あなたはそのとき、その瞬間的な意識を成り立たせるための単なる「担当者」にすぎないのである。


だが、見かけ上の瞬間の「担当者1」が次の瞬間に旅立ったとしても、全体を司るエネルギーの采配のバランスから、担当者1と同質のエネルギーが即座に供給され、担当者1に「そっくりな」新たな「担当者2」が次の瞬間に生まれる。

その瞬間に同化した「担当者2」の意識は、非連続的な「担当者1」の記憶のエネルギーを即座に引き寄せて見かけ上連続した自己同一性と時間を形作る。

こうして、無数の瞬間に采配された「担当者1・2・3・4・5・・・・」の個々の記憶の残像が見かけ上、直列に並ぶことによって、そのときその瞬間に宿った最新の「担当者」は過去の非連続性に気付かないまま、ひとまとまりの「担当者=わたし」としての時間とストーリーに同化している夢を見続ける。

このことは、3Dにおける担当者という意識が「瞬間そのもの」を見切ることができないという認識の構造に由来する。


そう、瞬間そのものは決して見切ることができない。

この認識構造が、わたしたちが3Dに捉われ続け、目覚めることができない理由である。

だが、このように原始的な3Dの認識機能においても、覚醒から分離する瞬間を3Dなりの極限において見切ることは可能である。


しかし、現象世界における3Dの表象としての「あるがまま」の一瞥だけでは極限を見切ることができない。

それでは、3Dにおける心理的な安心と現象面から感じ取られる覚醒の手触りと信頼を得られたとしても、世界の構造の片側だけしかわからないのだ。


極限を見切ったときの「あるがまま」とは、ふんわりした心地よさや愛などではなく、エゴにとっては驚愕と恐怖でしかない。

しかしその極限においてエゴの同一化が発生していないとき、莫大なエネルギーと無限の可能性の待機と、爆発と生成と消滅を繰り返すシステムの一端を垣間見ることになる。


莫大なエネルギーである源はそれ自体を認識することができず意味が発生する以前のものであり、愛を愛と自覚することはない。

ただ、その源から見かけ上、分離する瞬間の振動と、源に戻ろうとするときの振動が、後づけで「愛」と呼ばれる感覚を創り出した。

この振動を愛として感じられるように人間は生み出された。

人間の愛の感覚は分離あってこそで、源との距離が近くなるときに磁石が強烈に引き合おうとするような振動の感覚が生じるのであり、ハートの座に響くその振動を愛と呼んでいるのだが、完全にひとつになったときには、心身など木端微塵になってしまう爆発のエネルギーだけがただある。
 

覚醒について、もっとうまく甘美に説明している覚者は大勢いると思う。

しかし、きれいにまとまった概念体系と用語に落とし込むことによって抜け落ちるもの、それを避けるために、それらが思考で解釈される「以前」の、わたしというごく普通の人間におりてきた生々しさと鮮烈さの現場の声を、すべてのわたしたちに覚醒側から「自己生成的に」転写したいと思った。

(本当は文字と時間を介さずに直接転写できればいいのだが。構造的に時間を伴う文字という形態はもはや古いのかもしれない。いずれ別の形態で表現を試みるかもしれない。)


また、「どうせこの世界は幻想だし遊びだから」といって、見かけ上3Dに閉じ込められた(同化した)断続体としてのわたしたち自身を茶化したり卑下したり道化のふりをして自嘲するような表現をすることは避けたい。

そのスタンスに逃げたくなる気持ちは痛いほどわかる。

3Dに同化した肉体と思考のレベルのあらゆることはありえないほど重くて遅くて、この世界の時空の窮屈な直列的思考の原理で説明したり、なにかを変えようとすることは、とてもとても疲れるから。


この重さと遅さから、別の次元にすでに逃げ去ってしまった存在(これも実はわたしたちである)も、瞬間瞬間に、無数にいる!
(厳密にいえば、ポジティブに逃げ去って再び戻ってきて働きかける者と、ネガティブに放棄して逃げ去って戻ってこない者がいるが、それもまた、わたしたち自身なのだ…)


決して茶化すことのできないこの感覚は、まさにこの文字を時系列で直列的に見ている担当者であるあなたが今この瞬間にはわからなくても、ある瞬間に時間と空間と存在の発生現場のしくみを見抜いたとき、自ずと生じることであるとあらかじめ断言しておく。

なぜなら、多層的な視点と主体発生のしくみを実際に垣間見てしまった者にとって、それは、わたしたち自身というあまりにも巨大なものを茶化すことになってしまうからだ。

この3D世界も、全体の中の「そうでしかありえなかった」表現、途方もないシステムに采配された絶対的な瞬間なのだから。

本文でこれからする説明(自己生成的呼びかけ=わたしたち自身に対する「リマインド」)を、「そんなの聞いたことある、で?」と思考で切り捨てないでほしい。

そういう風に思わせてしまったり、覚醒の手触りすら転写されなかったとしたら、表現者としてのわたしの力不足と、この世界における媒体としてのわたしのエネルギーの器の小ささゆえとしかいいようがないが、実際にわたしたちひとりひとりが覚醒を見切って文字どおり「腑に落ちる」ところを目指したいと思っている。


先にいっておきたいのは、これから記すことは概念ではなく、ただただ、わたしが実際に観ているものをそのまま写し取っていることだ。

あたかも目の前の花の一部始終を見たままに描くように。

そしてこれらのことは、わたしたちすべてが実際に観ることができるということをいっておく。


あなたが思っているよりも3Dの認識機能のレベルは高い。

人間の認識機能で見切ることのできるレベルまで行きつくことを放棄して、3Dの表面的な雰囲気やイメージに酩酊してそれを覚醒と勘違いしている段階を脱してほしい。


あるいは、擬人化・具象化等のイメージの「変換」に逃げることが認識の段階において「はやすぎる」ことに気づいてほしい。

人間の脳でも、あなたが思っている以上にもうすこしだけ先を見切ることができる。
そこまでは今生の意識形態のうちに知ってほしい。


見かけ上の今生ではあるが、認識しうる機能の担当者として生まれたあなた(わたしたち)はその可能性をこの一点において使うべきである。

あるいは、極限にたどり着く前に早々にあきらめて気絶したり、イメージやエネルギーのおおざっぱな「ひとまとまり」に逃げてしまう段階がはやすぎることに気づいてほしい。

認識の鋭利さと見切る速さを養い、瞬間の隙間に飛び込めるだけのエネルギーを凝縮し、3Dを発生させる強力な引力に逆らうかのように存在の発生現場へ遡ること。

これら一連のプロセスを一生に一度のチャンスと思って、生体のエネルギーを活用できるうちに機能にまかせて「自動化」できるところまではやっておいてほしい。


どうか、3Dの認識システムで「見切る」ことができるところまでは今生で見切っておいてほしい。


もちろん、見切る手前で放棄(気絶)してしまった認識のレベルでのイメージの世界の甘美さ、美しさというものはある。

その美しさだけでも完璧に味わうことができれば、それはそれで現象として表現された神秘を知ることであり、神秘的であるがゆえに背後の覚醒の気配を感じとり感涙することもできる。


しかし、投影された甘美さに酩酊することに無自覚に淫してしまうと3Dの引力のうねりに巻き込まれたまま現象世界に「実体なく」幻として漂い続けることになる。

3Dの認識に幽閉されて3Dの見かけ上の「あるがまま」に納得したふりをして、永久に「投影されたものとして」ありつづけることになる。

その状態で覚醒の気配に感涙することは、真実に目覚めることではなく、永遠に辿りつかないものを追い求めて幻を存続させるための美味しい餌にすぎないのだ。


そのことに不安や疑問を抱かないのであれば、「あるがまま」の存在として永遠に投影されて流転していく側に同化し続けるというのも究極の選択だとはいえる。

瞬間瞬間、現象全体のエネルギーの采配に目的もわからず受動的に貢献する担当者としての立場に徹し、いっさいの被害者意識を持たないのであれば。

道端の「石」担当の「石」そのものが「石」であることに文句をいわずに、わたしたちのためにじっと在りつづけてくれるように…


ただしこの本では、甘美なイメージを愛でたり3Dとしてのあるがままに開き直ってしまうことなく、見切るところまでは見切るというスタンスで展開していくので、エゴにとっては否定されたような違和感や怒りや恐怖や疲労を感じるかもしれない。

しかし、見切ることを実際にうながさないすべての覚醒の甘美な概念は「いつか未来に届くべき」到達点という意識のベクトルと直列の時空を発生させてしまう。

それでは瞬間に飛び込めないのだ。


意識のベクトルを動かす以前に「振り返らずに後ろ向きに(!)」飛び込んでしまうこと。

動かすと対象が発生して対象と見かけ上分離した「一体化すべきわたし」がつねにベクトルの矢印の「こちら側」に取り残される。

何度もいうが、実際に見切ることは可能である。

わたしごときでよければ、これだけは請け負う。


見切ったところでしくみと神秘を知らされることによって、やっとすべてがスタートする。

そこからはじめて、いままで無意識だった存在発生のプロセスを自覚的に辿ることができるようになり、また、意識的に気絶してこちら側を愛でて遊ぶこともできるようになる。


すべての采配の意志が同時に働きながらそれが同時にわたしの意志として瞬時に現れ出て身体となって顕れ、3Dのわたしの感覚が付随され、直線的に進む時間と空間の法則のなかに「意識的に」わたしとして存在し、3D原理の思考と身体を用いて物質や他者を見かけ上の空間の座標にそって動かしていく…それが同時に多次元すべてと同調し、存在の発生の源に即座にフィードバックされることを知る。


この3Dは重くて遅くて暗くて疲れるけれど、源にとって、3D次元から物理的に動かすことによるフィードバックが全体のエネルギー采配と均衡において必要だったため創られた。

見かけ上の分離を創り、自己と他者が対面できる二元とはある意味、わたしたち覚醒側からの画期的な発明、そして実験であった。

当初、エゴや思考は単なる機能の役目として創られた。

エゴをつくりエゴどうしを対面させたとき、相互の投影の干渉とそれぞれの背後の引力のバランスゲームによって現象世界は爆発的に多様化していった。

その多様化のエネルギーは、源の采配から発生しながら、同時に源へフィードバックされることにより、源のバランスと動的な恒常性に貢献している。


「あなた」は今これを書いている「わたしたち」の共時的存在としてすでに在る。
対面しうる「あなた」の顔を「わたし」は未だ知らないけれども。

「わたし」が「あなた」としてこのページをめくって(スクロールして)いる「今」が、すでに在る。

「わたし」がこれを書いているとき、「あなた」はすでにこれを読んでいた。


そんな、くらくらするような時空の交錯と主体のゆらぎが、くらくらすることに気絶することなく、すべての「わたしたち」において明晰に紐解かれることを切に願う。


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