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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <1.ルビンの壺と「あいだ」>   

2019/09/26

1. ルビンの壺と「あいだ」


●ルビンの壺

この本の表紙にある絵は、デンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した多義図形
「ルビンの壺」である。

人間の知覚において、壺が図として認識されるときには人の顔が認識されず、人の顔が図として認識されるときは壺が認識されない。

一方が図になると、片方は地として背景にひっこんでしまい、2つの図を同時に認識することはできない。

無理やり2つを同時に見ようとしても、見ようとした瞬間に図が切り替わってしまい、切り替わりの速度が速くなって同時に見ている錯覚に陥ることがあったとしても、実際は決して同時に認識することはできない。


このことは、人間の認識が、時系列の時間の流れにおいてひとつの瞬間にひとつの認識しか自覚できないというシステムによる。

しかし、この絵自体は固定された黒と白の線と面であって、なにも動いていない。
動いているのは見る者の認識と図の意味付けの瞬間だけである。

このとき、この絵自体は動いていなくても、観察する者の存在によって、2つの意味付けが切り取られる動的な「可能性」が内在しているといえる。

逆にいえば、観察者がいなければ、絵はただの黒と白の線と面のままで静的にありつづける。

もっといえば、絵そのものが存在することすら観察者がいなければ認識されない。


では、認識が切り取られるときの図と地とはなんだろうか?

それは、3Dの人間が現象における個々の事象や物体を識別するときのメカニズムと同じである。

全体が同時に内在する空間から、自分と引き合ったひとつのものを取り出して意味付けし、識別されたその瞬間、その他のものを瞬時に背景に押しやっているのである。

たとえ、空間全体を一度に見ようとしても、厳密にいえばそれは瞬間瞬間に物質の位置や色や影や遠近を時系列に識別し、それをひとつの空間のイメージとして脳内で編集しなおしたものを後づけで見ているのである。


基本的には人間によるこの世界の読み取りかたは、このメカニズムによっている。

ルビンの壺でいえば、ひとつの瞬間にひとつの図を識別するという無限の瞬間の断続体がこの3Dの認識に切り取られ意味付けされた世界なのである。


では、もし観察者がまったくなんの意味付けもなさずに、ただ空間やルビンの壺の絵を見ることができたとしたら、それはなにを意味するだろうか?

そのとき観察者は、すべての読み取られる可能性を内在した空間なり絵から何物をも切り取らず内在を内在のまま静的に映し出す鏡のような存在にならないだろうか?

もっといえば、そのとき個別の観察者は、すでに存在しないといえるのではないか?


ごくごく簡単にいってしまえば、これがこの3Dの現象世界におけるいわゆるワンネスという覚醒した認識状態である。

しかし、この認識は現象として投影されたものを鏡として映し出すために、未だ空間と事物を対象として必要としているのであり、覚醒の結果として投影された片側だけを見ている状態なのである。


実は、人間の認識下において、内在された全体性は認識以前につねにすべて映ってスタンバイされていたのであり、たまたまいっさいの識別のない瞬間においてその全体性が前面に顕れでたというだけの話なのである。

その意味では、すべての人間はすでに無自覚ではあれ、覚醒しているともいえる。

ただし、ここで問題なのは「いっさいの識別のない状態」が偶発的に自覚にのぼってくるのは非常に稀だということである。

それは次の瞬間に起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。


ただひとついえるのは、ひとつの瞬間にひとつの対象しか認識できないシステムの人間において、他の対象物(思考をふくむ)が瞬間を占有しているあいだは絶対に「識別のない状態」を知ることができない、ということである。

だからといって「対象物を見ないでおこう」「思考しないでおこう」と意図的に空白をつくろうとすることは失敗に終わる。

なぜなら、「~しよう」と思ったまさにその瞬間、その意図に占有されるからである。

ではどうするか?


●「あいだ」

次に、ルビンの壺において図と背景が切り替わる瞬間のまさにその「あいだ」を見てみよう。

が、あいだを見ようとした瞬間、すでに図が切り替わってはいないだろうか?

それでもあいだを見ようとし続けたとき、図の切り替わりの速度があがっていき無限に切り替わりつづけるのを見ているうちに奇妙なことに気づく。

図と図の切り替わる瞬間の認識できない一瞬の空白の感覚と、なにかわからない「あいだ」らしきものの手触りの直観である。

それは、識別と識別の隙間に奇妙な引力によって浮遊しているような何かなのである。


先に答えをいってしまうと「あいだ」そのものは、どこまでいっても決してそれ自体を見ることはできない。

それは、「あいだ」が対象物を持たず識別されない瞬間だからである。

しかし、対象物を持つ瞬間があることによって、見えない「あいだ」の存在感が突如として際立ってくる。
(先走っていえば、それこそが二元であることの恩寵なのである!)


そして先ほどの、すべての可能性が内在する全体が識別されずにスタンバイしているところが「あいだ」なのである。
 
「あいだ」は、人間に観察された瞬間に消える。


「あいだ」は、人間の直列的時間の感覚でとらえられたときには、特定の時空のなかに存在するもののように思われるが、「あいだ」そのものは時空の発生する前のものであり、すべてに先立つ可能性を内在するなにかである。

まず、無自覚的な対象物から対象物への識別の移動の状態から脱し、自覚的に「あいだ」を見切っていくことが覚醒の源に遡るための第一歩となる。

「あいだ」を見切るということは、逆にいえば「あいだ」でない対象物の識別を、瞬間ごとに手放していくことを意味する。

これは先にいっておくと、見切りが自動化するまでは、根気とエネルギーと訓練を必要とする。

内在的にはすでにすべてが覚醒しているとはいえ、その状態を自覚に浮上させるには、今まで3Dの人間として何万年ものあいだ馴染んできた認識方法を転換させる必要があるからだ。

しかし、いったん自動化してしまえば、覚醒へのめくるめく展開が怒涛のようにやってくる。



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