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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <3.現象発生の現場と衝撃>   

2019/09/26

3. 現象発生の現場と衝撃


覚醒における現象の発生の場に遡っていったとき、すべての可能性を内在する全体性の場で、認識が発生した瞬間、閃光が走り、可能性から実際の現象へ展開していくための最初の萌芽の候補が選び取られる。

選び取られる瞬間、ひとつのものから個別の事象を引きはがすような、引力のような力が働くのがわかる。

それはあたかも、真空のなかの出来事のように感じられる。


閃光のひとつひとつは、認識発生のための気づきと対象が出会って引きはがされるときの個々の爆発であり、それらは覚醒の本体の莫大なエネルギーから供給される。

この、認識の第一段階では、無数の可能性の最初の萌芽が断続する無数の閃光とともに発生し、それぞれが映画のコマの一枚一枚のように前後の脈絡なくパラパラと高速で流れていく。

(ほんとうはパラパラと時系列で流れていっているのではなく、無数の閃光が同時多発的・並列的に発生する多次元的な構造なのだが、人間の3Dの認識では0.1~0.2秒ごとに一つのコマを見切るのが限界であるため、それらが直列のフィルムのごとく並んでいるように感じられる)


第一段階は、すでに現象の萌芽は発生しているのだが、観察者は個別の現象に飛び込まずに、その手前でどの現実も選ばずに待機してコマが流れていくのを、ものすごいGがかかるなかで見送っているような状態である。

なぜGがかかるかというと、発生と消滅の逆方向のベクトルの綱引きの「あいだ」にギリギリのところでホバークラフトのように浮いて待機しているからなのだ。

(この、見送る状態になるためには、ひとつのコマにも同調しないための、観察者の完全な無志向性を必要とする。つまり、いかなる意志のベクトルも働いていない状態にあるということ。これが先に述べた、源における「いっさいの識別のない状態」の、人間のたどりつきうるギリギリのレベルである。厳密にいえば、萌芽が発生している段階で、観察者に内在する「選びうる可能性」の引力がすでに働いてしまっている状態ではある。その証拠に、無選別で見せられているコマどうしには前後の脈絡がないものの、しばしば集合意識的な形状や過去の記憶をわずかに含むものや、母や父の原型のようなものの萌芽が流れてくることがある。ちなみに「識別のない状態」とは、動きが停止している状態ではなく、よく勘違いされるような「無」というイメージにはまりこんで止まっている感覚や、暗闇のようなところでなにも感じていない状態とは異なる。それらは身体と自己という幻の構築物が発生した以後に生じるハラのセンターに由来する感覚と認識のセンターから派生したイメージとの複合物である。)


第二段階は、「識別のない状態」からほんのかすかなベクトルが動いた瞬間に起こる。

そこでは、ある特定の引力のエネルギーの同調が働き(自動的に采配され)、流れていくコマの一枚の中に強力な磁力で吸い込まれるように一瞬で入り込む。

(入り込む瞬間にはまだ、身体と自己の意識は形作られていない)

そして驚くべきことに、まったく唐突に、その瞬間から3Dの現象世界がはじまっているのである!

それはあたかも、夢の世界が睡眠の途中で唐突にはじまるのに似ている。

これはほんとうに、驚愕すべきことである…!


このプロセスを見切ることができない人間は常に、入り込んでしまった後に3D世界の共同幻想にはじめからずっと連続して存在していたかのように感じて生きている。
 
この、まったく唐突な生まれ出る瞬間の果てしない断続が、3D世界の時空の発生と自己の見かけ上の連続性の正体なのである。

現象に入り込んだ瞬間、磁石に引き寄せられる無数の砂鉄のようにエネルギーの粒子が一瞬にして身体と自己を形作り、それに伴い時間と空間が発生する。
(時間と空間も、このように一瞬一瞬、断続的に生まれている)
 

そして、3Dの直列的時間から見た「一瞬前の自己」と引きあうエネルギーが、再び発生の萌芽から自動的に采配され、次の瞬間に生まれ出て、見かけ上の自己の連続性を保つ。

この一連のプロセスにおいて、「識別のない状態」から生まれでる引力が働くときの自動的な采配、エネルギーの引き合いこそがいわゆるカルマとよばれるものであり、本来、識別のない状態の観察者としての「わたし」は、なにひとつ自らの意志で動いてはいないのである!

まったく、1ミリ1秒たりとも、「わたし」は能動的に動いていないのだ!!

このことを知ってしまったとき、ただただ驚愕に目を見開いて唖然と立ちすくむしかない。
 

エゴにとって、自分がいっさい何もしていないことを知らしめられることは、とてつもない恐怖である。

それは、崖から飛び降りて、どこにもつかまるところのない無限の落下に果てしなく慟哭しているような状態なのだ。


「わたし」の本体は、発生の現場に待機している、自らなにもすることのできない、現象発生と認識のための媒体機能にすぎなかったのだ。


…しかし、驚愕と衝撃のほとぼりが冷めてきたころ、ふと考えることになる。

はたして、この「わたし」は単なる媒体として使われている「被害者」なのだろうか?と。


「いっさいの識別のない状態」の観察者であったわたしは、観察者以前に、覚醒そのものとしてあったのではなかったのか?

そこに気づいて主体の転換が起こったとき、覚醒そのものが一斉にざわめきはじめ、莫大なエネルギーのなかにホワイトアウトしてわたしは一瞬にして消えてしまった。

ホワイトアウトした先のことを、わたしは知らない。

ただ、消えゆく一瞬のうちにかすかに、背後のブラックホールのような巨大な存在の手触りを感じることができるのみである。


ホワイトアウトするときも、ブラックホールの手触りを感じるときも、現象へ「前」へ飛び込むときとは逆に、見えない「後ろ」へ吸い込まれて消失するだけなのだ。

あとのことは、わたしの知らないところに任せておくことしかできない。

そして、任せておくことに、わたしは絶対の降伏と信頼をもつのみである。


いつだって、必要なときに必要なことを、そうでしかないタイミングで見せてきてくれたもの、それへの信頼だけが、必要であればわたしをまた導いてくれるであろうから。



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