5. 愛・信頼・祈り・無私・善悪・覚醒の鍵

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●愛・信頼・祈り
①水平方向へと現象が生まれ出ようとするのを見送りつづける気づきの閃光の座(身体でいうと松果体のあたり、ただし松果体そのものではない)と、②背骨の内側あたりに沿って垂直方向へと引き上げられる生体エネルギーとが交差するとき、Gのかかるような衝撃を伴うスパークが起こる。
(このとき、生体エネルギーが頭頂から抜けてしまうとホワイトアウトしてしまって気づきが保てない)
その瞬間、覚醒側のベクトルの引力が、現象発生側のベクトルの引力に勝って、ベリッと音をたてるかのように観察者の座が覚醒と発生の「あいだ」の座に引き戻され③両者の拮抗する引力のあいだで浮遊しながら現象発生を待機している状態に「帰還」する。
その後は、上に述べたように、④無数の発生の可能性の萌芽が顕れては消えて行くのを絶叫マシーンに乗っているかのように怒涛のごとく「見せられる」。
「あいだ」は、真空の産道を遡って突然開けるような、圧倒的なエネルギーと絶対的な無音の狭間である。
この一連のプロセスにおいて、②垂直方向の生体エネルギーが昇った瞬間から④までは、あっという間に起こる。
しかし、①水平方向へ発生する現象を見送りつづける段階では、未だ現象側の身体との同化に「片足をつっこんでいる」状態のため、帰還できるかできないかの正念場となり、初めて体験するときは、鋭利な気づきであらゆる現象を見送り続けるエネルギーとともに能動的な意図のベクトルを「完全に手放す覚悟」がいる。
この、「完全に手放す覚悟」というのが、エゴにとっては崖から飛び降りて自殺するような恐怖となるのだが、恐怖に打ち勝てるかどうかが分かれ目となる。
ここで必要になるのが信頼・愛・祈りの「純粋な」エネルギーである。
これらのヴァイブレーションは、覚醒へと遡るための意識の針穴の入り口を探りあて、引力に逆らって抜けるための鍵となる。
この鍵がないと、エゴはエゴ自身を自力では捨てきれない。
最後の最後、引力に逆らって針穴に吸い込まれるためには、引力の拮抗のバランスのなかで、恐怖のヴァイブレーションに勝る高く精妙なヴァイブレーションの手助けが絶対に必要となるのだ。
そのヴァイブレーションは、現象側からみれば信頼・愛・祈りであり、覚醒側からみれば慈悲である。
(純粋な慈悲は覚醒側からしか起こらない。慈悲は現象側の個対個で起こるものではない。見かけ上エゴ感覚が少なくなったときに慈悲に近い意識にアクセスはできるが、本当の慈悲そのものではない。覚醒側の慈悲は、人間から見て必ずしも「慈悲的」ではない場合もある。人間が、すべて思い通りにいかないのもその理由である。たとえば瞑想において最後の通過点を目の前にして慈悲が手助けするかしないか、しない場合もそれは慈悲ゆえなのである。覚醒側からの慈悲はいまこの瞬間も常にすべてにおいて働いている。)
ここで問題なのは、人間の信頼・愛・祈りの感覚には、「意味」と「意図」が分かちがたく結びついてしまっていることだ。
そもそも、言葉で名づけられている段階で意味が付随してしまっている。
人間は意味の付随しないそれらの純粋なエネルギーを理解しづらい。
そのため、現象側から発信する、意味が付随している信頼・愛・祈りは、すでに純粋なヴァイブレーションではなく微細な色がついてしまっている。
この色が、現象発生の方向へのゆらぎとベクトルを生じさせてしまい、ピンポイントで針の穴を通れなくしてしまうのだ。
ゆらぎが生じるとどうなるか?
現象側のエゴの恐怖のほうが打ち勝って引力の綱引きに負けて引き戻されてしまうのである。
この色自体が、エゴの萌芽なのだ。
すべてのプロセスはエネルギーバランスのシステムとして厳密にあって、ぴったりと、そうでしかないバランスで鍵があわなければ通りぬけることができないのだ。
しかし、意味を排除して、純粋なヴァイブレーションだけを抽出するのは、一度でもそのヴァイブレーションを正確に経験したことがないとできない。
ではどうするか?
最後の瞬間がやってきたとき、意図せず任せるしかない。
それがうまくいくかうまくいかないかを意図せず、来るか来ないかも期待しないで在る。
それしかないのだ。
そして、いっさいのベクトルの発生していないその意識こそが、純粋な信頼・愛・祈りのヴァイブレーションなのである。
純粋な祈りは、対象へ向うものではなく、それ自体の中心にぴったりと重なっているところで湧き起こる。
この状態だけが鍵になる。
ある意味、いっさいを任せてしまったときには、過去のカルマのすべてがその瞬間に集約されるといえる。
つまり、通れるか通れないかはすでに決まっており、その段階で画策しても無駄なのである。
その事実を全面的に受け止めきれるかどうか、それに尽きる。
だから、人間の愛や信頼の感覚を意図的に覚醒に利用しようと思っても、意味と意図のベクトルが瞬時に働いて、ヴァイブレーションだけを抽出することは絶対にできない。
利用しようと思う事自体が、純粋な信頼のヴァイブレーションではないのだ。
この一連のしくみを知らずに、邪魔なエゴだけを消して覚醒にたどりつこうとする試みは失敗に終わる。
もし本当に任せきることができるのであれば、エゴという機能は消す必要はない。
エゴは勝手に退くからだ。
●無私・善悪・覚醒の鍵
意味付けされない純粋な信頼・愛・祈りのヴァイブレーションとはなにか?
たとえば、「あ」という文字をみたときに、[a]という発音や、文字に付随する意味や連想を一切排除して純粋に「あ」を見ることができるか?というのに似ている。
そもそも純粋な「あ」とはなにか?
覚醒側から、すべてがエネルギーバランスにおけるシステムであるとみるとき、人間にとって意味のある愛や信頼や祈りもまた、相対的な位相に位置する単なるヴァイブレーションなのである。
これを聞いて、分離の幻想に苦しみ愛を求める個別のエゴや魂の感覚は否定されたと感じるかもしれないが、本体の覚醒の場における純粋なヴァイブレーションに触れたとき、今までエゴが愛だと意味づけていたものがいかに小さく粗く限定されたものであったかを知る。
人間の器で感受できうる愛の振動はとても小さく粗い。
だが見かけ上、本体から分離しているという感覚があるからこそ、(本当は離れているのではなく、別の対象に意識がフォーカスしているのでひとつであることが「隠れている」だけなのだが)ひとつに戻ろうと引き合うときに愛の振動を感じることができる。
意識を占有している対象物がなくなり、ひとつであったことを思い出しそうになる、そのとき振動するその感覚に、現象側から「愛」という名前がつけられた。
(そもそも日本語には愛という言葉はなかった。キリスト教の用語から輸入されたのだった。)
覚醒側からは、愛を愛と認識してはいない。
認識してはいないが、莫大なエネルギーとして内在している。
それは必ず、分離の幻想があるからこそ、愛の感覚として感じ取られるのであり、愛の尺度は覚醒との距離が近いか遠いかのバリエーションにすぎないのである。
皮肉なことに、分離があるからこそ、愛を感じることができるのだ。
分離の幻想が少なく、覚醒との距離が近ければ近いほど愛は純粋なヴァイブレーションとして現象側で高速に振動して至福感をもたらす。
完全なる無私の状態のとき、その振動は最高潮となる。
なぜなら、エゴのない無私の状態こそが覚醒に一番近いから。
覚醒側からみたとき愛は単なる(しかし莫大な)ヴァイブレーションであるが、現象側の愛の感覚が人間にとって直接的に響き至福をもたらすものであるということこそ、ひとつであること(分離の幻想がないこと)が、人間のもっとも望んでいるものである証明なのだ。
この感覚を忌み嫌う構造と機能をもつ別次元の存在もいる。
それは分離と拡散を促す方向の役目をもたされたエネルギーの存在である。
この存在にとっては、ひとつであることが苦であり、分離拡散していくことが快なのである。
ビリビリとした振動とともに針穴をみつけた最後の最後で、この存在が帰還を阻もうと甘い言葉、あるいは恐怖をあおる言葉をささやいてくる。
ほんとうに、直接ささやいてくる。
この誘いにほんの少しでも意識を向けたとたん、一瞬の気絶の後、再び産道から唐突に現象世界に生まれ出ている。
最後の最後まで一瞬たりとも無自覚であることを避けなくてはならない理由はここにある。
ワンネスを愛と感じ、分離を苦と感じるようにつくられた人間は、この存在を邪悪なものと感じるだろうが、エネルギーバランスの采配のシステムにおいてはこれもまた、全体の拡散と収縮を司るバランスに必要なものとして「わたしたちのなか」にある。
善悪や好悪の感覚もまた、人間が意味づけしているものであって、すべてはエネルギーバランスにおける相対的なものである。
人間にとって意味づけられているような絶対的な善悪というものはない。
システムに基づく相対的な「差異」と「エネルギーの高低」と「引力のバランス」だけがある。
続き ⇒ <6.3つのセンターにおけるワンネス体験> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】
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