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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <6.3つのセンターにおけるワンネス体験>   

2019/09/26

6. 3つのセンターにおけるワンネス体験


●3つのセンター

ひとくちにワンネスの体験といっても、実はその顕れかたにはバリエーションがある。

さまざまな覚者のいうことに微妙な相違があるのはそのせいである。

わたしはこの相違の理由が、実際に体験するまでわからなかった。


覚醒に帰還するとき、3Dに生まれ出てしまったわたしたちは、見かけ上の身体のエネルギーと空間的位相を利用する。

このことはすべての3Dの存在が避けては通れないものである。

たとえ身体がなくなり意識だけが拡散したと感じたとしても、それは先に身体に同化していた感覚ありきなのである。


覚醒側から身体を純粋な機能として見たとき、3つのセンターというものがある。

①頭(認識の座)
②ハート(振動の座)
③丹田(存在の座)

(これに加えて①~③を統合する④頭頂(消失の座)がある。ちなみに④におけるホワイトアウトと認識の座の気絶とは消失の次元が異なる。)


これらは、現象側からひとつながりの身体としてみたときは、見かけ上、ひとつの身体の枠の中に縦に順番に並んでいるように感じられるが、覚醒側からみたとき、それぞれの機能は独立した位相にある。

3つの位相が現象側に顕れるときは、ホログラムのように別方向からの3つの機能が並んだところに身体という枠の意識が創られるようなものといえる。


現象側の感覚からみたとき、

①頭(認識の座)の座標は、頭部の中心の松果体のあたりに位置する。(名づけられた器官である松果体そのものではない)通常の人間が「頭の中心」と感じる場所の、ほんの少し後ろにある。

②ハート(振動の座)の座標は、心臓の後ろの右端が触れるところと背骨との間あたりにある。これも、人間が通常「ハート」と呼んでいる場所の位置からほんの少し後ろにある。

③丹田(存在の座)の座標は、恥骨と尾てい骨のあいだにあり、女性の子宮の位置に近い。
これは人間が通常「丹田」と呼んでいる位置よりも少し下であり、たいての場合、恥骨と尾てい骨の間の水平バランスがズレているので正確に感じることが難しい。


ここで注意が必要なのは、これら3つのセンターは、物理的な内臓などの位置ではないということである。

センターそのものは、何も対象として触れていない空間のようなものとしてある。
そこは、物質と意識の境目の消失点のようなものとしてある。


しかし、人間は対象物がないとその存在を認識することができないため、便宜上、身体の内臓や骨の位置の感覚をたよりにそれとの距離を探るしかない。

だがそれらは、身体の物質的な実感のある場所よりも、ほんの少しズレたところ、「あいだ」にあるのだ。
 
逆にいえば通常、実感の感じられる場所というのは、すでに対象物に触れてしまった後の現象世界の中の座標なのであり、その感覚をいくら強化していっても覚醒本体には遡れない。


これら3つのセンターのそれぞれの消失点は覚醒に直接つながっている。

だが、「各センターはそれぞれ単体ではそれそのものを認識できない」。

覚醒の見え方のバリエーションは、これら3つのセンターの複合的なコンビネーションによる。
 

先に述べた、わたしの認識の座における体験は、認識の座が優位に立った覚醒の見え方だったが、存在の座が背後のベースとしてあったうえで成り立っていた。

なぜなら、最後の瞬間にいたるときまで、現象世界における存在の座があったうえで、そこから無限に後退していくという見切りのプロセスを利用していたからだ。

このとき、存在の座は消失の目的には利用されず、現象側の対象物として利用された。


●それぞれの機能とワンネスの見えかた

①認識の座は、純粋な観察者として機能しており、それ単体では対象物がないと認識できない。すべてのワンネス体験のコンビネーションは、度合の差はあれ、認識の座を必要とする。なぜなら、これがないとなにも見ることができないから。認識の座は、それがそれそのものとしてあるとき、個人的な観察者としての意識は消えている。だからワンネスの体験においては観察者としてのわたしはなくなっているかのように見え、他のセンターの体験が全面にでてくるのだが、観察者の機能は、それらを体験するうえで背後にまわっているだけで必ずベースとしてある。

②振動の座は、先に述べたように、覚醒との距離(の幻想)によって振動を変える、現象との中間地点のようなものである。純粋に振動だけが抽出されたときは消失点に吸い込まれるような空間的座標のないもののように感じられるが、現象側に顕れでているときは現象すべてに直接ふれてそれぞれの振動とともにあるかのように感じられる。それは裏と表のすべてに触れて無限の空間に水平に飛び出していくような触覚のようなものとしてある。個別の魂の感覚や愛の感情といったものは、この機能にエゴ感覚が結びついた、二次的な副産物である。この感覚も、それ単体では認識できず、認識の座の観察者を必要とする。「すべてが愛であった」という体験は、振動が、覚醒側ではなく現象側に触れている感覚の度合のより強いときに起こる。「神の愛」を感じるというとき、それは「神」という対象物がまだある、こちら側の話なのである。もし、覚醒側のハートに対応する振動に直接ふれたとしたら、愛を感じる間もなく、その莫大なエネルギーによって一瞬にして身体など吹き飛んでしまうだろう。

③存在の座は、文字通り存在の感覚と結びついている。「在る」という純粋な実態感、あるいは「わたし」という純粋な実態感はここから生じる。(ここでいう「わたし」とはエゴ感覚とは異なる)この座において心身脱落するときは、ダルマ落しのようにすとんと落ちて、丹田の器にパカっとハマると同時に個別のエゴの枠が抜け落ちる。存在の座は、もともと内在的にすべての現象を包括していたのだが、存在の座に心身が脱落したとき、「わたし」の感覚が占めていた場所が本来包括していたすべての現象と置き換わる。そのとき、わたしの中にすべてがあった、という体験が生じる。こうして、このセンターで消失点に触れたとき、「わたしの中にすべてはあった」「わたしは在る」という感覚とともにワンネスを見るが、このときもやはり、①の認識の座の純粋な観察者を必要とする。このとき重要なのは、①の観察者が③の代替としての「わたし」という個別感覚を持たずに、背後の観察者として消えていられるかどうかである。また、現象の対象物やストーリーに結びついた自我の実態感も、より物質に近い次元でこの座を借りて起こるが、それと純粋な「わたし」の実態感を混同してしまうと「自分が悟った」という的外れな感覚が生じることになる。また、③に脱落したときに①の認識の鋭利さが弱いと、気づきの目が開いていないまま暗闇の空間にはまりこんで何も動かない(触れてこない)無として在るように勘違いすることがある。


以上をふまえ、①~③の配合の割合でワンネスの体験の見え方のヴァリエーションが決まってくる。

また、各種の覚醒のための修行体系というものも、①~③のどこにフォーカスしているかの度合で異なってくる。


最近のさまざまな覚醒の報告をみると、深さの差はあれ、②と③の配合率の高いコンビネーションが多くみられるように感じる。

①と③は比較的、突発的に起こる可能性が高いように思われる。(ただし、③は深さの差が出やすい)
このとき①は、「透明な気づき」という名のもと、うっすらとしたイメージとして背景にひっこんでしまっている。

しかし水を差すようだが、①の認識の座が確立されていないと、それらの体験は偶発的な一瞥に終わり、体験の意味や構造の全体を理解することが難しい。


認識の座が確立されていないと、すぐに現象世界へ引っ張られて戻ってしまい、体験の神秘を現象世界の論理で語るにとどまってしまうのだ。

優位なセンターの体験のひとつですべてが終わったと思ってしまう。

そして、いつのまに現象世界のうねりに飲み込まれて「すべてはわたし」「あるがまま」や「愛」の名のもと、再び流転を続けることになる。


だから、最初に述べたように、①の認識が確立し、自動化される必要があるのである。

3つのセンターの体験は、認識されていないだけで、実はすで備わっている。

それらは、別の対象物に占有されている認識の瞬間において、ただ隠れているだけなのである。

つねにすべてのものがそれらに触れてあるのであって、すべての人間は覚醒を読み取ることが可能なセンターをはじめから割り当てられている。


これら3つのセンターは必ずしも現象側においてひとつに統合される必要はない。

むしろ統合しようという試み自体が、身体への同化の強化と、現象側において「いつか未来に統合されうるもの」という、意図のベクトルを発生させてしまう。

そもそも3つ同時に身体というひとつの入れ物に並んでいるというのが幻想なのだ。


逆にいえば、各センターという覚醒のポータルが現象側へそれぞれが司る機能を顕すために、見かけ上身体という枠がつくられ、そのなかに配置されるというアイディアが採用されたのだった。

現象側のわたしたちは、その配置にしたがって担当者意識として采配される。


それらは個々の機能であって見かけ上わかれているが、それぞれの消失点においてはひとつの覚醒の場にある。

現象側においては、統合はされていなくても、上記のようにコンビネーションの形はとる。

そのときも、3つ同時に機能させようとこちら側から意図する必要はないのである。


3つの機能によるそれぞれのワンネス体験を経験することは、現象と覚醒の多元的な理解に役立つ。

覚醒とは、3Dの現象側のひとつの側面だけですべて説明できるものではないのだ。

覚醒へ遡ろうとするとき、3つの機能が本来の純粋な機能としてそれぞれ自動的に働いている状態を知っておくことは、帰還の確率を高めるといえる。

純粋な機能とは、それぞれのセンターの役割に人間側の意味やストーリーといった不純物が混じっていない状態である。

すなわち、先の③であれば、存在のセンターの純粋な「わたし」とエゴを混同していないことであり、②であれば、純粋な振動とエゴの愛や感情を混同しないことであり、①であれば、純粋な気づきとエゴの思考や判断を混同しないことである。


また、①②③相互のあいだの機能の取り違えと混同を避けることも重要である。

これらの混同を注意深く見切って、各センターの純粋な機能を自動的に働かせることができたとき、エゴに依っていたそれらの存在のコントロールを忘れて、手放しで任せてしまうことに専念できるのだ。

混同を避けるためには、各センターに無自覚に混入していた不純物を注意深く無限に見切っていく必要がある。

この作業はエゴにとっては面白くないし、自動化されるまでは強い意志と根気がいるだろう。


ちなみに、わたしの場合、②の体験は、幼少時に一瞥はしてはいたが、明確に理解できたのは①の体験の衝撃の数年後、③→②の順番でそれぞれ意図せず突発的に起こったことによる。③は通勤電車で座ってうとうとしていたときに突然、すとんと心身が丹田へ抜けおちるように脱落し、すべての事象を枠のないわたしの「なか」で見ていたのである。わたしはフォーカス機能そのものとしてあり、わたしのなかで物事が起こっているのをただ見ていた。②は、なにげなく参加した、とある聖者のセミナーで激しい呼吸法を実践したあとの瞑想中に起こった。それは、ジェットコースターが頂上まで登っていって、ぐわんと一瞬浮いて落ちる瞬間のように、身体を置き去りにして、現象と表裏一体になった無限のハートの面が空間に飛び出し続けていくような感触なのだった。(このとき一瞬、本気でこの聖者に帰依しようかと迷ったほどの体験だった。)


これらの体験は意図せず唐突に起こったとはいえ、20代から30代にかけてバレエを基本とするボディワークで、縦の軸を意識しつつ、3つのセンターの機能を細かく観察して機能そのものを抽出する作業をひたすら毎日、地道に行っていたころの経験が下地になっていたといえる。



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