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<7.死・誕生・運命・カルマ> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】

2019/09/26

7. 死・誕生・運命・カルマ

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●死

覚醒側からみたとき、現象世界と同化する以前の観察者の意識は、3Dの身体の生成以前に存在している。

すべてを内包する覚醒において、意識はどこへも移動しない。

3Dの現象世界において身体との同化から離れたとき、すなわち肉体の死によっても、意識の見かけ上の連続性がなくなることはない。
 

ただし、覚醒を知らずに死んだ場合、死後に連続しているのは未だ現象世界側にフォーカスされたままの意識の延長である。

死の直後は肉体がなくなったことにより突如として3Dの次元から開放されたように感じはするだろうが、それは覚醒そのものではなく、フォーカスが別の次元に移っただけなのだ。


覚醒側から見ればそれは、死ぬ前と同じところにあった意識のフォーカスのチャンネルが変わっただけなのであるが、覚醒を知らずに死んだ場合は、肉体を離れた瞬間、気づかないまま即座にチャンネルが変わって別次元の法則の現象世界に入っている。

そのしくみを体験的に知らない場合、死ぬ直前まで意識がフォーカスしていた3Dの物理法則の延長の感覚を引きずったまま、「肉体という物質から意識が出て、死んでも続いている自分の意識が別次元の世界にやってきた」と思う。


しかし、連続している本体はあくまでも覚醒側の不動の意識なのであって、見かけ上連続した自己の意識が、これもまた見かけ上同化していた肉体から「出て」、別次元の世界に「自分が」移動したからといって、それは未だ現象世界の構造のなかの一部にすぎない。

わたしは明確な臨死体験や前世記憶や胎内記憶があるわけではないが、瞑想やいくつかの一瞥体験によって覚醒の意識の不動性と、身体への同化からの離脱と、現象世界へと意識が入る瞬間のしくみを明確に見たので、肉体の死をむかえても現象世界における見かけ上の意識の連続性と新たな世界へのフォーカスチェンジが即座に起こるであろうことには疑いを持っていない。


その瞬間を自覚的に見切って覚醒の意識のポジションに戻れるか、無自覚的に次の世界へ入って見かけ上の生の続きに同化するかどうかは、生前の認識の座のレベルによる。

そもそも肉体から「出た」という感覚自体が、肉体との同化の幻想ありきの感覚なのだ。

それまであまりにも強力に肉体と意識が同化していたので、その同化意識から離脱したときの肉体の重いエネルギーからの開放感に衝撃を受けるだろうが、もともと肉体はリアルな3D世界を成り立たせるために便宜上このような見かけと質量をとっているのであり、その担当者として個別の自我意識が瞬間瞬間に発生していただけなのだ。


肉体から開放されると、飛ぶような軽さとともに、認識のシャッタースピードとフォーカスする現実のチャンネルが変わる。
(個々の生前のエネルギーの質量にしたがってフォーカスされるチャンネルが即座に采配される)

チャンネルが変わっても、どこか別の場所へ移動したわけではなく、意識の本体は同じところにあって、フォーカスされるチャンネルによってそれぞれの時空の幻想に入る。

身体の重さを感じていた物理法則から開放されるので、思考様式もその感覚にあわせて変わり、認識機能が肉体の目から開放されることにより、認識のシャッタースピードが変化する。

肉体に同化していた3Dの現象世界における認識は、0.1~2秒に一回程度のスピードでシャッターが切られ、実はそれぞれの静止画が連続して動いているように脳内でつなぎ合わせてみているのだが、肉体の目から離れたとき、シャッタースピードはより素早くなり、それぞれの静止画へのフォーカスする集中度が飛躍的に高まる。


なぜ、同化がなくなるとシャッタースピードとフォーカスの集中度が高まるかというと、ひとつは肉体の脳と目の物理的認識機能に限定されなくなること、もうひとつは肉体への同化に払っていた多大なエネルギーを純粋な意識の目として見ることだけに使って集中できるようになることがある。(肉体への同化のために使っていたエネルギーのロスがなくなる)


シャッタースピードとフォーカスの集中度が高まると、時間の感覚が変わる。

たとえば、3Dの現象世界における1秒が、無限にひきのばされる。

3Dにおける1秒は人間のシャッタースピードの0.1~0.2秒で感じていたときの相対的な「1秒」なのであり、0.01秒のシャッタースピードになってその1コマ1コマを見切ることができれば10秒の感覚として感じられ、0.001秒のシャッタースピードになれば100秒の感覚として感じられるようになる。


これは、3Dの現象世界における「ゾーン」状態に似ている。

たとえば、野球でピッチャーが投げた球が、ゾーン状態に入ったバッターにとってはスローモーションで見え、あたかも時間がひきのばされたかのように見えるという。

この状態のとき、3Dにおいて高速に見えていた現象がゆっくりに見え、3Dでは見えていなかったさらに高速なものが見切れるようになる。

(ちなみに、あるがままとは、認識のシャッタースピードによって見え方が変わる。
3Dの通常モードのシャッタースピードは遅く、遅いがゆえに、面や空間の「出現」と認識を可能とする。
シャッタースピードが速くてその前に見切ってしまえば、3Dの時空は出現する前にバラバラになってしまう。
逆にいえば、3Dを成り立たせるのにちょうどいいように、担当者であるわたしたちの認識のシャッタースピードは今のように設定された。
そのスピードにあわせて、人間の社会のすべては構築された。
シャッタースピードの異なる別次元の存在がいるとすれば、まったく別の社会と構築物を築いている。
気づきの瞑想でゆっくり動いたりするのは、対象の動きのほうを通常の3Dよりさらに遅くし、この3Dの遅いシャッタースピードでも面と空間の連続性を疑似的に分解して感じられるようにするためである。
しかし、認識の訓練によってシャッタースピードがあがれば、ゆっくりうごく必要はもはやない。)


こうして、時間が無限にひきのばされた結果、夢をみるときと同じように、一瞬のうちに別次元に入り込み、あたかもそこに長時間いて別の世界を体験しているように思う。


このとき、肉体に同化していた生前、なにかを強く信じていればその信じているものに会ったりその世界に行ったりするだろう。

また、生前の意識のレベルによってフォーカスする周波数が違っているので、その周波数に合うところへ即座に采配されるだろう。


どこへ采配され、なにを見るかは、生前からのエネルギーと認識レベルによる。

周波数が合わないところへ行っても自己の存在をその次元のシャッタースピードでは認識できないので、当たり前のようだが、存在可能なレベルのところでしか個別の自己としては存在できない。


より目覚めた意識においては見切りのスピードが速いので死の一瞬が無限になる。

そのとき見える世界は3Dの物理法則とはまったく違う次元だろう。

3Dで肉体に同化して生きているうちに別の次元を体感的に直観できていれば、その世界に行くことも不可能ではない。

(ただし、フォーカスしたところに空間と時間と自己の感覚を伴って入っていくうちは、いくらすばらしい無限の梵天のようなところに入ったとしても、それも現象側の世界のことである。)


また、より見切るレベルが低い場合は、生前の3Dの物理法則の延長に近い世界か、それ以下の(それまでの肉体感覚からすれば)重くて単調な世界に入るだろう。

見かけ上の慣れ親しんだ法則をよりどころに存在を発現したければ残存している身体意識の感覚をもとに、意識で身体や物質をつくるだろう。(これは発現の構造としては3Dにおいても同じである)

無の志向が強ければ無のフォーカスの暗闇に長い時間動かずにいることになる。

そこで意識が気絶していれば存在していることにも気づかずずっとそこに在るだろう。

気絶していなければ無のイメージのなかで目だけ覚めている状態にとじこめられるだろう。(これを無や解脱と勘違いしないこと。)


死に際して、時間が引き伸ばされ次の世界へのフォーカスが決まる瞬間が、脳の死の前か後か、死の直前の脳内現象かそうでないか、という議論は意味がない。

どちらにしても意識の見かけ上の連続性においては同じことだからだ。

そもそも3Dの身体自体が幻想の産物なのだから。

(だがおそらく、次の世界へ入る瞬間は脳にプリセットされた機能を利用している。あるいは、たとえ脳死をむかえた後だとしても、同化していた身体の残像機能のようなものが残っているうちにそれを利用しているだろう)


3D世界においてこの一瞬の夢の引き伸ばしで体験する世界を「死後の世界」と呼ぶならばそれはそれで間違ってはいない。

一瞬の夢で見た世界が「死後の世界」という現実であると認識されるのならば、それはその人にとって現実なのである。

そもそも夢の世界も3Dの現実世界も、同じ幻なのだから。


●誕生

誕生もまた、意識の見かけ上の連続性のうちに起こる。

死後、それぞれのタイミングで覚醒側のエネルギーの采配によって無数の現象世界のうちのひとつのコマに入る。

人間の場合、通常は子宮が特定の現象世界のコマに入るときのポータルとなる。

意識が新たな身体を形作るときに、現象世界の子宮というポータルを必要とする。

意識の特定のエネルギーと現象側の子宮のエネルギーが引き合って、マッチングした瞬間、子宮に入っている。

このとき、真空管に吸い込まれるように一瞬で入るものと思われるが、もしかしたらこの瞬間にその前までの記憶が飛んで気絶するのかもしれない。


前世や胎内記憶のある子供は「むこうの世界」から現象世界をのぞいていてポータルである子宮の母体を選択して生まれてくるというが、認識レベルが鋭利で生まれる瞬間に意識が気絶しなければ、こちら側の世界に入る瞬間を見切ることもできるだろう。

真空管に吸い込まれるように現象世界に飛び込み、身体があたえられ、むこうの世界から連続した明晰夢をみるかのようにこの世界で生きることになるだろう。

通常の人間は、夢に入る瞬間を見切ることができないように、現象世界に入る瞬間も見切ることができず、いつの間にか子宮に入り眠ってしまい、出生後、自意識が芽生えてやっと世界に生まれたことを認識する。
 

生前に認識の座をある程度確定しており死後のフォーカスの場で気絶しないでいられれば、少なくとも現象世界のコマに入る瞬間までははっきり自覚があるだろう。

ある程度、前の生で認識の訓練をしていた者は、肉体の機能のみに意識が制約されていない(通常の人間のように肉体ありきで意識が発生していない)ので、子宮に入ってからも連続した胎内記憶がある場合もあるだろう。


●運命・カルマ

次に、運命は決まっているのかいないのか?

先にも述べたとおり、覚醒側からみれば1ミリの動きさえ自分でやっていないので、エネルギーの引力の采配によって運命はすべて決まっているといえる。

だが、「わたし」というひとつながりの自己感覚が瞬間瞬間に采配されるものであるとき、無数の自己が瞬間瞬間において無数の可能性を「乗り換えて分岐している」とも言える。

見かけ上の連続体である「わたし」は、瞬間瞬間に無数に乗り換えている「わたし」のなかから3Dの直列的時間の流れとして整合性がとれるように選択・編集されたものである。

そもそも過去・現在・未来・運命・カルマというのは、直列的時間に順番に並ぶ個別の「わたし」という感覚がなければ成り立たないし意味を為さない。

その意味では、運命やカルマというのは幻想である。


しかし、直列的に見かけ上配列される「わたし」というエネルギー群があるとき、配列の幻を創る采配は厳然としてあり、その采配を「運命を司るもの」、エネルギーの引き合いのバランスを「カルマ」ということはできるだろう。

覚醒においては直列的時間は存在しないため、過去現在未来は瞬間瞬間に同時に采配されており、3D側からみたときそれらは順番に並んだものとして(過去の現象は前にあり、現在の現象は今あり、未来の現象は先にある)いまこの瞬間に認識される。

これは3Dの感覚からすれば非常に理解しづらいが、つまり、いまこの瞬間に同時に過去現在未来があり、現在の一点が切り取られた瞬間に過去と未来が直列的・空間的に展開され認識されるのである。


この構造において、すべての現象の采配自体、覚醒の一点において同時に起こって同時に終わっている。(というより、直列した時間がないので始まりの起点と終わりの終点がない)

よって、カルマや運命というのは、直列的時間の感覚に生きる3Dの人間にとってのみ問題なのだということができる。


3Dにおいて直線的時間の整合性ある現在の生を今世とよぶのならば、その過去としての前世があるともいえるが、カルマや輪廻ありきで苦を脱するというアイディアは、覚醒を見切っていない人間に誤解を生じさせやすいかもしれない。

なぜなら、カルマがあることを前提にすること自体が、脱するべき個の意識と時空の概念を強化してしまうからだ。


もちろん、見かけ上の現在に起こってくる不可解な現象の意味を過去からのエネルギーも含めて読み解くというのは心理的な面においては有効だろう。

しかしそれが、覚醒を見切る目的にとっては諸刃の剣となる例を多数見てきた。

覚醒を阻む過去を読み解くうちに、その終わりのない作業自体に際限なくはまっていってしまうのである。


その意味では、まずは認識を鋭利にし、覚醒を見切ることから入ったほうがよいと思われる。

見切った結果として、カルマはある次元からみればあるし、別の次元からみればないということがわかり、そもそも個別のカルマに同化する「わたし」はいないということがわかる。


覚醒側からみたとき、すべての可能性は同時にあるため、個別のわたしから離れれば、すべての3Dの担当者の「わたし」の運命・カルマ・エネルギーの可能性が、いまこの「わたし」の背景にあるといえる。

「わたし」という担当者は無数の可能性のなかから選択され、この瞬間に生まれたのだ。

このエネルギー配列の采配は、3D側からは100%動かせない。


だが、無数に乗り換えている「わたし」の仕組みを見切ったとき、分岐Aの「わたし」から分岐Bの「わたし」へ見かけ上、能動的に乗り換えることは可能である。

そのとき、覚醒側からみればまったく新しい「わたし」としてフォーカスする現象のコマがチェンジしているのだが、3D側からみたときは「わたし」の見かけ上の連続性のうちに切り替えが起こっている。


この時間と空間の幻想自体が3Dにおいては「リアル」「現実」として通用しているため、ある意味それはひとつの共通認識として正しいものともいえる。

しかし、覚醒を知ったとき、この共通認識の仕組みを見抜き、新しい意識で3Dに参加することになる。


新しい意識においては、現象に「入ってしまう」ことの前に踏みとどまってエネルギーのアイドリング状態で「見ている」こともできるし、意識的に「入ってしまって」没入したり出たりすることもできるし、覚醒の意識につながったまま明晰夢のように現象世界を散策することもできるようになるだろう。

今まで見かけ上、カルマとして自動的に3Dの現象世界に采配されていたエネルギーが、新しい意識になってはじめて「半自動で代替(乗り換え)可能」なエネルギーとしてあることができるようになる。

この状態が、目下のところのわたしたちの目標といえる。

そのために、まずは無意識的に「入ってしまって」眠りこみ夢に没入し続ける状態を脱しようというのである。



続き ⇒ <8.現象・魔術・ツボ・物質> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】

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