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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <8.現象・魔術・ツボ・物質>    

2019/09/26

8. 現象・魔術・ツボ・物質


●現象

現象世界とはなにか?

現象世界という空間的に切り離された世界があるわけではない。

現象世界のなかで起こっているすべてのことは、覚醒において同時並列的に始まって終わっているものの3次元的残像である。

現象世界で起こっているすべてのことは、覚醒側のエネルギーバランスと瞬時に結びついており、ひとつの構成要素が抜けても全世界が瞬時に崩壊する。

たとえば今、手を1ミリ上げることが、全世界を覚醒側から同時に動かす。

手を1ミリ上げることが今起こったとしたらそれは覚醒が覚醒しているために絶対的に必要な采配のバランスであったためであり、見かけ上の手の持ち主であるわたしはそれによってその瞬間すべての創造に関与したことになる。

この世界を創造するために、それは1.1ミリでも0.9ミリでもなくその瞬間、1ミリだったのである。


わたしを空にして覚醒に差し出したとき、わたしの認識機能と多次元の断続的連なりであるわたしの身体は、覚醒そのものとして瞬間瞬間に全世界を動かすものとしてある。

この意味において「起こることが起こる」ということが強烈な触覚をともなって、存在の根本を直接えぐられるように認識されなければ覚醒といえない。


それは現象の個別のストーリーや風景としての3D残像の表面を見て「起こることが起こる」と一喜一憂するような癒しや感情や概念のレベルではない。

たとえば足を一歩前に出すことは、身体の下部に生えている自分の「足とよばれるもの」を、「前と認識される」方向へ自分で出しているように見えるが、それは覚醒側からの采配によりその瞬間、「足とよばれるもの」がその質量ぶんの空気を押しやり、目の前の「空間」に突然出現してきたのである。

その「足」が自分の身体に一続きにつながっているものであり、連続する時間と空間のなかで自分が動かしたという感覚は、後付けの脳内編集によって起こる。


覚醒を知った意識でこの現象を3D側からみたとき、覚醒側からのエネルギーの采配というブラックボックスを経て、突如として現象が瞬間瞬間に顕れ出てくるように見えるようになる。

采配はあまりにも複雑精妙であって、そのしくみは人間から見ればまったくのブラックボックスである。


●魔術

ただ、こちら側からみれば、すべてのものがあたかも魔術のように、采配の妙によって唐突に出現して見かけ上の整合性をもって配置される。

この整合性をもった配置を「あたりまえのもの」として見ていた視点から覚醒の意識へシフトすると、現象世界に顕現するあらゆる瞬間が驚異的な魔術のように感じられる。

こうやって「足」が「前」に出たとき、その動きは即座に全体のエネルギーバランスと配置に作用し、それによって覚醒側の次の采配にフィードバックされる。


この一連のプロセスは、覚醒側からみればひとつのところで同時並列的に起こっているのだが、3Dの残像を見ているわたしに同化している担当者は、あたかも覚醒側からこちらの空間に現象を投げかけられ、その現象を認識し再編集して再び覚醒側に返しているかのように感じられる。

こちら側とあちら側の双方間のフィードバックの応酬が無限に続くように思われるのだ。
応酬は原因が結果となり、同時に結果が原因となり、全体のエネルギーバランスの采配と連動して果てしなく続く。


全体のバランスをとるために、なぜこのようなしくみでわざわざ3Dの世界の幻を創り、そこで自己の感覚を持たされて見かけ上の行動をさせられるのか、もう少し効率のよいフィードバックのあり方でもよかったのではないかと思いもするが、この3Dと覚醒の関係はなんらかの必然があってこうなっているのだ。

このフィードバックのしくみを知ったとき、見かけ上のわたしの瞬間瞬間の動きは、顕現すると同時に覚醒の采配に即座に連動していると感じられ、まるで覚醒とわたしが二人羽織で3Dというフィールドを利用して、いったん現象として可視化された事象をフィールド内の物理法則を使って動かし、その動きのエネルギーだけを取り出して再びフィールド外の采配にフィードバックしているように感じられる。

覚醒とわたしが二人羽織になったとき、次元をまたいだ「しくみ」の理解が次々におりてくる。

わたしは羽織の中で覚醒の采配が現象世界に顕れてくるのを見ている。

肉体からくる自己感覚の想起と覚醒とのあいだに漂っていると腕の形をしたものがニョキっと視界に唐突にでてきて勝手にうごく。

羽織の袖から出た覚醒の腕が見かけ上、私の肉体の腕としてモノをつかむ。

わたしは自分の意志では腕をうごかしていない。

わたしの腕は私の目の前の机や椅子と地続きの「映像」である。

羽織の中で私のハートと覚醒は重なりあっている。

覚醒はわたしの目をとおして顕現されたものを見ている。

重なりあったわたしと覚醒の主体の比重はゆらゆらいきつもどりつしている。

この状態で足を踏み出して歩きだすことが起こるとき、明晰夢の中のように身体が動き、魚眼レンズのような空間の中に身体が顕れ、足が前に出ているようでも進んでおらず、認識の座は不動で、レンズにうつる景色が認識の目に巻き込まれるかのように移り変わっていくさまが見られる。

それはまるで、移動しないルームランナーの上で歩きながら、周囲の景色が移り変わっていくようなものである。

景色は外側にはなく、すべて内側にある。

見かけ上、外に向かいながら内でトーラスのように3Dの面を「巻き込んでいる」。

身体の表面を覆う皮膚や痛みの個別感覚が「人間の身体感覚という夢を存続させるための戦略として」付帯装備されているために、自分の皮膚の境界の外にあるものにぶつかれば痛いし、自分と外界がわかれて認識されるようにできている。

身体の外だと思っているものはすべて3Dの脳が読み取った映像の投影であり、外を見ているようだが実際は内を覗きこんでいる。


この見えかたは、人間の目が前に向いていて後ろが見えず、意志が未来へ向かい、時間が直列で進んでいくと感じていることから生じる。

これは対象物を外側にあるかのように設定する認識の仕組みのほうが個別の自我が形成されやすかったという経緯による。

原初、アメーバのような形態から進化して徐々に直立し、目の位置が頭部の前方に移動してきたのは、自他の区別をつけ前方の空間の座標に位置する獲物や敵を判別し、個体としての自己が生き残るための戦略であったのだ。

その意味では、認識機能自体がエゴの進化の過程の産物であり、染みついた認識とエゴの関係を崩さないかぎり覚醒を知ることは難しいともいえる。

その付帯装備の幻想をバラバラにはずしたときに、認識の別の様相が立ちあらわれる。


幻想をはずすときには、まず身体感覚と概念をよく観察することである。

自分の手が視界に入ったときに、それは本当に自分とひとつながりの自分の手であるのか?つながっているとしたら自分の何とつながっているのか?痛みや内臓の位置、人間という身体の形、重さの感覚が、個別の自己の整合性をとるために断続的なものをつなぎあわせた「ひとつづき」というイメージとなっていないかどうかを観察する。


現象世界という夢の場にスポンと「飛び入る」瞬間、頭部の意識の座標が生まれ、その奥から見ている感覚になるが、身体意識の希薄の度合によって観ることの視座と空間認識は変わる。

レンズの位置と種類が変わるのだ。

明晰夢的に世界に入って参加するか、監視カメラ的に世界に参加するか、俯瞰的に世界に参加するか、それによって空間認識も変化する。


また、主体の比重によって「わたしが動かしている」という能動的な認識が強くなると、まるでわたしが動くことによって毎瞬毎瞬、世界を動かすためのツボを押しているように感じられる。

この感覚が発動したとき、これまで無意識に行っていた手足を動かしたり呼吸をしたり立ったり歩いたり食べたりといったあらゆるすべての瞬間が意味のあるものとなり、強烈に意識化されることになる。

それと同時に、あらゆる事象や物体の配置、たとえば道端の石がなぜその瞬間その位置にそのようにあったのかということが強烈な存在意義を持ってうったえかけてくるようになる。

なぜなら、その石の位置が1ミリでもずれていたら、この世界はなかったのだから。


フィードバックのしくみには現象すべてのものが同時に参加していて、なにひとつ無駄なことがない。

人間にとって一見、無駄と感じられることもすべて必然で起こっている。


わたしは3Dの現象世界の個別の事象を動かす魔術に長けているとはいえないし、現象とエネルギー采配のフィードバックの「対応表」のようなものを持ち合わせていない。
(現象のこのツボを押すと、この結果が帰ってくる、というような対応表)

もちろん、原因と結果の対応が単純なもの(たとえば、3歩あるけば3歩分の距離を進むとか、キーボードを打てば文字がでるなど)は経験上、だいたい原因と結果の采配の予測がつくが、複雑なパターンやインプットとアウトプットの関係が予測のつかない複雑なパターンについては、ブラックボックスのままである。


ほとんどの人間は、3Dの残像に顕れた事象の組み換えを、その場その場で予測のつく範囲で表面的に行っているだけである。

魔術は、統計的な経験から割り出されたエネルギーの象徴を用いて3D側からフィードバックを能動的に扱おうとするものである。

それは「現象のこのツボを押せば経験上、フィードバックのブラックボックスを通ってこの現象が帰ってくる可能性が高い」という3D側からのアプローチである。


●ツボ

ブラックボックスの仕組みの大部分が謎のまま過去の経験のストックあるいは、直観によるパターンの対応表をもとに意識的にツボを押すことが魔術である。

魔術においては未だ覚醒はブラックボックスの向こうに隠れているが、現象と覚醒のフィードバックの関係のしくみの一部を利用している。

「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という例え話があるが、原因のインプットと結果のアウトプットのあいだのプロセスがあまりにも複雑なため、それぞれの事象だけを個別に見ていても蝶の羽ばたきと嵐との関係性に気付かない。


現象として顕れた問題を3Dの時間と空間のなかで解決しようとするとき、時間の流れに沿って、この複雑なプロセスを逆にたどって原因をつきとめなくてはならないが、非常に時間と労力を要する。

ここにはまってしまうと、前述したようにカルマのブラックボックスを解くために延々と時間をかけることになってしまう。

カルマにおいては原因と結果が無限に絡みあっているので、どこまで遡っても終わりがない。


しかし、覚醒と現象との二人羽織の状態を知り、結果を求めずにツボを押す担当者として徹するとき、原因と結果が直列的時間を経ずに同時にすべて顕れていることを理解する。

そのとき即座にすべての原因と結果のあいだのプロセスが無効となり、先の例でいえば「蝶が羽ばたく」ことと「嵐が起こる」ことのあいだの時間と空間が幻想であり、原因と結果という直列的発想自体が無効であることを知る。


わたしたちは、覚醒側において「蝶が羽ばたく」瞬間と「嵐が起こる」瞬間のエネルギーが交差する一点を、3D側の時間と空間のなかで展開して直列に並び替えて見ているのだ。

それはあたかも、無限に折りたたまれた質量のない折り紙の展開図を3Dにおいて広げるようなものである。

覚醒において「蝶が羽ばたく」点と「嵐が起こる」点はひとつに重なっていたが、3Dにおいて展開してみたら端と端に離れて位置していたようなものとしてある。


このしくみを知ったとき、解くべき原因と結果が幻想として見せられているものであることを理解する。

現象世界は仮想の魔術的空間である。

現象世界側の動きは全体へフィードバックするツボを押す。

意識的にツボを押すときそれは魔術であり、無意識的なとき人はツボ押し要員として使われる。(使われることに一切の被害者意識がなければそれはそれで問題ない)


たとえば一歩足を出すとき、それは即座に全体のバランスに「加担する」。
(あるいは、加担させた結果として足が出る現象が起こった、ともいえる)

「足を出している」見かけ上の主体者が「加担させられた被害者」と思うかどうかは、認識のレベルと立ち位置による。

「歩き」が起こったとき、肉体と同化した「わたし」にとっては「動かされた」という受動になり、覚醒側にシフトしていれば「動かした」という能動になる。


通常、3Dのわたしたちは「わたし」というエゴが能動的に足を動かしていると思っている。

しかし、「わたし」というエゴ感覚は、足が動かされた後に後付けで起こったものなのである。(足が動かされる→身体感覚が生じる→それに付随してわたしの感覚と記憶が立ち上がる→わたしという自己同一性の感覚が生じる)


エゴの機能自体は何も自ら動かしていない。

それはつねに後付で立ち上がってくる概念である。

後付けでエゴが立ち上がるとき、それは必ずしも物質としての肉体感覚からではなく、あらゆるものとの接触から即座に立ち上がる。


エゴ感覚にどっぷり浸っていればそもそも動かされているという「被害者」意識すら出ないが、エゴ感覚が崩れはじめ、覚醒とのあいだで行きつ戻りつしている段階では時として被害者意識が出やすくなる。

(この被害者意識を解脱の原動力として利用したのが仏教である。この世は苦であるというとき、動かされる側の主体にフォーカスしているのである)


●物質

わたしたちは3Dにおいて多層的なエネルギーの交差点を展開図として読み取る、次元転換のアクロバティックリーダーのようなものとして機能している。

現象世界においては仮想の展開図が質量と引力の感覚をもつ。

(質量をもつように感じられるようにわたしたちの感覚は創られ進化してきた。わたしたちのような感覚をもたない存在にとっては、この現象世界をこのような質量や形として見ることはできないし、存在するための意識形態を保つことができない。よって多次元の存在は見かけ上、別次元に住み分けている。)


人間の読み取り機能としての「感覚」は非常に強固にプリセットされており、これによって3D内の物質は今ある形態・質量のように共通認識として決定されている。

たとえば、物質としての肉体の質量と引力への強固な同化によって、目の前の壁の堅さや質感が肉体感覚との密度の対比によって読み取られる。


人間は生まれてから、自分の身体と周囲の物質との接触によって世界の質量と自分との距離の感覚を身につけていったのである。

だから、実際に触れていなくても経験によりある程度、周囲の物体との距離と質量が予測できる。

空間は肉体感覚から距離を測った自己の延長である。

このように、世界は経験的・相対的な予測によって切り取られている。
(だから、「こう見えたらこうであるはず」という予測を誤って錯覚や事故が起こることもよくある)


物質対物質、という感覚があるとき、物質どうしが触れたとき抵抗が生じる。

物質としての肉体が壁に触れるとき、肉体は壁を通り抜けることができずに壁の表面との抵抗を感じてとどまる。

しかし、完全に肉体という物質の幻想が解かれたとき、究極的には壁を通りぬけられる可能性もある。(わたしは今のところできないが)


肉体への同化と物質の質量の共通認識においては、3Dの宇宙空間内に散らばったすべての惑星の引力がつねに多大な影響を及ぼしている。

この物質界の引力(覚醒のエネルギーの引力とはまた別である)は非常に強固で、すべての存在の配置と行動と思考様式を決定してしまう。

ほんとうに、骨の髄まで引力に支配されている。

だから、肉体の同化が強固なレベルにいる人間にとっては、現象世界で物質的に起こったことは物質の移動で対処したほうが時間はかかるが確実であるともいえる。


この引力に逆らって人間の肉体が空中に浮いたりすることはまず起こらないだろうが、少なくとも強固な幻想によって無意識的に組み込まれてしまうことを見切ったとき、引力の法則のなかの肉体は肉体のままにまかせ、本体の意識は覚醒へと帰還することが可能となる。

こういってしまうと、肉体への同化が非常に重くて煩わしいと感じるだろうが、逆にいえば肉体があるからこそ、疑問をいだいて超越することができるのである。

肉体を持ったうえでそれの幻想を解体し、幻想に潜んでいたポータルを見つけて覚醒に帰還するのだ。



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