9. 瞑想・認識・酩酊・うねり

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●瞑想とは
・本来、受動的に起こるものである。
・受動的に起こるようになるまでは見かけ上、能動的に起こす必要がある。
・認識の鋭利さが確立してからはじめて瞑想がはじまる。
・見かけ上とまっていても恐ろしい勢いで動き続けているものである。
・莫大なエネルギーを必要とする。
・身体の生体エネルギーとポータルの交差点で起こる。
・「意識の動体視力」のようなものを発現させる。
・認識の鋭利さが自動化するまでは訓練する。
・自動化されたらそれが発動する場として心身の機能をただ開放して待つ。
・一瞬でも隙があれば崩れる。
・非常に微細なバランスの引力の浮力のうえに薄紙一枚の世界で成り立っている。
・思考を意図的に止めてはならない。
・思考が出て流れていくままにする。
・微細なレベルに至るまで瞑想者のカルマがつきまとう。
・カルマが最後までつきまとうことを知ったとき、探求者は浄化が必要な本当の意味を知る。
・瞬間瞬間に瞑想者の過去の捉われのすべてが影響を及ぼす。
・覚醒を隠している不純物を瞬間瞬間にとりのぞいていくものである。
・しかし、意図的にとりのぞこうとしてはならない。
・信頼にゆだね、瞬間を見切っていくことによって不純物が自動的にとりのぞかれる。
・イメージや心地よさに陶酔するものではない。
・うっとりと酩酊するものではない。
・ホワイトアウトしてしまうと認識レベルがすすまない。
・あらゆるイメージにはまろうとする瞬間を手放す必要がある。
・ただし、物質とイメージと意識の境目を見切るためにイメージが必要な段階はある。
・ある状態にはまりこんで止まっているのはイメージに同化しているためである。
・無のイメージと光のイメージには特にはまりやすい。
・好ましいと思われる状態や体験を捨てていく覚悟がいる。
・次の瞬間まで引き伸ばしたいというあらゆる欲求を見切って手放す。
・あらゆる瞬間の動きを見逃さないための意識の動体視力のようなものが必要である。
・手放すためにはただ気づいて掴まなければよい。
・起こった体験を再現しようと意図しない。
・さまざまな存在が働きかけてくることがあっても耳をかさない。
・信頼があれば必要な助けは起こる。
・必要な助けかそうでないかはエゴには判断できない。
・必要な助けが起こらないのは信頼が熟していないからである。
・信頼が熟すためには一切の期待をせずに瞬間瞬間を見切ることである。
・瞬間瞬間を見切ることへの情熱が勝手に沸き起こってくれば、その恩寵を信頼してよい。
●瞑想のポイントと注意
・認識の鋭利さが自動化される前に意図的に心身を緩めて開放してしまうと、心身に同化する引力にひっぱられて先にすすめない。物質次元の緩みは引力にひっぱられる。
・物質次元を超えた緩みは、認識の鋭利さをもって意識の不純物を手放していったときに「結果として」起こる。
・物質次元を超えたところからくる緩みが起こると、微細なヴァイブレーションとともに身体の境界線がなくなる。
・身体の境界線がなくなったときに認識の鋭利さを維持しないと微細なヴァイブレーションに朦朧と一体化してしまって先にすすめない。
・武士が刀を持っているときの意識のように全方向にピーンと張った意識と微細なヴァイブレーションが同時にある状態になること。
・ピーンとはった糸のように響くところだけに意識が重なり、心身が丹田に脱落した状態にとどまると、私の中ですべてが起こっていることが明確にわかる。
・そのとき、私の中に人がいる/ あらゆるものが響きとして私のなかにある/ 私が響かせていることによってそれらの存在が成り立っているという感覚が生じるが、この状態でわかることはまだ現象世界側のことである。
・張り詰めた意識をつくるとき、ある段階までは一点に集中していき、認識の鋭利さが高速化してきた段階で、一点集中を解いて全方向へ開放する。そうすると、集中と拡散が同時に成立している状態になる。
・微細なヴァイブレーションと集中と拡散のなかで認識の鋭利さを極限まで発動させつづけることで覚醒の入り口へと自動的に運ばれる。
・認識の鋭利さを極限まで手放さないためには、瞬間瞬間の状態がいかに好ましいものであってもそこにとどまらないという覚悟がいる。
・この状態で瞬間瞬間を見切っていくと、意識がひっぱられる微細な引力と質量のようなものを感じはじめるが、その引力を見切って意識がどこかにひっぱられようとするのを極限まで回避しつづける。
・極限まで回避していくとあらゆる事象から無限に退いていく意識の空白の場のようなものの「気配」が顕れてくる。
・この、空白の場を意図的に見ようとして対象化してはならない。対象化したとたん、それは消えて単なるイメージとなってしまう。気づかないうちにこのイメージにはまらないように注意する。(このイメージを「空」と勘違いしないこと)
・空白の場は意識が対象物に触れて認識される手前の場であり、覚醒の入り口にあるが、空白の場へ自ら飛び込むことはできない。
・意識が無限に後退していってホワイトアウトしかける寸前に、生体エネルギーが縦に上ってきて交差した瞬間に衝撃をともなって覚醒の入り口のむこうへ「後ろ向きに」帰還する。
・生体エネルギーは意図的に昇らせてはならない。自動的に昇る瞬間を信頼して待つ。無限後退とホワイトアウトの横軸と生体エネルギーの昇る縦軸のタイミングが意図せず奇跡的にぴったり重なったときにだけ帰還できる。
・突発的に生体エネルギーが昇って覚醒に触れることもあり得るが、その場合「しくみ」を見切ることができずに一瞥にとどまることが多いだろう。
・事故等で突発的に起こる覚醒状態は、生命維持のストッパーが唐突にはずされ、階段を踏み外して一瞬空白になるときのような感覚を伴い、そこで気絶せずにスローモーションあるいはストップモーションの気づきが保たれていれば一瞥される。
・「階段の踏み外し」状態というのは大なり小なり日常で起こっているのだが認識の鋭利さが伴っていないので見過ごされている。
・「階段の踏み外し」が突発的に起こったときに認識の鋭利さと気づきの自動化の訓練をしていると、一瞬の空白に気絶せずに気づきが継続して見切ることができる。
・この一瞬の空白は瞑想によって顕れる「空白の場」と同じであるが、突発的に起こった場合は空白そのものにはまってしまうので見切ることが難しい。
・生体エネルギーの昇るタイミングは意図してはならないが、日常においてエネルギーの通り道を意識化し、詰まりを取り除いておくことは有効だと思われる。
・この通り道は、肉体と意識の境目のようなところにあり、肉体側からみれば背骨の内側に沿っているが、実際に背骨の内側に管のような空間があるわけではない。そこが意識化されたときだけ空間のような感覚を伴ってポータルとなる。
・覚醒における知覚は次のようなものとしてある。①丹田に心身が脱落する→②肉体の目のフォーカスが均一になる→③肉体の目から覚醒の目に移行する→④起こっていることすべてを、自動化された意識の動体視力で見切るにまかせる→⑤その状態を階段から踏みはずした瞬間のように「…!!」と空白のままハートで感知している。この認識のプロセスは①~⑤までほぼ同時に起こる。
●酩酊・うねり
・3D側に在りながら覚醒の采配のエネルギーの断続的な流れに意識がフォーカスしたとき、酩酊するようなエネルギーとエネルギーのうねりを感じる。
・このエネルギーは3D側に変換されたものなので覚醒そのものを知らなくても感じとることができる。
・酩酊は垂直のエネルギーのエクスタシーと水平の創造のエネルギーとの引力の駆け引きのようなところで起こる
・うねりと認識の中心がズレているときに酩酊が起こる。うねりの中心で目覚めているとき、台風の目の中にいるように静寂にある。
・うねりの強いエネルギーによって認識の中心がホワイトアウトするときエクスタシー状態にはまりこむが、この状態自体が覚醒というわけではない。
・酩酊は創造の引力の満ち引きのような波に船酔いしているような感覚である。
・酩酊の感覚は、肉体のエネルギーの周波数と覚醒のエネルギーの周波数の違いから起こる。要するに肉体のエネルギーが覚醒のエネルギーの高さについていけずに認識の座が気絶の手前でぐらぐらと動いてしまっている状態である。
・覚醒そのものを知らなくても、覚醒に近い状態に意識がフォーカスしているので、普段隠れているエネルギーが顕れてくる。
・あらゆる次元のエネルギーはすべてひとつのところにあるが、意識のレベルによって別の次元のエネルギーは隠れている。
・より無私に近い状態のとき意識のレベルでフォーカスできる次元が変わり、高いエネルギーを感受できる。
・ただし、強いエネルギーが高いエネルギーとは限らない。邪悪なものをふくむ強いエネルギーも多々あるので混同しないこと。
・酩酊は至福感を伴う。
・これは覚醒側からの働きかけである。
・酩酊は覚醒側からの打診、恩寵、慈悲である。
・覚醒の場から現象が生じるときの引力が3Dの直列的時空に転換されたとき、うねりを伴ったエネルギーの流れとして感じられる。
・よって、酩酊のエネルギーとうねりは現象発生の源にもっとも近いものといえる。
・酩酊のエネルギーは現象発生の源そのものではなく、すでに発生し展開しているものである。
・現象すべてはこのエネルギーを伴って発生している。
・一般的にはこのエネルギーの源を擬人化されることも多い。
・酩酊のエネルギーは覚醒の時期尚早の場合は認識の鋭利さを隠し、現象側の至福に留まらせておくこともある。
・酩酊は必ずしも覚醒を知るために必要なわけではない。
・酩酊だけでは覚醒そのものを知ることはできない。
・認識の鋭利さを伴わない酩酊に気絶していると覚醒そのものに目覚めることができない。
・このエネルギーのなかで認識の鋭利さを保てるとき、意識の表面だけで酩酊することなく、覚醒の場にいながらうねりをただ観ていることができる。
・もし覚醒を保つことによって酩酊が消えてしまうというのならば、その酩酊は表面的なエネルギーだったのである。
・気絶しないで覚醒を保ちながらエネルギーのうねりの中心に台風の目のようにあること。
・酩酊の回路ができると覚醒への信頼が増すが、酩酊の恩寵に麻薬のように淫すると先にすすまなくなる。
・酩酊のエネルギーを再現しようとしたり意図的に得ようとしてはならない。
・酩酊は覚醒へつながるか、淫することにとどまるか、どちらに転ぶか危ういところにある。
・酩酊に淫するときには必ず、その甘美な感覚を持続させたいというエゴがある。
・酩酊に淫するときは別の存在が介在してきている。
・期待せずに起こることにまかせるとき、酩酊は純粋で覚醒に近いものとなる。
・覚醒を知ってはじめて、気絶して巻き込まれずに現象側でうねりを愛でることができる。
・酩酊とうねりは、現象側から見れば神秘ととらえられるが、覚醒を知ったとき真にリアルなものとして再認識される。
・その状態を知らずに、現象側に結果として顕れたエネルギーに酔ったとしても、それは気絶して自己が守られた安全なところで漂っているだけである。
・しかしながら、安全なところで眠って漂っていることは覚醒の慈悲ゆえである。
・うねりに漂うだけでは祝福されはしても、現象側の担当者として引きとどめられて何度も生まれ変わる。
・覚醒の衝撃に耐えられないうちは、覚醒の気配に気づいていても、うねりが認識を麻痺(酩酊)させて3Dの現象へ引き戻す。
・覚醒の希求とうねりのせめぎ合いの中で、鋭利な認識を極限まで保つ意志が本意であるとき、うねりのエネルギーのベクトルが転じて覚醒へ向うエネルギーになる。
・このときの本意の度合がうねりの母体に試されているといえる。
・覚醒への帰還の本意は恩寵によって生じる。
続き ⇒ <10.覚醒によってわかること> Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために 【全文掲載】
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