FC2ブログ

【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <11.よくある間違い・注意点・ヒント>    

2019/09/26

11. よくある間違い・注意点・ヒント


・「いまここ」という言葉は時空の連続性の概念にとらわれている。

・見かけ上の連続性を解除された本当の「いま」は人間には永遠に認識できない。

・「ここ」とは見かけ上の連続性、身体の幻想ありきの空間的共通認識である。

・「あるがまま」の様相は認識レベルによって変化する相対的なものである。

・3Dにおける「あるがまま」に安住すると3Dの世界内在的な存在として在り続ける。

・「すべてがただ起こっている」ということを別の位相で見たとき、人間の周波数にとってゆったりとした心地よいものではない。

・「あるがまま」の本当の凄みを知ったとき畏怖の念が起こる。

・覚醒の生成の場においては身体という遅くて粗い波動のものは存在できない。身体の枠が形成される前にバラバラになってしまう。

・3Dを超えた「あるがまま」は丹田やハートではなく認識の座で空白の切れ目に飛び込むことでしか見切ることができない。

・突発的な一瞥は丹田やハートでも起こりうるが、認識の覚醒は訓練と強烈に突き動かされるエネルギーが必要であり、生まれ出てきた産道を意識だけで逆戻りするような圧を伴う。

・「透明な気づき」の感覚に、すでに「はじまってしまった」空間認識が付帯されていないか注意深く観察する。

・事象や物質が存在するための入れ物としての空間が先に固定されてあるわけではない。

・3Dにおける質量・奥行・遠近・色彩・形状・質感・明暗・速度のすべては、たまたまわれわれにプリセットされた認識によってそのように読み取られた共通認識にすぎないことを知る。

・「気づきが遍在している」という感覚も、3Dの空間認識が付帯している。

・それは現象世界にすでに生じた身体によって測られた空間感覚とわたしという定点があることで生じる感覚にすぎない。

・プリセットされた空間認識を完全に解除する必要はないが、感覚が生じたときにそれらはすべて空間認識が付帯された仮象であることを忘れないでおく。

・空間の広がりを感じてはいけないわけではない。自他の枠が解除されて空間が広がって見えるのは、3Dにおいて限定が解けたときに顕れるシステムである。

・一瞥の興奮状態を維持しようとせず、あらゆる点からその体験を検証する。検証するプロセスで至福感がなくなったとしたら、それはそれまでの体験であったのである。

・どのような素晴らしい体験であっても、それを維持したいという欲求が少しでもあるところには別の存在が介入してきて次の瞬間、不純なものとなる。

・日々、認識の鋭利さを磨いて無自覚のうちに執着の生じる瞬間を見切るようにする。

・無自覚に気絶してしまったと気づいたとき、甘美な欲求や眩惑的な引力が働いていないかどうかを注意深く観察する。

・しかしながら、このような状態に陥ったことに罪悪感を持つ必要はない。その状態は受動的に起こったのであって、気づいた次の瞬間、いつでもリセットすることができる。

・罪悪感を持つ必要はないが、無自覚に陥る時間が長ければ、現象世界においてはそのような担当者として采配され、それに見合ったエネルギーを引き寄せることになり、覚醒から遠ざかる。

・自覚的にこのような状態に淫し維持しようとするときのみ、魂を売った者となる。

・気絶しないでいることを、エゴを強化すること(根性・執着・プライドの強化)で保とうとしない。エゴの強さではなく、認識の鋭さによって気絶しないでいることを訓練する。

・認識の鋭さによって気絶しないでいられるときのみ、気づきの自動化が起こる。

・好ましい状態を維持しようとするのではなく、様々な状態が波のように変化していくエネルギーのうねりに立ち会っていること自体が覚醒の顕れであり証明なのだということを知る。

・うねりが連続した波として感じられたとしても、それは脳が酩酊しているため瞬間瞬間の断続したエネルギーの点と点のあいだをつなぎ合わせて編集した映像を見ている。

・覚醒を覆い隠しているのは、その瞬間を占めているエゴ感覚や思考だが、それらを消そうとしないで、ただ見切っていく。

・見切っていくときには、あらゆる事象に対して一切の判断をしない。少しでも判断が入ればそのエネルギーのベクトルに引っ張られて新たな幻想のコマに入る。

・物質的に可視な粒子に分解して認識の高速のプロセスを語ること(原子の崩壊、素粒子の動き等)は3Dの直列的時空の概念によって要素を分解しているだけである。

・直列的時空の概念によって要素を分解しても人間の認識がたどり着けるところまでしか見切ることができない。

・人間の認識によって見切られる範囲は非常に限定されているため、直列的時空の概念の延長上で神秘の本質と全貌を知ることはできない。

・現象の生成と消滅は直列的時空の概念のなかで時系列に起こっていることではない。

・その意味で、生成消滅を時系列の様相で説明する教えは本質の直観を妨げるといえる。

・「気づきと対象に触れる瞬間が時系列に交互にある」という説明は現象側においては見かけ上そのように感じられるだろうが、直列的時空が前提となっており、対象物が外にある設定として語られているため、時系列に起こる気づきの精度をいくらあげても、探求者は3Dの物理法則のなかで要素分解の限界に行き詰る。

・このことにより、覚醒体験は選ばれた者のみに突発的に起こる特別なものとして「たどりつくことが困難なもの」(未来にたどりつくもの)になってしまう。

・事象の時系列の発生の幻想から抜け出ないかぎり、3Dの概念は解除されない。

・だからといって、直線的時空の感覚が実際に転換する前に、瞬間瞬間の自分の前後のつながりを意図的に分断して同時並列的に存在する多層的な「わたし」をとらえようとしても意味をなさないし、直接的な体験と理解には結びつかない。

・しかしながら、見切られるところまで見切ることによって直列的時空の概念に疑いをもつところまでは可能である。

・あたりまえであった概念に疑いが生じたとき、本質の気配と手触りの一端が見えはじめる。そこから探求がはじまる。

・「連続した自己」が覚醒するという幻想があるかぎり、覚醒の瞬間が見切られることはない。

・しかしながら覚醒を知ると、3Dの日常においては見かけ上連続した自己と覚醒した意識が並行して同時進行しているように感じられる。(自己意識の脱落した変性意識状態のときを除く)

・直線的時空とは、例えば今この本を読んでいるとき文字を左から右へ順番に読む、そのときの3Dの主体の認識において見かけ上、時系列の時空が発生している。(順番に追わないと意味が読み取れない)

・並列的時空においては、文字の並びはバラバラなまま、この本の内容として読み取られる可能性がひとつのものとして同時に折り重なってあり、読もうという意図が起こった瞬間にすべての並びが完了し同時に読み取りが完了する。

・時空の感覚の転換は人間の概念の進化によって直観的に理解しやすくなってきているといえるが、概念ではなく直接体験しうるものである。

・見切りを凝縮しきったところで弾けることを知る前に、緩むことばかりをやると無自覚的に拡散のベクトルのエネルギーに加担することになって、うねりに流され(もしくはホワイトアウトして)現象側で流転することになる。

・生体エネルギーと認識の座のバランスの拮抗がないまま、心身だけを重力にまかせて脱力させてしまうと存在の基底に沼のように沈みこんではまってしまう。

・丹田で起こる心身脱落と、重力で落下するハラ(腹)での脱力は意識の位相がまったく異なる。

・人間から見ると時系列の事象に「原因」と「結果」という意味と概念を読み取るが、それは切れ目なく表裏一体で無限にあたかも一つのうごめく生物のようにある。

・「目覚めてください」というとき、それは「見切るための極限まで圧縮された鋭利な認識」を具体的に発動させてくださいという意味である。

・その鋭利な認識が伴わない体験はいかに圧倒的な至高体験であれ、現象世界の時空の概念のなかのイメージへの酩酊である。

・鋭利な認識が目覚めるとき、閉じていた意識の筋肉のようなものが具体的に開かれる衝撃を伴う。

・このときから、表面の肉体の目ではなく奥の覚醒の目で事象を見るようになる。視座のシフトは明らかなものである。

・覚醒以前は肉体の目のフォーカスはエゴの興味のフォーカスと同化している。覚醒後は肉体の目はエゴのフォーカスと分離し、事象をそのままただ映すレンズの機能となる。

・肉体の目が事象をそのままただ映すレンズの機能となったとき「あるがまま」の意味がわかる。

・「あるがまま」に事象が映っているとき、空間的遠近や自他の区別はない。

・空間的遠近や自他の区別はエゴのフォーカスの移動によって起こっている。

・空間的遠近や自他の区別は、人間の進化の過程で強固にプリセットされた感覚のため、それがはずれたとき非常に奇妙な感覚が生じる。

・奇妙な感覚と同時に「知っていた」という自明の感覚も生じる。

・強固にプリセットされた感覚はエゴにとっては生命維持と同義のため、それをはずすことに恐怖を感じる。そのため突発的な一瞥をのぞいて、エゴのしくみを知りその裏をかく戦略が必要となる。

・覚醒とはある意味、すべてのプリセットが解除されたところにある。

・解除は自分自身で能動的に行うことはできない。信頼と恩寵が解除する。

・見かけ上の能動的な自己放棄は、信頼と恩寵による純粋な自己放棄とエネルギーとベクトルが異なる。

・覚醒と分離されているのは幻想である。現象が多様化し拡散していくことはプログラムされた法則である。

・空間的遠近のないところにおいては実体として離れたものはなく、見かけ上遠いところにあるものもすべて同時にある。

・距離が離れていくことは単に見かけ上の法則であって、覚醒から離れていくことではない。

・分離は個別の認識によってのみ起こる幻想である。どの位相から見るかによって分離はあるともないともいえる。

・覚醒の結果としてわかることを先に知ることは弊害と利点がある。

・弊害については、概念的に先に知ったことにより、結果の状態にあわせようとしてしまうことがある。

・結果にあわせようとする瞬間に意図のベクトルが発生してしまって別のものになる。

・しかしながら、具体的な結果を耳にしなければ永遠に発心が起こらない可能性がある。

・発心が起こった時点で、それがはじめはピントのズレたものであっても、紆余曲折しながら結果として自動的に覚醒へ運ばれていくことになる。

・なぜなら、このような話を受動的に耳にすること自体が覚醒側からの恩寵だからである。

・解脱とは空間的に別の位相に存在する高次の世界に意識が没入して一体化することではない。

・現象世界は一瞬にして消えうる可能性があるが、それは世界内存在のストーリーの中の出来事としては起こらない。

・ストーリーの中での世界の崩壊は時間の経過とともに徐々に起こるが、存在そのものの消滅は一瞬にして起こる。

・消滅は常に起こっているが、起こっていない現象世界に瞬間瞬間、移動して新たに生まれ変わってフォーカスしているだけである。

・次の瞬間、消滅していない世界にフォーカスしている見かけ上連続したわたしを見出したなら、それは現象世界の担当者としてその瞬間が必要だったからである。

・見かけ上の一瞬先のわたしは、このわたしではない。

・映画などで、違う並行宇宙に入る、あるいはタイムマシーンのパラドクスの禁を犯して目の前の人物が消え去るということがあるが、実際には目の前から砂のようにその瞬間消失するということはない。実際は現実として整合性がとれた形で気づかないうちに分岐し、消える。

・現実にはこのような無数の分岐がひとつのところで同時並行して起こっている。

・その人物がいない世界といる世界は次の瞬間分岐し、この瞬間のわたしは見かけ上の整合性をもってどちらかの世界に采配される。

・無数の現実の可能性が、認識の追いつかないレベルで瞬時に起こっているので「その人物が消えるべき現実」がある一点で起こっていたとしても、その瞬間、こちらの「わたし」は「その人物がいない現実」の一点に「先に移動してしまっている」。

・その、「先に移動してしまっている」現実に連なりうるエネルギーの一点一点が即座に引力でひきよせられ、整合性のとれた過去の記憶として見かけ上の時系列に並び替えられる。

・分岐した一点に宿った私はすべて書き換えられた記憶の一連の流れの担当者として整合性がとれているかのごとく存在する。

・しかし、ごくたまにプログラミングエラーが起きて過去の整合性や直列的時空に疑念が生じたり、パラドックスを垣間見てしまったりする隙間が顕れることがある。それはわたしたちの認識の次元転換へのヒントとなるともいえる。

・身体という物質に同化している意識のわたしは壁という物質を通り抜けられないが、ある意味、壁を抜けられる可能性は無数にある。

・しかし、壁を抜けた「わたし」は身体と同化していない瞬間のわたしであり、身体のわたしの瞬間とは異なる位相の瞬間に位置する。

・また、身体に同化したわたしは、身体のわたしが壁を抜ける瞬間を、身体に同化しているがゆえに、身体の目で見ることができない。(100%見ることができないとは断言はできないが)

・多次元のわたしたちは各次元の担当者として瞬間瞬間にパラレルに分岐している。多層のわたしが同一のわたしとして同一の瞬間に認識されることはない。(少なくとも3Dの世界においては)

・この瞬間3Dに存在しているわたしは過去の瞬間に存在した多層のわたしの記憶を自己同一性としてもたない。(もてない)

・個別の魂は幻想である。見かけ上の分離から後付けで生じる。ただし、ハートの座が身体の幻想から生じながらポータルとして機能するように、魂のイメージも多層次元のわたしとひとつであることへのポータルとして機能しうる。3Dにおけるポータルは常に、3Dにプリセットされた概念を利用する。

・光のかたまりのような世界がワンネスとしてあるのではなく、現象が生じるときに起こる爆発が光を発生させる。結果として発生した光の表象だけを見ていては根源にたどりつかない。

・肉体と認識が同化しなくなっても、肉体のエネルギーはそのまま残る。個別のカルマに同化しなくなったということだけで、肉体のエネルギーは他のバランスの引力に采配され続く。

・個別の肉体に同化しなければその肉体のエネルギーは他人の肉体があるようにそこにあるようになる。その肉体を構成するエネルギーに同化していたわたしたちの意識は個別の肉体のカルマから離れるが、肉体そのものを采配からはずすことは極めて稀であり特殊な訓練を必要とする。

・肉体のカルマから離れても現象として顕れている肉体が存続するうちは過去のカルマの采配のうちにある。

・ある種のボディワークは身体と意識の関係を探るために有効だが、身体の実存にフォーカスしすぎると逆に意識の超越にとっては弊害となる。

・身体の質量や実存感は、それを客観視できるときのみ覚醒へのポータルとなる。

・心身一如の状態になると逆に意識が身体から離れて見ている状態になる。身体=わたしという感覚があるのは心身一如の状態ではない。

・心身一如の状態は覚醒へのポータルになりうるが、身体の実存を信じているかぎり現象に引き戻される。

・身体の精妙さは驚愕すべきものだが、仮象であることを知り、物質としての実存感の引力にひっぱられないこと。

・ベクトルを発生させる瞑想はイメージにはまりこむ。

・ただし、気づきが自動化されていない段階においてはベクトルを意図的に利用することは必要になる。

・意図的にイメージにはまりこませ、イメージに刷り込まれた秘儀的なポータルを通って覚醒に至ろうとする伝統もあり一概に否定はできないが、最終段階ではイメージは手放されるべきである。

・空、無は止まって固定されているものではない。動き出すこと生まれること、動き出されなかったもの生まれなかったものとの「あいだ」でバランスを保って見かけ上、動かないでいる。それはどこか空間的な座標に位置するものではない。

・覚醒に近いものは波動が細かく、遠いものは波動が荒いが、波動が荒くても引力が強いものと弱いものがあり、波動が細かくても引力が強いものと弱いものがある。

・派手な体験を求めると引力の強いほうへひっぱられるが、誤った方向へ行くことも多々ある。

・また、波動が細かくても誘惑的引力が強く働いているものがあり、それは必ずしも善といえるわけではないので波動の質と意識のベクトルの微細な動きに細心の注意を払う。

・感覚は、進化の過程で個別のわたしが生き延びるためにプリセットされた。

・感覚(特に自他の境界をつくる皮膚感覚や痛覚等)がないと自己保存の本能が働かず簡単に死んでしまう。

・瞑想は、自己保存のために利用してきた感覚機能を、別のポータルとして組み換え、再利用する。

・感覚は相対的なものなので、瞑想で再利用されたときには知覚が組み変わる。

・物質は固定された質量のものではなく、相対的な顕れである。

・物質とイメージの境界はない。

・物質とイメージは意識のなかのグラデーションである。

・物質に枠があるように見えているのは、枠のあるものとしての人間の認識機能による。

・見かけ上、枠がなければ人間は自他を区別することができない。

・個別の自己が生き残るために枠が設定された世界にフォーカスしている。

・人間は枠がある共通認識の世界の担当者である。

・枠があるという共通認識の強固さがこの世界を保っている。

・枠の認識が崩れるとまったく違う構造の世界を創りなおすことになる。

・意識のなかの物質とイメージのグラデーションを覚醒へのポータルとして利用することは可能である。(特に呼吸において)

・イメージのグラデーションをたどることは瞑想の初期のプロセスにおいてポータルとなりうるが、イメージ自体を目的として没入すると抜けられなくなる。

・言葉は共通認識において実質の最大公約数的イメージを切り取ったものである。

・よって、言葉によって概念化されたものにプリセットされた現象世界の法則を注意深く見抜く必要がある。

・言語発生の前提となっている物理法則のプリセットを見抜き、イメージと言語を切り離し、概念化される以前の生の実存に触れることが瞑想の目的である。

・すべての次元、あらゆる宇宙、霊界と呼ばれるものなどもひとつの可能性の場にすべてある。アストラル・エーテル・オーラなどもひとつのところにあるが、担当する周波数によってフォーカスされる場が異なり、同じところにありながら別次元に住み分けている。

・上の次元からは下の次元の構造が見渡せるが(とはいえ3Dの肉体の目で見る世界のようには見えない)、下の次元からは上の次元の部分が切れ切れにランダムに顕れる(上の次元ではランダムではなく上の次元の原理で整合性をもってつながっている)

・上の次元のものは全容が見えるわけではないが、3次元の現象に映りこんでくる断片断片の影の手触りがヒントとして与えられる。

・現象において担当者を気絶させて見かけ上の自己同一性を与えなければ、未熟な段階の利己的なエゴは全体へのフィードバック要員としての役目を果たさなくなる。

・ある意味、気絶させておくのは、疑問をもたずに進化の目的へ向って働き続ける原動力を保つための仕組みであり、また、ある意味ではエゴが洗練されるまで気絶させて育てようという「慈悲」でもある。

・利己的なエゴを脱し、本来の機能を果たせるまで進化したときに、自己同一性の感覚を解除され、創造へのフィードバックに自覚的に関わることができるようになる。

・そのとき、喜びの目的と質が変化する。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 瞑想へ
このエントリーをはてなブックマークに追加
comment (0) @ 出版
【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <12.提供可能なワークについて>     | 【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <10.覚醒によってわかること>    

comment

コメントを送る。

URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する