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【全文掲載】 Rubin ―覚 醒― 認識の転換のために <13.おわりに>     

2019/09/26

13. おわりに


この本を書くにあたって「神」という言葉は避けた。

「神」は不可知の圧倒的なものを指すのに便利な言葉ではあるが、同時に概念にまみれた言葉でもある。

この本は概念から離れて認識を転換することが目的なため、「神」あるいは精神世界界隈で流通している用語をなるべく避け、自身の体験を愚直に記述しようと試みた。

とはいえ、この本を読むことによって新たに概念が生まれて混乱することもあるだろうと思う。

このとき、すべてを思考で割り切ろうとするのではなく、混乱が自分のなかの何に由来するものなのかを注意深く観察し紐解きながら、自分自身で体験・検証していってほしい。


ここで、わたしのいちばん願っていることと、いちばんの秘伝をお伝えしたいと思う。

本文では、覚醒の根拠を明らかにするために、なるべく具体的に記したいとの思いから認識や体験の細部まで記したため、「結局、訓練と才能が必要なのか」とがっかりしたり、匙を投げたくなった人もいるかもしれない。

しかし、華々しい神秘体験を期待するのではなく、一見なんの変哲もない日常のすべてのことにすでに神秘が顕れていることを知り、熱心に注意深く観察することによって、覚醒が向こうから触れてきている瞬間をつかんでほしいのだ。

ほんとうは覚醒はつねに触れているのだが、その瞬間、思考や感情やストーリーによって認識が占有されているため、それに気づいていないだけなのだ。

もし、この本を読んで覚醒というものにほんの少しでも心が動かされたら、覚醒の手触りが日常に紛れ込んでいないかどうか、根気強く意識を見張っていてみてほしい。

そのときに、なにか特別なことを見つけようと意図するベクトルを働かせないで、ただ、起こってくることを観察してほしい。

どのような瞬間もあなたにとって好ましいか好ましくないかは関係なく、すべて、覚醒の采配そのものが顕現したものであるのだ。

あなたに起こってくることすべてが、覚醒と直接つながっていることなのだ。

あなたの存在が、その証拠なのだ。

それは、あなたが気づいていないだけであなたが生まれてからずっと顕れていた。

というよりも、その顕れとしてあなたが生まれた。

もしかしたら、あなたの人生はずっと悲惨なものだったかもしれない。

ただ、悲惨さの中にも、ほんの一瞬だけでもふっと心が軽く透明になったことは過去に一度でもなかっただろうか?

それは、人間関係の悲痛に泣き暮れているときにほんの一瞬、風の心地よさが通りぬけたときや、日々の仕事でくたくたに疲れて帰ってお風呂に入った瞬間に身体の力が抜けたときや、耐えがたい頭痛に悩んでいるときにほんの一瞬、赤ちゃんの笑い声が耳に入ったときや、家庭内の問題で頭がいっぱいのときにお茶を飲んだほんの一瞬、香りが鼻をぬけたときかもしれない。

…そういった瞬間は、すぐに次の瞬間、悩みや思考にかき消されて忘れられてしまうだろうが、ほんとうに注意深く意識の流れを見守り続けたときに、無数の忘れ去られた瞬間があったことに気づく。

それらが意識にのぼってきたとき、その瞬間をのがさずに、少しだけそこに意識のフォーカスをあわせてとどまって観察してみる。

それらがどこから来てどこへ去っていったかを注意深く観察する。

それを繰り返すうちに徐々にこういった瞬間が増え、とどまる時間が長くなってくる。

すると、徐々にそこに覚醒側からの采配の手触りを読み取るようになってくる。

そこではじめて神秘体験を受け取るためのスペースができる。

正確にいえば、スペースはすでにあったのだが、その瞬間を占有していた思考や感情やストーリーとの同化が解除されることによって、もともとあった覚醒が顔を顕すのだ。

注意すべきなのは、決して自分にとって好ましくない体験を排除しようとしないでただ観察すること。

スペースを自分で空けようとしないこと。

排除するベクトルが働くとその意図が新たにスペースを占有する。

そうではなく、ただ、采配にまかせて起こってくること、見せられていることをただその順番どおりに受け取って観察することで、覚醒が認識されうる瞬間、チャンスが確実に増える。

考えてみれば、悲惨な体験が時間的に連続しているかのように見えているなかで、ふと、まったく別の出来事が目の前に起こってくること自体、不思議ではないだろうか?

悩み事で絶望していても、道を歩いていると人が歩いているのを見たり、むこうから挨拶してきたり、店や木や車や信号や散歩している犬が意図せず目にとびこんでくる。

電車に乗れば、いつのまに知らない人が隣に座って肩が触れていたり、窓の外に景色が流れていくのがぼんやりと目に映っている。

悩み事で頭がいっぱいのうちに電車は駅に到着し、足が勝手に動いていつのまに職場のデスクに向かっている。

そのあいだにもあなたの認識にはのぼってこない無数の出来事や景色や音や香りが映っては消えていっている。

それらはみんな、あなたのなかに起きたことなのだ。

たとえあなたがずっと悩むことに専念したいと思っても、あなたの意図とは関係なく様々なことがあなたのなかに勝手に入ってきて触れていく。

それらの勝手に入ってきたものはどこから来てどこへ消えていくのか?

あなたを占有している思考から、ふと離れたとき、今まで忘れていたそれらが生き生きと存在感を増してうったえてくる。

そういった瞬間に気づいていくことで、あるとき突然(のように思える)、采配の神秘の電撃に撃たれる。

このことを、ほんとうに小さな瞬間から自分で実証していってほしい。

すべてのことを自分への顕れとして見、目の前にあることを自分のなかをのぞいているかのようにつぶさに観察しつくしてほしい。

すると、小さな発見の積み重ねによって自らの内から信頼と感謝が生まれ、神秘が必ず顔を顕すことになる。

気の遠くなるような地道な作業だと思うかもしれないが、熱心に観察すればそれはすぐにでも突然パっと開ける。

この提案をいま目にしているこの瞬間、信じるか疑うかにかかわらず、すでに覚醒側からの働きかけははじまっている。

もし観察のしかたに迷ったら、わたしなりの地点からお伝えする用意はある。

あなたを撃ち抜くような神秘体験とは、それを受け取るためのスペースと、自ら沸き起こった純粋な信頼と感謝があるところにしか顕れることができない。

覚醒側はその瞬間をずっと待っていたのだ。


 <さいごに>

この本は、覚醒のフォースと酩酊とうねりの拮抗のバランスのなかで自動的に運ばれるように書かれた。

1ヶ月前、食べるために漫然と勤めてきた仕事を辞める決意をし、なにかに憑かれたように書き上げた。

書き終わったいま見直してみると「これは自分が書いたのだろうか?」と不思議な感覚が起こる。

書き始めたときふと、昔聞いたことのある歌が突然、何度も頭をよぎってくるのに気づいた。
 
ポルトガルのグループ「マドレデウス(神の母の意)」の「海と旋律」である。

特にファンというわけでもなく、この歌の存在もすっかり忘れていたのだが、ファドをベースにした哀愁に満ちた旋律が、執拗に繰り返し遠くのほうから訴えかけてくるのだった。

不思議に思い、歌詞を調べてみると「ああ、そういうことか…」と納得した。

興味があれば検索してみていただきたいのだが、それは輪廻の車輪のなかで夢が続いて目が覚めないことを願う切ないパトスの詩なのだった。

本文を書いているときはいつも、覚醒からの促しと同時に、強烈な酩酊とうねりに意識がホワイトアウトしそうになる状態が交互に起こっていた。

「母」ゆえの慈悲は、現象への郷愁の甘美さを使って、安全な夢に連れ戻そうとするのだ。

この引力にひっぱられそうになりながら本を書き進めていると、歌は断末魔の叫びをあげながら遠くのほうに消えていった。

現象への郷愁と覚醒への郷愁は、つねにせめぎ合っている。

究極的にどちらに転ぶかはわたしたちの知るところではない。

しかし、これを見ているわたしたちは今、覚醒からの打診をうけとっている。




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