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【10/20(日)東京ワーク】 ~所感と解説 その1~     

2019/10/24

10/20(日)東京にてワークを開催しました。
(先週は台風19号が関東を直撃したため開催日が変更になりました。)


【今回の主なメニュー】

①脳を活性化する準備運動(後ろ歩きetc.)
②体軸と回転 / 時空の発生しない在り方とは
③姿勢の調整(脱力と起立の両立)
④対象のない祈りから意図のない座禅へ
⑤瞬間に目覚めているための「どこにも居座らない座法」
⑥内部の目の開発と認識のシフトの関係
⑦「意識の動体視力」内部の目で見切る感覚
⑧思考の発生現場を見る / 「私」が思考することは可能か?
⑨「自分」とはなにか(自己同一感覚を成り立たせているもの)
⑩意図と自己と行為 / 脳内シミュレーションに気づく



*******************

【所感と解説】

前回に引き続き、具体的に瞑想に入っていくための基礎と、その先の微細な領域に入って
いくためのポイントを身体と意識の両面からワークしていきました。

基礎とはいうものの、ひとつひとつのワークが高度かつ微細な領域に直接つながってくる
ものになります。

ワークそのものはシンプルですが、その場その場で起こってくる感覚や事象を正確に嘘偽りなく
見ていく集中力と受容性を要するため、必然的に各自の目的とモチベーションが問われてくる
ことにもなります。

その点で今回の参加者さん達は、ご自身がとらえたその場その場の生(なま)の感覚を
率直にレポートしてくださったので、具体的なフィードバックにつながっていきました。



①脳を活性化する準備運動(後ろ歩きetc.)

毎回、準備運動として足裏~膝の屈伸~尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂のラインの
意識を高める簡単な動きを数パターン行った後、脳を活性化するための指の運動や動作などを
行うのですが、その一環として「後ろ歩き」を取り入れました。

「後ろ歩き」は脳を活性化し短期記憶力を即効的に高めるという研究結果がありますが、それ
に加えてワークの目的としては「身体の前面だけに意識が偏っている」状態を組み替えるとい
う意図があります。


目が前面に並んであり背面を見ることができないという人間の身体構造は、認識の在り方を
「自対他」という二元の感覚に限定している最大の要因ともいえます。

この構造のために人間は、対象物や目的に向かうときには意識が前方へ集中し、それに向かって
前へ「進もう」とします。

前へ「進もう」とする感覚は、人間の直列的な時間感覚にも密接に関わっています。

「前への意識」は無意識のうちに意図と生体エネルギーと結びついて「未来への推進力」となって
人間を運んでいきます。

この無意識の感覚にまず気づくことが3次元的な時空の固定概念を組み替える一歩となります。


後ろ向きに歩くことに慣れていないと、はじめはおっかなびっくりそろそろと歩くことになりますが、
前へすたすた歩く感覚と後ろ歩きの感覚のギャップが次第になくなってくると、意識の中心が
明らかにシフトする瞬間が見つかります。

このときポイントとなるのが、先の足裏~膝の屈伸~尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂
のラインを意識しながら歩くことです。

この軸があったうえで、前後どちらにでも同じようにすたすた歩けるようになると前方に偏って
いた意識の中心がニュートラルな位置に自然とシフトします。
(この中心は通常、自分が思っているよりも少し後ろにあります)


後ろ歩き自体は単純なワークですが、注意深く観察しながら歩くと様々な発見があります。

例えば前方への意識だけで普段歩くときに使っている筋肉と後ろ歩きで使う筋肉が異なっている
ことに気づくとき、筋肉の固定化されたパターンがいかに個人の意識を限定しているかということ
がわかります。

また、見えない方向へ歩いてみたときに普段の行為がいかに肉体の目で「見る」ことの比重が
大きかったかに気づき、「見えている」ことに安心しきって動きが惰性となり意識が気絶していた
ことに気づきます。


前面の視界に入っている範囲だけを見て進むとき、私たちの意識は3次元というよりも2次元の
感覚に近くなっています。

以前も書きましたが、3次元的な固定概念を崩そうとする前に、まずはこの直線的に前の対象に
向かう意識に気づき、360°立体的な意識を獲得することが必要になってきます。


人間の、未来という「前」へ進んでいこうとする意志と推進力は、地球上の生物の進化の歴史
とともに必然的に定まってきたものです。

人間の目が前方についているというのも直立姿勢への進化に伴う必然であり、進化に伴い自我
の発生と3次元感覚も必然として起こりました。


しかし、実は未だに完全な直立と360°立体運動の感覚が獲得されているとはいえません。

この感覚が確立されたときはじめて3次元とは何かということがわかります。

そして次に、前方向への対象物を目指す推進力が、上方向への推進力へとシフトすること
になります。
(上方向というのは便宜上、3次元の身体を基にした座標で表現されたものです)

今この次元というものは、ひとつ上の次元からしか全体を俯瞰して見ることはできません。



②体軸と回転 / 時空の発生しない在り方とは

①で感じ取った軸の意識を持ったまま、今度は軸を中心に回転してみます。

自己感覚と身体が同一化されているとき、身体=私は体積として空間の部分を占め、
回転は身体の面の移動の軌跡を生みだします。

しかし、軸そのものは体積を持たず、それ自体が回転によって軌跡を生みだす
ことはありません。
(軸自体は回転しません)

軌跡を描かず空間を生み出さないものは直線的な時間の一部として「観測」されません。

また、身体における軸には上下はありますが、軸そのものには前後左右の区別はありません。


スーフィーのセマー(回旋舞踊)は軸を中心に回転し続け神と一体化するというもの
ですが、このとき起こる恍惚状態は人間の意識に起こる二次的なものであり、軸そのもの
が私が消える構造的な鍵となっています。

ただし「軸=無我」「軸=空」などと短絡的に結びつけることは逆に身体や物質という
概念に捉われていることになります。

軸という概念自体が対象物ありきのものだからです。


とはいえ3次元の私たちは対象物なしに何かを認識することはできません。

座禅は身体をもって意識的に軸をつくり、軸自体に成りきって軸を忘れます。

このときはじめて、軸からズレる微細な動きと事象を発生させる引力の働きを見切る
ことができるようになります。



③姿勢の調整(脱力と起立の両立)

基本的な座禅の型と、型にともなう意識がどのようなものかを体感するワークです。

準備段階として、

壁に手をついて立つ~かかとを上げる~顔を上にあげる~かかとを降ろす~
頭頂を意識しながら顔を正面にもどす~

という一連の動作を繰り返して軸の感覚をつくったうえで、次に身体のパーツを
分解してひとつひとつ脱力させていきながら最終的に床に寝転ぶ状態になります。


脱力して寝ている状態から今度は逆に、

尾てい骨~仙骨~腰椎~胸椎~頸椎~頭頂

の順番に意識しながら背骨を立てていき、最終的に座禅の形で座ります。


このときのポイントは、型は身体の骨格と軸によって保たれているけれども
「型によって座らされてしまっている私」自身は脱力している状態にあるということです。

「私」が座ろうとすると力んで意図が抜けないため、型の担当は身体にお任せ
しておきます。
(ただし、丹田だけは意識的に気が抜け落ちないようにします。ここが抜けて
いると座り続ける気力につながりません)

そうすると「私」と「型」が分離したままになってしまうと思うかもしれませんが、
脱力と型のそれぞれがカチっとはまると両方がすとんと一致して意識から抜け落ち
ます。


座禅においては常に受動と能動のバランスがポイントになってきます。

このバランスがとれたときに次の段階の「自動化」の状態が起こります。



④対象のない祈りから意図のない座禅へ

「対象のない祈り」については基礎として毎回とりいれていますが、
祈りの本質がカチっとはまると、③の脱力の感覚がさらに微細な領域で起こり、
心身の芯から微粒子が分解されていくような軽さと安堵が感じられるようになります。

対象がないというと抽象的で感覚的に捉えづらいとは思いますが、いってみればそれは
自己受容とあるがままの究極の状態のようなものです。


先ほどのセマーに例えるなら、神と私が一体化している状態、畏れ多くも神であり私である
ことがあるがままに「許されている」状態ということです。

この状態は受動と能動の究極的な「あいだ」ということにもなります。

受動と能動が一体化しているとき、意図のベクトルは働いておらず、起こることはただ
その瞬間に「突如として(!)」起こっています。

これが意図のない座禅です。



⑤瞬間に目覚めているための「どこにも居座らない座法」

瞑想していると、いつの間にか思考にはまっていたり居眠りしていたりすることが
あります。

また、自分ではうまく集中していると思いこんでいても特定のイメージにはまって
見続けているだけだったり、間延びした感覚に気絶しているだけだったりします。
(「呼吸が止まって無想無念になっていた」「光に包まれて恍惚としていた」等の
状態は注意が必要です)

さらに、無意識のうちに瞑想するにあたっての態度や心構えが固定化(「前回これで
うまくいったから今回もこうしよう」「この感覚にあるときは瞑想がうまくいくときだ」
「この状態にあれば楽に座れる」「この状態にあるときに安定していられる」等)
され、その態度に「居座っている」状態も往々にして起こりがちです。

「居座っている」状態は「私」という存在感覚が固定化された状態であり、惰性で
パターンにはまっている状態です。
(武道では「居付く」というもう少し身体よりの言葉がありますが、「居座る」は
さらに「全存在」をまるごと含む感覚です)

このパターンはカルマの引き合いによって起こっているものであり、瞑想が進む
か進まないかはここに気づけるかどうかにかかっています。


この状態に陥らないためには注意深く瞬間瞬間に気づいて、あらゆる態度を固定化せず
ひとつの状態に怠惰に居座らず、常に一回一回新鮮な状態であることが重要ですが、
態度以前に基本的な座法の型の問題があります。

例えば、骨盤が後ろに傾いて仙骨が斜め後ろに抜けた状態で腸が重く下に落ちている
状態だと一見、楽に落ち着いて座れているようでも、疲れたときに溜息をついて
どさっと座りこんで動けないような状態に近いのです。

逆に「気合いを入れて座禅するぞ」という意気込みで意図的に腹部を押し上げてへこませ、
骨盤を前に傾けすぎて鳩尾が上がってしまっている場合もあります。

ここまで極端でなくても、微妙な骨盤の傾きや肋骨や頸椎の状態の違いに各自の意志
と態度のパターンが如実に顕れています。


本来は瞑想を続けていく過程で型と意識との関係を自分自身で見抜いて修正していければ
よいのですが、気づくまでに非常に時間がかかりそのまま一生を終えてしまうことに
なります。

そのため、ワークではこの姿勢の調整を重視し毎回行っています。

今回は特に、坐骨の接地面のバランスを調整しました。


具体的にはまず、座禅の姿勢から居合のようにすぐに腰を浮かせることができるかどうかを
チェックし(坐骨が傾き腸が重く落ちていると持ち上がりません)さらに2つの坐骨が
垂直に点で接地する位置に骨盤の角度を調整しました。

坐骨を点ではなく面の意識で接地させてしまうと骨盤の傾きが生じ、パターン化された
「居座り」にはまり込みます。

この座り方に慣れていないと最初はどっしりと腰をすえて座っている感覚がなくなった
ように感じたり、骨盤部を引き上げ続けるための筋力のこわばりをしんどいと感じたり
すると思いますが、心身ともに「居座らない」ということは瞑想が自動化されるまでは
ある種の緊張感を伴うものでもあります。

ここが勘違いしやすいところなのですが、「あるがまま」「意図しない」という言葉を
文字通りとらえてパターン化された楽な姿勢を固定してしまうと、皮肉なことに
まさに正確に今のレベルの「あるがまま」の意識状態を保つことになります。


瞑想において「いかなる状態にも居座らない」ということは非常に重要です。

瞑想は瞬間瞬間に生まれては消えていくものであり、世界を展開させる引力を
瞬間瞬間に見切っていくものだからです。

それは何処にもつかまる物のない所で、どちらに転ぶかわからないバランスの
あいだに気づいていることです。



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~所感と解説 その2~ へ続きます。



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