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#内部の目の開発 【10/20(日)東京ワーク ~所感と解説 その2~】   

2019/10/24

~所感と解説 その1~ からの続きです。


*******************

⑥内部の目の開発と認識のシフトの関係

前回に引き続き、肉体の目と内部の目の見え方の違いと使い方について
以下の順番でワークしました。

1.肉体の目で(空間の)一点を見る
2.肉体の目で(空間)全体を見る
3.内部の目で一点を見る
4.内部の目で全体を見る
5.肉体の目で全体と一点を同時に見る
6.内部の目で全体と一点を同時に見る

通常、肉体の目の意識で見ているときは一点か全体どちらかにフォーカスされていて
全体を見ながら一点を同時に見ることができません。

同時に無理やり見ようとすると視界全体がぼやけるか、双方のフォーカスが定まらない
まま眼球が動いてしまいます。

それに対して内部の目(目の奥4~5センチのポイントに意識を置き、肉体の目は
その場に置いたまま、映っているものを眺めている感覚)で見るときには、全体を
映しつつ、全体の中の一点も同時に映っている状態が起こります。

内部の目で見ているときには身体内部が内側から立体的に広がる感覚が起こります。

この視点のシフトは認識の変化と観測者の定点の変化を具体的にもたらします。


ワーク中に参加者さんが「内部の目で一点と全体を同時に見ているときには、一点は
全体の中にあるけれども、それ自体を対象として『つかめない』感覚です」
とおっしゃっていましたが、まさにそこがポイントで、全体の中のどの一点も
明確に映っていながら「自対他」という関係性は力学的に発生していないのです。

それはすなわち、どの一点も全体と同時にあってすべてが同等に存在するという
状態です。

この視点が瞑想においてニュートラルな見方の基本となり、気づきの精度があがる
ポイントとなります。


気づきは「見ること」と無意識に連動していて、ここが意識化されていないと、
瞑想中に何かに気づくときには肉体の目が連動して動いてしまいます。

そうすると、目の動きとともに気づきの対象に「自分」が移動してしまうのです。

それに対し、内部の目は気づきの対象に連動することなく不動で映しているだけです。
(この目は不動であっても定点としての主体感覚は伴いません。なぜなら、それはただ
鏡のように映しているものだからです。)

この目=気づきのセンターが確立されると、不動で映している中でちらちらとそこから
ズレて動き出そうとする様々な現象が即座にとらえられるようになります。



⑦「意識の動体視力」内部の目で見切る感覚

前回に引き続き、まず肉体の目の動体視力のトレーニング(指の動きを眼球で追う等)
を行った後、次に眼球を動かさず内部の目の意識だけで対象の動きをとらえていく
ワークを行いました。

例えば、視界の中に指が入ってきたとき、眼球を動かして見るのではなく、意識だけで
その瞬間をとらえます。

このとき、視覚としては指は視界の中に映り込んでくるだけですが、内部の目が発動して
身体内部が立体的に広がっている感覚が発生していれば、しばしば視覚とともに
「むこうから触れてくるような」触覚が同時に発生することがあります。


この、視覚と触覚の混在したある種の共感覚のようなものは、ワンネスにおける二次的な
感覚として発生してくることがありますが(すべてのものがひとつの中にあって同時に
触れているといった感覚)、日常においても比較的しばしば起こっている感覚です。

例えば、綿を見た時にふわふわした感触が想起されたり、金属を見たときに冷たく
硬い感覚が想起されたりするときに同じような感覚が働いています。

⑥にもあげたように、内部の目の意識で起こってくる事象の動きに気づくときには
見るというよりは動きのベクトルが発生する瞬間に「触れる」感覚のほうが近い
かもしれません。


内部の目の意識の動体視力が鍛えられてくると、不動に映っている中からズレて顕れて
くる動きをより微細なレベルで見切ることができるようになります。

このズレは、ある事象が意識に顕れたときにそれを「つかもう」とする引力=カルマ
のパターンによって生じます。

肉体の目で見ているときには、引力の瞬間をとらえることができず、現象として展開
してしまった段階でしか気づくことができません。


意識の動体視力のワークをふまえたうえで、これも前回同様、紙に描かれた黒い点に
集中していただき、集中からズレる瞬間を内部の目で見切るワークを行いました。
(黒点の一点を⑥のように内部の目で見ることに集中する)

気づきにおいてどの感覚が優位かによって、集中がズレる瞬間に顕れるものは異なって
きますが、ある参加者さん(前回は不参加)は「黒点からズレる瞬間、視点がちらちら
動いたり突然がくんと大きく動いたり、その間に意識の空白の瞬間があったりしました」
とレポートされました。

前回、黒点に集中するワークと「サッカード」という眼球運動の特性の関係を説明しま
したが、サッカード運動はまさに上記のような変則的な動きを繰り返すものであり、
「視点のズレと移動」に特化した観察においては非常に正確なレポートなので感心
しました。

このレベルで観察できるようになると、瞑想で起こってくる様々な事象を見切る精度が
どんどん加速化していきます。



⑧思考の発生現場を見る / 「私」が思考することは可能か?

⑦のワークをふまえ、集中からズレたとき顕れる思考がどこからどのように発生
しているのかを見るワークを行いました。

とかく瞑想において思考というと「切り捨てるべき悪者」ととらえられがちですが、
思考の機能や思考の発生そのものが悪いわけではありません。

問題なのは、思考の種が発生した次の瞬間にパターン化された個人的嗜好に惰性的に
気絶することです。

この惰性と気絶がその人の世界を展開し存続させていきます。

(嗜好を一般化し分類したものが煩悩と呼ばれるものです。思考の種の発生はカルマ
によって自動的に起こります。この種自体を意図的に止めようとすると抑圧が起こる
ため、私は思考の種の発生の段階は流しっぱなしにする方法をとっています。ただし、
現象世界で対処できるパターンについては出来うるかぎりの対処をするべきです。)


今回は思考を受動的に見るのではなく逆に、あえて自ら能動的に思考しつづけてみる、
といった一風変わった方法を実験的に試みました。

方法はシンプルで、ひたすら「私」自身が思考を能動的に起こし、途切れることなく
思考していきます。

すると、瞑想中にあれほど思考にとらわれ、ふりまわされ「止めたい」と思っていた
にも関わらず、逆に思考しつづけようとすると今度はそれが続かず、空白の瞬間が
生まれているのに気づきます。

しかも何もないところから思考を自ら発生させようとしても発生の瞬間自体はどうや
っても自分で生み出すことができないことに気づきます。
(発生は常に直前の何らかの因子によって自動的に誘発され、その瞬間は空白にな
っています)

そして、「私」が能動的に思考しようと四苦八苦している間にも、その状態に対して
「よくわからないなあ」「何か考え出さなくちゃ」「何の意味があるんだろう」等々、
「私」が能動的に発生させたのではない思考が自動的に発生してきます。


思考や妄想が次から次へと連鎖してとまらない状態があったとしても、それは
「私」が能動的に発生させ持続させているのではなく、思考の種が何かの因子に
触れて自動的に発生し、嗜好パターンが自動的にそれをつかんで持続させて
いるだけです。

すなわちある意味、今この瞬間の「私」なるものは、思考の発生から持続の一連
の流れになんら能動的に参加していないということになります。

このとき思考は「私」のものといえるでしょうか?

この参加していない「私」とはいったい何者でありどこにいるのでしょうか?



⑨「自分」とはなにか(自己同一感覚を成り立たせているもの)

次に⑧の実験をふまえたうえで
「今まさに自分が自分であるという感覚はどこにあるのか?」
という自己同一感覚の源を探っていきました。


まず参加者さんに唐突に「今、自分はどこにいますか?」と尋ねました。

すると一瞬きょとんとした顔をされたので、もう一度言葉を変えて
「今この瞬間、自分が自分であるという感覚は何によるものですか?」
と尋ねました。

すると一瞬の間があったのち、ある方は「怖れです」と答え、ある方は
「ハートの辺りの感覚です」と答えました。

各自の優位な感覚によって当然その瞬間の答えには違いがでてきますし、
絶対的な正解があるものでもありません。

そのときその人がそう感じてそのように答えた、という事実があるだけです。


とはいえ、個人的な感触としてはそれらの答えに「気づきの遅れと分別の
発生」を見てとり、ちょっと肩すかしをくらったような違和感を感じました。

というのも、まさに今この瞬間といったときに、真にとっさにそれを顕そうとすると
禅問答ではありませんが、ドンっと足を踏み鳴らしたり、ふっと息を吐いたり
輪郭の一部をなでたり、床をさわったり、対面している私に向かって指さしたり、
「あっ」と一言発したり、「い~!」と歯ぎしりしたり、といったことしか
できないと思うのです。
(ちなみに、なるほどそういう類の答えを求められているのか、といって真似
をするのはもっとも真実から遠いことです。)

もちろん、それぞれが答えに至る前には何らかの感覚が起こっていたはずなの
ですが、それらを統合して言葉にするときに、瞬間にあったはずの「生々しい」
何かが抜け落ち、行儀のよい分別だけが提示されている感じがあります。

そこにはすでに「私」の怖れ、「私」のハート、といった「私」がはじまって
しまっているのです。

それは「持続してしまった時間に顕れた私」のアイデンティティです。


もし本当に愚直に顕されたとしたらそれは「きょとんとした瞬間が私でした」
という答えでもよかったのかもしれないのです。

私自身は体感感覚が優位な性質で感覚を形に表現してきた経験とある種の図太さ?
があるため、瞬間的に上記のような反応を起こすかもしれませんが、心理面にせ
よ何にせよどのような感覚が優位であれ、やはり瞬間的には分別が働く余裕はな
いはずですし、この瞬間には常に言葉によっても思考によっても総括できない断片
しかないはずです。


逆にいえば、この「断片」を編集・総括してとらえられたものが「私」という
感覚だということになります。

それでは、この「私」という感覚を編集・総括するプロセスはどのように
起こるのでしょうか?

このプロセスは、自我や脳の進化とも深く関わっています。

これに関しては次回、もう少し具体的なワークを通して見ていきたいと思います。



⑩意図と自己と行為 / 脳内シミュレーションに気づく

不完全とはいえ、⑨で「私」という感覚が意識化されたうえで、
またしても唐突に「あの壁を触ってきてください」と指示しました。

すると参加者さんたちは素直に壁に向かってまっすぐ歩いていって壁に触りました。

そこで「今、移動のあいだに何に気づいていましたか?」と尋ねました。

するとまたしても一瞬きょとんとしながら「目的にむかって何も考えていません
でした」と答えました。

そこではじめて「あっ、今まさに気絶していたんだ!」ということに
気づかれました。


次に、片手をあげて壁に沿わせ、右足を壁につけたまま壁についていないほうの左足
を動かして、先ほどのように向こうの壁まで歩いて触ってきてください、と指示しました。

すると身体構造上の理由から、壁に足をつけていると重心が移動させられず、歩こうとしても
足があがらず歩き出せないという事態が起こりました。

このとき、意識では「壁を触りに行こう」という意図が発動し重心が動き出そうとしている
にも関わらず、行為としての歩行の一歩が踏み出せない、といった「意図と行為の分離」
の感覚が起こります。


通常、行為が目的どおりにスムーズに達成されるときは、目的へ向うまでのプロセス
(目的の発令⇒意図の発動~意図とエネルギーと重心の統合~重心移動と運動の発動
⇒目的の達成)はほとんど無意識のうちに行われます。

このプロセスにおいて、これもまた無意識のうちに「行為している自己感覚の発生」と
「目的が達成されるまでの脳内シミュレーション」が同時に進行しています。


それが今回のように行為が不意に阻まれたときには、プロセスの統合が起こらずそれぞれ
の機能が一瞬、慣性で動き続けようとしながら行き場を失いバラバラに宙に浮いたような
違和感を覚えます。

スムーズに目的が達成されていたときの無意識=気絶の間に起こっていたプロセスが、
このときはじめて強制的ながらも意識化されたのです。


このワークは無意識のプロセスを意識化することが目的なので極端な方法をとって
いますが、常に行為を分断して気づかなくてはいけないということではありません。

大切なのは、目的⇔行為の間に気絶することの繰り返しの日常に気づき、惰性的な
世界の展開の構造を見抜くことです。

そして、目的と意図と行為の発動と結びついて出現してくる自己感覚の「手触り」
の萌芽に気づくことです。

この気づきは具体的に瞑想の次の段階に関わってくる重要なポイントなので、
引き続きワークに取り入れていきます。


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