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【12/7 (土) 東京ワーク】 ~所感と解説~      

2019/12/11
12/7(土)東京にてワークを開催しました。


【今回の主なメニュー】

・身体を「置いておく」/ 身体に「お任せする」ための力学的な姿勢
・呼吸が10分の1になるときの丹田の奥の抜け穴を見つける
・肉体の呼吸から存在の呼吸へのシフト
・頭を落としハラで寝てハラで起きる / 丹田の底で寝息を聞く
・存在自体から受動的に起こる微細な呼吸を知る
・どこまでも途切れずに微細な領域に入り続ける動的集中力
・呼吸の停止とエゴの恐怖について
・3次元を俯瞰するための内部の目の獲得と立体構造
・内部の目に現象が映っているときのフォーカスの具体的な感覚
・肉体のはじまりが存在に触れたときに湧き起こる笑いについて


*******************
【所感と解説】


前回に引き続き「存在」の入り口を具体的にどうやって見つけるかをテーマ
にワークを行いました。


以下、実際の方法です。


まず、丹田の奥を意識しながら、丹田に向かって息を吸います。
(実際に空気が入るのは肺ですが、肺ではなく丹田に入っていく
感覚で行います)
限界まで吸ってこれ以上吸えないギリギリのポイントを見つけます。


今度は逆に、丹田から息を吐き出す感覚で、これ以上吐き出せないギリギリ
のポイントを見つけます。

要は、丹田を意識し続けたまま肉体的に呼吸可能なギリギリのポイントを見
つけるということです。

このとき、意識は肉体にフォーカスしているため、ギリギリのポイントで呼吸を
止めていると苦しくなってきます。


次に、丹田の奥のギリギリのポイントまで息を吸い込んだら、肉体にフォーカス
していた意識を一瞬ふっとゆるめる感覚でポイントのほんの少し奥(肉体と
イメージの境界)へフォーカスをシフトさせます。
(頭部、特にサードアイの辺りに意識が固定されているとフォーカスを落とし込む
ことができません)

すると、肉体的にはもうこれ以上吸えないはずだったポイントの先に、ごく微細な
息とともに入り込んで行ける「抜け穴」のようなところが見つかります。


「抜け穴」が見つかったら、微細な息が入りきるところまで進み、限界まで進んだら
今度はそのポイントから息を細く長く吐き出していきます。

このとき、吐き出す息とともに意識が頭部へ昇っていかずに丹田の奥のポイントに
フォーカスし続けるようにします。


息を吐き出しきるときも、肉体の呼吸を超えて先ほどの「抜け穴」から微細な息が
細く長く吐き出され続けることを見届けます。

吐き出しきったら、再び息を「抜け穴」の奥から吸い込んでいき、最初の「抜け穴」
のポイントのさらに奥へ入り込んでいきます。


このように息を吸ったり吐いたりすることを繰り返すたびに「抜け穴」の奥へ細く長く
途切れない微細な息とともに少しずつさらに奥へと入り込んでいきます。

この微細な息で入り込んでいくときには、意識は肉体の枠を超えて呼吸と一体化
しており、肉体的な呼吸が止まる限界を超えていきます。


この段階まで進むと、ごくごく微細な呼吸が「抜け穴」の奥から自動的に吸ったり
吐いたりしていることを発見し、吸うことと吐くことはどこまでも微細に一続きに起
こっていて軽く透明な意識が羽根のようにそれに触れている感覚に出会います。

このとき、深く軽く微細な感覚のイメージに気絶してとどまらないように注意します。
(イメージにまとまって気絶してしまうのは集中力がその段階のレベルで途切れて
しまっているためです。意識の微細さのレベルが気絶の段階を決定します。)

あくまでも、奥底で自動的に起こっているどこまでも微細に続いていく流れの一
部始終をひとつも漏らさずに刻々と明確に見届けつづけていきます。
(このレベルでは努力せずに自動的に見続けていられるはずです)


このポイント自体は「存在」そのものではありませんが、エゴがパカっと脱落し「存在」
の深淵に抜け出るための前段階となります。

(先の話ですが、その瞬間は唐突に「抜け出る」という言葉が近いものです。
ただし、今このわたしとは別の場所に「存在」の場があってそこに抜け出る
ということではなく、エゴがつかんでいた対象が抜け落ちたときにもともと「存在」
そのものだったわたしに再会するということです。シフトの瞬間の「感覚」はあくまでも
掴んでいたものが抜け落ちるときに現象側で感知されるものです。)

深奥から自動的に起こっている呼吸は未だ肉体感覚の発生の境界線で気づかれている
段階ではありますが、それは「存在」自体から起こっている呼吸=収縮の顕れの一端です。


実際の感覚としては、抜け穴の奥から起こってくる極小の寝息を熟睡状態かつ明晰な
気づきを保ったまま受動的に見させられているような感じです。

このポイントにあるときは、なんとも言えない微細な快楽と安心の感覚があって
いつまでもそこに留まっていたいと思うような状態なのですが、この状態の安らぎを
安心の住み家と勘違いしてそこに遊んでしまうとその先へは進めません。


このワークを行っているときに、ある参加者さんが
「ポイントの先へ入っていったときに呼吸が停止する感覚になり恐怖を感じました」
とレポートされたのですが、この恐怖は一定以上のレベルの瞑想をしていると誰もが
しばしば感じる感覚です。

これは、肉体の呼吸から意識の呼吸へ移行する際に、未知の意識の領域に対する恐怖と
肉体の死への恐怖からエゴが発してくる危険信号です。


「集中が深まったときに呼吸が停止しているのを感じ、ぞっとしてそこで瞑想を
止めてしまいました」というのは非常によく聞く話なのですが、瞑想がはじまるのは本当
はここからなのです。

そもそも、今まで慣れ親しんだ肉体の意識で感知していた粗い呼吸が止まったように感じ
たとしても、実は存在自体からの根底の呼吸(存在そのものの収縮)が止まることは
決してないのです。
(あまりにも微細なため、粗い意識では感知できていない状態)

また、瞑想中に肉体の呼吸が止まったように感じたとしても、そのことで死に至ることは
決してありません。


ただし、粗い意識の側から呼吸の停止を感知した瞬間、エゴの危険信号により意識が肉体
へ即座に戻され、戻された瞬間に呼吸が浅く粗くなれば、肺のレベルで呼吸困難とパニック
を引き起こすことはあり得ます。

肉体と同化したエゴはこの肉体レベルの呼吸困難と死を生物として本能的に恐れているの
です。


恐怖は必ず、エゴに引っ張られる意識の「揺らぎ」から発生します。

しかし、存在の呼吸に安らいでいてフォーカスが揺らがないときには、肉体の呼吸を忘れて
存在自体に生死そのものを完全にお任せしています。


(いわゆる聖者の「アンダーグラウンドサマディ」では、土の中の空気のないところで
呼吸を停止して三昧に入っている状態であり、そのような状況で一瞬でも意識が肉体へ
引き戻されれば呼吸困難によりたちまち死に至るのは事実です。
水の中の人が、恐怖を感じた瞬間にパニックになって水を飲み溺死するのと同じです。
しかし、空気のある場所で瞑想しているかぎり、意識が揺らいだところで死に至ることなど
決してないので安心して大丈夫です 笑)


肉体的な恐怖とは別に、未知の領域へ入っていきエゴの存在が抹殺される恐怖というのは
もう少し実存の根元的なものですが、このときに浮上してくる恐怖の対処の仕方を知ってい
ればその先へ進むことができます。

必要なレベルにある方には、この対処の方法を具体的にお教えします。

ここには気づき、空、祈りの本質が関わってきます。


また、瞑想を長く続けてきたある参加者さんは
「これまでも時折、禅定に入って呼吸が止まったようになることがあるが、
どのようにしてそれが起こったのかわからず、ただ偶然にまかせている」
と言われました。

その時々の偶然にまかせる、という態度自体は瞑想の心構えとしては正しい在り方
なのですが、問題なのは瞑想の流れの中で曖昧で不明瞭な空白の時間が発生して
いることです。

この空白の瞬間に気づかないうちに、うっすらとした禅定という名のイメージに気絶して
その間のプロセスがブラックボックスとなっているのです。


「むこう側」へ潜り抜けるための禅定=集中力は、先にも述べたように、どこまでも途切れずに
微細な領域を見続ける動的かつ受動的な集中力です。

明晰な瞑想は常に、刻々と起こり続けるすべての瞬間を刻銘に記憶しているものです。

そこに曖昧さはありません。

「なんだかよくわからないままに気づいたら禅定に入っていた」
というのは意識の粗さによって微細な領域を見切ることができていないためです。


明晰な瞑想のひとつの目安として、例えば映画を集中して見終わった直後のように、
瞑想中のプロセスのコマのひとつひとつを一から順に正確に説明できるか、というこ
とがあります。

願わくば、一回一回の瞑想に対して、このようなレポートをしていただきたいのです。


これは、瞑想で起こることを理性で記憶して説明することとは全く異なります。

頭の中の理性が落ちたところで内部の目に受動的に映され記録された映像のコマをひとつ
ひとつそのまま見返してみればよいのです。

動的かつ受動的な集中力はシステマチックに発動するものです。

この集中力は羽根のように軽いにもかかわらずソリッドでダイナミックなもので、真空管
に「ひゅっ」と吸い込まれるような感覚を伴うものです。


実のところ本来、すべての人はこの集中力をすでに持っています。

その証拠に、今この3次元の現象世界に完璧に集中し没入しています!

すべての人が、100%必ず何らかの対象に没入することで各自の形態を維持しています。


この没入するときの引力と、瞑想で必要な集中力は、根本的な力としては同じもので
それ自体に優劣があるわけではありません。

同じ力でありながら、集中する目的と対象が異なるだけなのです。


どの目的と対象に「ひゅっ」と吸い込まれてしまっているか、これは直列的な時間
から見ればすべての因果によって原子レベルに至るまでがっちりと組み込まれた
いわゆるカルマから成るものです。

このカルマの幻想を見切るためには、それと同じレベルの引力をもって、そちら側に
引き込まれる前の空白に後ろ向きに「飛び込む」のだということを拙著に記しました。


もう少し日常的な例えでいうと、人はゲームや映画や本や趣味など、興味のある対象
には寝食を忘れて没入します。

ところが、いざ瞑想となると集中力が続かず没入が難しくなります。


これは、瞑想の本質が「対象のないそれ自体への集中」だからであり、「対象のないこと」
への没入に対してエゴは退屈と自身の消滅の恐怖を感じるからです。

そのため、エゴは没入を阻もうとして興味を引く様々な対象物を探して隙あらば動き出そう
とします。

逆に、エゴが動き出そうとする意図を一点集中のサマタ瞑想のように無理やり停止させよ
うとすると、動きの止まったイメージへぼんやりと微睡んで気絶してしまいます。


先ほどの参加者さんの例でいうと、正確にいえば決して集中力そのものが欠如している
わけではないのです。

曖昧さが生じるときには、非常に単純にいってしまえばその瞬間、「曖昧さ」そのもの
に完璧な集中力で没入しているというだけの話なのです。


また、集中力が高まって呼吸が停止した感覚が生じたときに、その感覚自体に興味を
持って「これはなんだろう?」などと考えた瞬間には、その人は「これはなんだろう?」
というときの意識状態に完璧に没入しています。

この没入対象のズレが生じる際に、「禅定」という概念への固定化されたイメージや
思い込みが関与していないかに気づく必要があります。


なぜなら、人は必ずその瞬間に「信じている」ものに正確無比に没入しているからです。

この没入の結果は一切ごまかしのきかないものです。

その結果としての「今」がその人の顕れそのものだからです。


没入が本当に「それ自体」から湧き起こってくるものであれば、やがて瞑想とは
それ自体の対象のない引力の源への帰還なのだということがわかりはじめてきます。



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1/12(日)18:30~21:30  「東京ワーク開催日時が決定しました」      | 12/7(土)18:30~21:30  「東京ワーク開催日時が決定しました」      

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