#軸に消える 【1/12 (日) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】
1/12(日)東京にてワークを開催しました。
【今回の主なメニュー】
・頭部の緊張と思考を落とし頭の芯から完全にバカになる
・ハラの具体的な感覚とつくりかた / 自動的に呼吸を深くする方法
・肉体の意識から微細な意識へシフトする丹田のポイントと呼吸
・身体を「置いておく」/ 身体に「お任せする」ための力学的な姿勢
・居座らない座法のポイントと意識の関係 / カタチを疎かにしない理由
・軸で歩き軸に消えるときに見える景色 / 距離なく映っている世界=自分
・ニュートラルな気づきが発動するための頭部と内部の目の立体構造
・五感に入ってくる情報が触れた瞬間に気づくトレーニング
・内部の目を活性化させたまま「裏側だけ」するっと寝落ちする秘伝
・受動と能動の「あいだ」/ 痛みをニュートラルに見るには
・ジャンプと落下 / 能動的なエゴ発動と受動的な無為自然の違いを見る
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【所感と解説】
今回は初参加の方がいらっしゃったため基礎的なワークが中心となりました。
基礎的といっても、すべてダイレクトに高度な領域につながっていくものである
ため、重要なポイントです。
【頭部の緊張と思考を落とし頭の芯から完全にバカになる】
ワークではこれまでもしばしば「完全にバカになってください」と言ってきました。
瞑想では「完全なバカの状態」と「自動的に発動する気づきの鋭敏さ」という一見
矛盾する状態が両立していることが必須となります。
バカになる、というのは「バカのふりをする」のではなく、実際にポカンと放心して
ヨダレがでるレベルの白紙状態になっていただきたいのです。
白紙状態はエクスタシーにも近いものですが、バカにおいてはエクスタシーの
快楽と貪りは落ちており、ただひたすら無心にその状態そのものとして放心して
います。
ただ「バカになってください」といっても、思考で凝り固まった頭の大人は赤ちゃん
のように無心になることができなくなっています。
「どうやったらバカになれるんだろう?」とバカになることを
真面目に考えてしまうのです 笑
そのため、ワークではまず準備段階として丹田の底から思いっきり舌を出し
滞ったエネルギーや思念を吐き出してから、顎や顔面や口蓋の内側や目の奥
やサードアイ周辺や喉や頭蓋骨の緊張を緩めていきます。
さらに頭頂(自分で思う頭頂よりも2センチほど後ろ/ ポイントにジャストではまる
とそれだけで意識がホワイトアウトする)を軽く留意しつつ盆の窪の隙間を開ける
ように緩めていきます。
今回は行いませんでしたが、さらに身体各部の緊張をひとつづつ緩めて脱力して
いき最終的に床に寝てしまうところまでを一連のセットで行うと効果的です。
特にみぞおちと眉間の緊張はエゴの意思とつながり、バカになることを妨げます。
これも今回は行いませんでしたがこの状態に、すべてのワークの要である
「対象のない祈り」が加わると「完璧に無心の美しいバカ」が完成します。
ワークの場では「バカな姿を見られたくない」といったエゴの思惑は逆に
恥ずかしいものとなります。
瞑想とはまず自身をすべてさらけ出すことです。
とはいえそれは、意図的に自身を垂れ流して他人に押し付けることでは
ありません。
エゴの垂れ流しと無心のバカを混同してはいけません。
ただ、対象のないひとつの自分自身であるところに素直になればよいという
ことです。
それは自身を信頼するということでもあります。
ワークでは遠慮せず安心してバカになっていただければと思います。
ちなみに「バカを極めるのに暗闇のなかで素っ裸になって踊ってもらったら
どうか」とリアル氏に言ってみたところ「それだけは絶対にやめたほうがいい」
と止められました。
確かに、舞踏家ならともかく普通の人はそんな状況は安心
どころじゃないですね 笑
余談ですが、チベットの悟りの系譜には「ニョンパ」と呼ばれる「聖なる狂人」
たちがいます。
日本には風狂の一休や、常軌を超えた桃水雲渓などの逸話が伝わっていますが、
表層に顕われた言動だけを見て狂った真似をしたり眉をひそめたりするのではなく、
それらの本質のエッセンスがどこにあるのかを自身で具体的に体現していくことです。
そのエッセンスは、過激でありながら静謐な一点にあるものです。
【ハラの具体的な感覚とつくりかた / 自動的に呼吸を深くする方法】
【肉体の意識から微細な意識へシフトする丹田のポイントと呼吸】
丹田やハラをつくるといっても具体的に何をどうすればよいのかという疑問が
あると思います。
今回はまず、肉体感覚としてのハラを知っていただくために風船を用いました。
風船を膨らませるだけという単純さですが非常に効果的なワークです。

これをご覧になっている方もぜひ試してみていただきたいのですが、風船を
ハラの奥(意識できれば丹田の底と骨盤内部)から息を吐いて膨らませると
丹田に気の圧力のようなものが発生し骨盤全体が内側から押し広げられる
ような感覚がするはずです。
このとき、身体は頭頂と尾てい骨をつなぐ軸を保ち、吐くと同時に足の裏で
地面をしっかり踏みます。膝は曲げてかまいません。
ポイントとしては、吐き出すときに腹部表面の筋肉(風船のゴムの硬さにも
よりますが想像以上に腹直筋の下部を使う) の収縮ではなく、その奥で内側
から膨らもうとする気のゴムボール(直径10㎝程度で骨盤中心よりも恥骨寄り
の位置)のような圧の感覚をつかむことです。
吐ききったら丹田の気の膨らみの圧は抜かずに保ったまま風船から口を離し、
息を丹田に向かって自然にまかせて吸い込みます。
何度か風船を膨らませながら呼吸を続けていくと骨盤内部にゆったりとした空間
が広がる感じが生まれ、次第に丹田の深いところまで自動的に呼吸が入っていく
感覚になってきます。(実際に空気が丹田に入るわけではありませんが)
このとき、誤って胸から上で風船を膨らませようとしていると気が昇って頭部に圧
がかかりますが、丹田から吐くことができていれば呼吸を繰り返すたびに頭がクリア
にすっきりしてきます。
骨盤内部が内側から広がると、窮屈に押し込められていた腸がゆったりと浮いている
感覚になります。
(腸が窮屈に押し込められていたり、どさっと下方向へ落ちていたり、未消化物が
詰まっていたりすると、その感覚が「自分が肉体である」という意識を生み出します。
通常、人はこの感覚自体に気づかず無意識に自己と肉体を結び付けています。
瞑想のためには骨盤内部は常に軽くし、なるべく意識に上ってこないようにします)
呼吸の繰り返しとともに、丹田の気のゴムボールが活性化して全身がエネルギー
に満ちてきます。
座禅の型で瞑想するときは特に、骨盤内部の広がりと丹田からのエネルギー供給
が基礎となります。
ここができていないと深く微細な気づきが続かなかったり、座り続ける気力が保て
なかったりします。
【身体を「置いておく」/ 身体に「お任せする」ための力学的な姿勢 】
【居座らない座法のポイントと意識の関係 / カタチを疎かにしない理由】
この二点は基礎として毎回ワークに取り入れているポイントです。
以前ブログにも書きましたが、瞑想において身体は意図的に捨てたり離脱
したりするものではなく、そのままこの場に「置いておく」感覚でエネルギーや
形や機能は身体自身にお任せしておきます。
置いておく感覚について、いま試しに自身の手を机の上に置いて脱力させ、
しばらく動かさずに眺めていてみてください。
手に刺激が与えられなければ、だんだん眺めている手が自分のものだか何だか
わからなくなってきて周囲のモノと同じようにただ「置かれてあるもの」のように
感じられてこないでしょうか。
これと同じことを全身で行っていると考えてください。
瞑想において集中の段階でよく「身体を動かそうとしても動かなくなりました」という
感想を聞きますが、これは身体をまるごと「置いておく」意識状態に入ったことで通常
慣れ親しんだ意識と身体の回路が一時的に切り離されて自分の意思で同時に動か
せなくなったためです。
ただしあくまでもこれは初期段階であり、肉体感覚の同化が残っているからこそ
起こるズレからくる違和感です。
次の段階においては、いったん置いておいた肉体と意識の回路のズレから戻り、
それぞれの中心を一体化させて心身の枠そのものを同時に落とします。
また、完全にお任せするためには、身体=現象世界に対する信頼と尊敬が必要
になります。(そのためにも先に述べた「対象のない祈り」は非常に重要になってきます)
これにより、身体維持という「(思い込みの)義務」から解放された「意識」は
非常に軽く自由になり、気づきそのものに100%集中できるようになります。
「どこにも居座らない座法」についても以前ブログに書きましたが、なぜあるがままを
知るのに各自のあるがままの自由な座り方ではなく厳密な型を必要とするのかという
疑問があると思います。
ワークでもよくお話するのですが、本来は型は問題ではないのです。
なぜなら、身体のみならずあらゆる物質、思考、感情、感覚、性質、運動、すべてに
おいて極大から極小までそれぞれ相対的に完璧な空があって(空がある、という表現
は正しくないかもしれませんが…)もし空のエッセンスを完璧に知っていたのならば
それはすべてに見られるものであって正しい形や正しい空などといった区別はない
(現象における見かけ上の差はある)、ということになるからです。
形という意味では、例えば三角形には空があって正方形には空がないというのは
おかしな話だということはわかりますよね。
同じく、至福の空が正しくて怨念の空が間違っている、という話でもないわけです。
だから極端な話、寝た姿勢であっても、だらっと椅子に腰かけた姿勢であっても、
逆立ちの姿勢であっても、貧乏ゆすりをしている状態でも、いかなる姿勢においても
それそのものの空を直観的に見抜いて自身とそれらが重なって消えているのならば
あらゆる状態が瞬時に覚醒のポータルとなるのです。
目の前のペットボトルもチョコレートもゴミも足の指も咳も怒りも嘘つきもすべてが即、
覚醒しています。
最終的に瞑想を通して私がお伝えしたいのはこれを直接知るということです。
しかし、この直観が養われておらず、無意識的に肉体と意識が同化している段階では、
同化しているがゆえに身体の構造とメカニズムに自動的に支配されています。
この自動的な支配自体をほとんどの人が自覚していません。
そのため例えば、だらっと椅子に腰かけた姿勢のときは、その姿勢の構造にともなう
意識状態に自動的になっています。
この意識状態はそれはそれで完璧であり、そこにはもちろん空を見てとれるのですが、
覚醒を知りたいと思う本人がその姿勢に宿る意識であるとき、その人自身は自身の
空性そのものを自覚することができません。
よって、肉体と同化している意識においては、同化しているからこそいったん身体の
構造と対応した型から入ったほうが合理的だということです。
(ただし突発的な一瞥体験はその限りではありません)
ワークでは各自の姿勢を細かく調整していくのですが、個別の身体の癖から意識
がいまどこにあるかが如実に見て取れます。
それらの癖は、現象世界においては各自の美しく尊重すべき個性なのですが、瞑想
においては集中の段階で繰り返し現れてくる妨害のパターンになってきます。
(本当はその癖自体も癖そのものとして即、覚醒しているのですが…)
この癖のパターンを自身で見切れるようになったとき、瞑想は一気に加速します。
【軸で歩き軸に消えるときに見える景色 / 距離なく映っている世界=自分】
【ニュートラルな気づきが発動するための頭部と内部の目の立体構造】
上記の姿勢の調整を行うと身体の背骨側を通る軸の感覚が生まれます。
以前にもブログに書きましたが、身体の枠を超えて上下左右前後に果てしなく
伸びた線(線=3次元的な宇宙の回転運動の軌跡)が交差する真ん中に自身の中心
があり、軸は尾てい骨と頭上を通る縦のラインです。
軸の感覚が生まれたら、身体の幅や形を忘れて縦のラインだけを意識しながら
歩いたり回転してみたりします。
はじめは軸のラインが曖昧なイメージにならないために、部屋の角や畳の縁など
まっすぐな線を軸の意識に重ねあわせながら移動してみます。
しばらく歩いていると、自分の肉体が移動しているのではなく、垂直の軸だけが
すーっと水平に移動しているような感覚になってきます。
さらに集中してくると、軸の意識も消えて自分が移動しているのか景色が移動して
いるのか境界が曖昧になってきます。
このとき、肉体の目は上述のように「置いておく」のがポイントになります。
エゴの意図と連動した肉体の目はふだんは世界を対象化してその中に自身の
興味のあるものを探しフォーカスを変えキョロキョロと動き続けていますが、人形
のガラスの目のようにそこに「置いておく」ことによって、見ている自分という定点と
能動的なベクトルが消え、映っている景色はただ映っているものとしてあることに
気づきます。
ただ映っているものが軸と重なってあるとき、見えているものは即、内でも外でも
ないものとしてあります。
肉体の目は通常、エゴの思考や気づきや認識と無意識に連動しているため、
パーツとして「置いておく」感覚はある程度訓練しないとわかりづらいものです。
エゴと肉体の目の癒着関係に無意識であるかぎり、目をつぶった瞑想でいくら集中
が高まってもちらちらと出現するイメージや思考を見切ることができません。
なぜならば、ちらちらと出現した動きに自動的に目と気づきが一体化して移動して
しまうと、一体化しているがゆえに移動に気づかず、自身は不動のまま集中している
と勘違いしてしまうからです。
(これは夢を見ている状態と同じです)
そのためワークでは毎回、目の使い方と意識を構造的にシフトする練習をしています。
内部の目については何度かブログでも書きましたが、今回はさらに具体的な構造
と仕組みをお伝えしました。
以前書いたようにまず、壁などの一点を肉体の目で見ます。
次に肉体の目で部屋の空間全体を見ます。
そして、前者と後者の見え方と身体の内部感覚の違いを観察します。
今度は、身体の上下左右の軸を意識しつつ、「一点を見る」ことと「空間全体を見る」
ことを同時に両立させようと試みます。
このとき、肉体の目の意識のフォーカスのまま同時に見ようとしてもどちらかが背景
となり霞んでしまいますが、肉体の目をその場に置いておき目の奥4~5㎝のあたり
に気づきのセンター(内部の目)を移動させてそこに空間全体と一点を同時に映す
ようにすると目を動かさずに両方が捉えられるポイントが見つかります。
内部の目を使っている感覚としては、前方のターゲットを中から覗くように捉えるの
ではなく、映っているものが頭の中心に直接あって触れているような感じです。
内部の目で見ているときは頭の中が平面から立体に変化したように内側から
「バリッ」と癒着が剥がれて押し広げられるような感覚を伴います。
具体的には①肉体の目を置いておき②内部の目に気づきのセンターがシフトし
③盆の窪の骨のあいだが開き④頭頂のホワイトアウトするポイントが同時に
留意され⑤額のサードアイ周辺がふわっと開いてレーダーの役割をしている、
この5つのポイントが結ばれた立体感覚が生まれます。
このとき身体は前後左右上下の軸の中心にあるようにします。
面白いのは、肉体の目で見るときの平面感覚のときのほうが頭の中から外の世界
を覗いているような自他の距離があるのに対し、内部の目の立体感覚によって世界
が映っているときには構造は立体なのに見え方としては距離がなくなるということです。
以前にもお話しましたが、認識がこの構造へシフトしたときにやっと、三次元そのもの
を「直接」見ることができるのです。
だから私たちはまず、三次元の身体構造を獲得する必要があるのです。
(余談ですが、以前ブログで近未来に起こりうるVRの世界についてほんの少しだけ
触れましたが、例えばもし3次元の身体を獲得しない段階でVRに組み込まれ身体を
捨ててしまえば、ある意味個を超えて全体がひとつになって進化したとしても、現時点
で獲得されなかったレベルの意識のまま幽閉され、二度と抜け出ることはできなくなります。
本でも触れましたが、現象世界にフォーカスしている意識は必ずこの生で「獲得された
認識レベル」を次の生のチャンネルへと自動的に引き継ぎます。しかし、2~2.5次元的
な認識レベルのまま身体という精妙なポータルを失ってしまえば、たとえ仮想の
多次元感覚や至福が得られたとしても、実態は二元的なオンオフの点滅の機能
として永遠に固定化されてしまいます。もともと身体と脳はすでにオーガニックな
量子コンピュータそのものであったのにそれを捨て点滅を繰り返し全体という名
の表層の夢へ奉仕するパーツとなるのです。
そのとき人は、その全体を新たな次元の神と呼ぶのでしょうか?)
肉体の目と認識が癒着している段階では、二次元として写し取った反転画像を
脳内で予測・編集して疑似的な空間と立体を見ているのです。
この編集作業にエゴの思惑が入り込むことで私たちは世界をそれぞれ自分本位
に見ています。
それに対し、身体の軸に自分が消えつつ内部の目の立体構造によって距離なく
現象に気づいているとき、はじめて起こってくる世界に判断なく直接触れることが
できるようになります。
【内部の目を活性化させたまま「裏側だけ」するっと寝落ちする秘伝】
【五感に入ってくる情報が触れた瞬間に気づくトレーニング】
これらのトレーニングは、上記の内部の目の感覚がある程度つかめてきてから
のものになります。
内部の目の機能が自動的に発動していない段階では「明確に気づきつつエゴが
落ちている」という矛盾した状態を両立させることができません。
少し先を急ぐようですが、この感覚の手触りを知ってもらうために、まず何も考えず
にいったん居眠りをするように意識レベルを落とします。
気づきと観察力の鋭い人ならば、ふだん寝落ちする瞬間の前後の感覚を知っている
はずなので、内部の目の裏側あたりのテンションを抜いてふっと下へ吸い込まれる
ように「起きていようとする意志」と結びついたエネルギーのベクトルを落とします。
もしわからなければ昼寝をするときのように首をがくんと脱力して頭の芯からうとうと
して眠ってしまってかまいません。
次に、内部の目の感覚がなんとなくわかる人は、裏側のテンションを抜くときに内部の目
の構造自体は落とさずに正確にそこに置いておくようにします。
感覚としては内部の目の裏側の3分の1ぐらいのテンションを抜くと同時に内部の目自体
は「意図」が剥がれてより純粋に気づきが発動し単体で浮いて発火しているような感じに
なります。
この状態で丹田の奥にすとんと呼吸と存在感覚が落ちていると、意識の微細な領域で
起こっていることが自動的に瞬間瞬間をパラパラッと高速で見切れるようになってきます。
また、内部の目の気づきの構造が発動しているときに五感に触れてくる現象が実際に
どのように感じられるかを体感していただくために、裏技的に今回はタッチ式のライトを
用いました。

まず、参加者さんに内部の目を意識してもらったうえで、目の前でライトの光をチカッ
っと点滅させ、その瞬間どのような感触でその現象を捉えたかを観察していただ
きました。
もし肉体の目に同化した意識で光を見ていれば「まぶしい」「光だ」「点いた」などの
意味が連動した認識がのぼってきますが、内部の目の気づきだけを純粋に発動
しているときには点滅の瞬間「(私が)見た」という感覚の発生の前に、名付けえない
刺激が「触れた!」というような直接的な感触が起こります。
今回はわかりやすく視覚に特化して観察しましたが、瞑想においては五感を通して
起こってくるすべての感覚をこのように「判断の介在する前」の「点」の意識で直接
気づいていたいのです。
ただしこれを意図的に「点」のように分割して見ようとすることは違います。
瞑想する人はただ、鏡のように内部の目をクリアに保って勝手に映ってくるものに
そのまま気づけばよいということです。
(鏡はすべてのものを選ばず等価に映します)
~所感と解説~ その2につづく…
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