#無為自然 【1/12 (日) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】
~所感と解説~ その1 からのつづきです。
【受動と能動の「あいだ」/ 痛みをニュートラルに見るには】
【ジャンプと落下 / 能動的なエゴ発動と受動的な無為自然の違いを見る】
私たち人間は、あるときは受動的、またあるときは能動的に世界や他者や現象
との関係性のなかで生きています。
この仕組み自体は何も問題はないのですが、私たちは自身の定点=エゴを持つ
とき、能動と受動の果てしない関係性に苦しみや欲望を覚えます。
例えば、「この私」が言われのない誹謗中傷を他者から受動的に浴びせられれば
被害者として怒り苦しみ、逆に「この私」が能動的に他者を小馬鹿にして優越感や
快楽を覚えたりもします。
また、「この私」が物質的な嗜好品を能動的に手にいれて快感ホルモンに酔って
いたり、「この私」に起きるはずじゃなかった突発的な事故に受動的にあって加害者
や運命を呪ったりします。
これらは心理的な反応による快・不快の感覚ですが、この仕組みは「この私」という
定点があるかぎり現象世界のあらゆるレベルにおいて果てしなくつきまとってきます。
そもそも、いわゆる生老病死という現象が苦と呼ばれるのも「この私」に逃れようも
なく受動的に起こってくることからきています。
(…先のVRの世界はこの苦をテクノロジーによって救えるでしょうか?)
それでは、能動でも受動でもない、どこにも属さない「あいだ」とはなんでしょうか。
今回は、一見他愛もない遊びのようですが小道具として爪楊枝を使って
実験してみました。
これをご覧になっている方もバカバカしいと思わずにやってみていただきたいと
思います。

最初に爪楊枝で軽く指先などをチクっと軽い痛みが起きる程度に刺してみます。
何度か刺してみて、その瞬間の感覚や反応を観察します。
次に、爪楊枝を利き手で持って「能動者の意識=刺す側の意識」になって逆側
の手の指を刺してみます。
その次に、こんどは「受動者の意識=刺される側の意識」になって爪楊枝が指
に触れてから刺されるまでの感覚を見ます。
能動者のときと受動者のときの刺す⇔刺される瞬間の感覚や心理的な反応の
違いが観察できたら、能動受動を意識せずに単純な行為として爪楊枝を指に
刺してみます。
刺す行為を何度かゆっくり注意深く繰り返してみて、瞬間瞬間に先ほどの能動
か受動のかすかな感覚が発生していないかどうかを観察し、そのどちらでもない
ニュートラルな瞬間がどこにあるかを発見します。
そのニュートラルな瞬間には、爪楊枝の先端と指の接触点では何が起こって
いるでしょうか?
さきほどまで「チクッとした痛み」と名付けられていたものが意味を失い、刻々と
変化しながら起こり続け果てしなく分割可能な点の断続に気づかないでしょうか。
そこにはすでに心理的な反応は介在していません。
なぜなら、個別の能動者も受動者も存在しないからです。
そのときその瞬間は、誰のものでもないのです。
そこではただ、唐突に現象の断続的な変化が自動的に起こり続けています。
これが、いかなるベクトルも発生させずに「あるがままの世界を見る」ことです。
あるがままの世界を見ているとき、観察者は現象そのものの中心と一体化して
消えています。
「あるがままの世界を見る」というよりも、正確には「あるがままの世界としてある」
といったほうが近いかもしれません。
**********
参加者さんの一人からこのワークの感想をいただきました。
「つまようじ」を使ったワークでは、やる前は何か意味あるのかね?と感じて
ましたがやってる最中に何かに気づきそうになってしまい「ヤバイ」感じがしました。
そのまま見続けていればよかったのですが動揺してブレてしまいました。
以下、応答です。
爪楊枝のワークは一見シンプルで遊びのように思えるかもしれませんが、
接触の一点にすべての鍵と答えがあるといっても過言ではありません。
条件が整えば(集中力と心身のバランス)このワークだけで一瞬にして
覚醒に触れることも可能です。
(覚醒に触れる前段階では常識が揺らぎゾっとするような感覚が必ず起こります。)
受動でも能動でもないところに自分が消えるとき、ただ見ているものが立ち顕われ
てきます。
このことは爪楊枝の接触点や痛みの観察に限ることではなく、実は世界のすべて
の現象にあてはまることです。
五感や思考やあらゆる現象すべての本質はこの「受動でも能動でもないところ」
にあります。
大雑把にいってしまうとこれが空の本質です。
逆にいえば、受動と能動のバランスから生まれる相対的なベクトルが自分という
定点感覚やすべての現象の個別の顕われを生み出しているのです。
ポイントとしては、瞑想にしても爪楊枝のワークにしても、途中でなにが起こっても
ひたすらニュートラルに気づき続けることです。
何らかの現象が起こってそこでやめてしまう、というのは、その時点で思考する
エゴの能動的な意思のベクトルが勝ってしまうからです。
エゴが出そうになった瞬間に、自分で能動的に何かをしようとすることなく、エゴや
思考自体も爪楊枝の接触点を見るのとまったく同じ感覚(受動と能動のあいだ)で
見ます。
何が起こっても受動と能動のあいだに居続け(ただし、能動的に居続けようとしない)、
極限まで起こることを見続けることによって劇的な転換に至ります。
まずは、あまり難しく考えず、ワークで行ったように最初に自身で能動(刺す側)と受動
(刺される側)のベクトルの感覚を意図的でよいので確かめてから、「あいだ」にありつつ
起こってくることを見続けていってください。
注意するのは、「見続ける」という意図が強すぎると能動的なベクトルが発生しエゴが
顔を出すということです。
だからといって、受動的に「あいだ」にいることをコントロールしようとしても能動的な
ベクトルが発生します。
この辺は何度も反復練習することで自身のエゴのベクトルの傾向とパターンが見えて
きます。
自身のベクトルのパターンはカルマの顕われそのものです。
(たとえば〇〇さんの場合、今回「動揺してブレた」ためにそこで止まってしまったのは、
自身のカルマによる反応パターンから起こったことです。
そのパターンを見ていくと必ず何らかの過去の原因があります)
すなわち、この反復練習の副産物として、これまで気づかなかったカルマの傾向と引力
のパターンを芋づる式に発見することができるのです。
ここは本当に瞑想の醍醐味といえるところです。今回はわかりやすく爪楊枝を用いまし
たが、丹田の底を見ていくときも最初は意図的に行いますが、ある段階まで集中が高
まった後は、同じように能動と受動のあいだでひたすら起こってくることを見ていきます。
*********
能動と受動のあいだに関連して、最後に皆さんに何も考えずにその場で軽くジャンプ
してみてもらいました。
そこで「ジャンプした瞬間と落下する瞬間に何が起こりましたか?」と質問しました。
不意をつかれ皆さん「えーと…」と詰まってしまったのですが、答えをいってしまうと、
ジャンプしようとした瞬間、無意識のうちに「膝を屈伸して上へ飛ぼう」という意思と
筋肉の運動が発動します。
そこに後付けで「この私」という個体感覚がくっついて「飛ぶ私」として意思と肉体と
エゴの総体が自己同一化されます。
しかし、落下の途中には何が起こっているでしょうか?
地球上における落下は重力に従って勝手に起こるためその間「落下しよう」という
意図や努力はなく、落下時間が短ければたいていの場合その瞬間の意識は白紙状態
です。
(落下が持続するスカイダイビングやバンジージャンプや高飛び込みなどは別ですが。
ちなみに個人的にバンジージャンプはおすすめします。
おすすめしても誰もチャレンジしてくれないのですが…笑
どこにもつかまらずに落下しているときに無為自然の法則がダイレクトにわたしの中
をスコーンと通り抜ける感覚がわかります。
そのときわたしの身体は楽器の空洞のようになって声が空洞を勝手に突き抜けるの
を見出します。
逆にスカイダイビングは空気と風の抵抗が大きすぎて自然に突き抜ける感覚は
ほとんどありません。)
いってみれば、落下の瞬間は自然の法則と一体化した状態にあります。
(ただし、これは意識の気絶した動物的な無為自然です)
逆に、飛び上がる瞬間は能動的な意図が発生しています。
(能動とはいえ、本当は能動のはじまりは受動的に起こっているのですが。
また、ジャンプが反復的に行われれば飛び上がる瞬間も落下の瞬間の意識
に近づいてきます。)
能動と受動のあいだにあるときは、飛ぶ時も落下の時も、無為自然と気づきが
両立している状態にあります。
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