【神の視点とコロナウイルス】 ~リアル氏の動画から考える~
前回のブログ「ワーク開催中止」記事から約2週間が経ち
ましたが、その間にも情勢は悪化しついにパンデミック宣言
が出されました。
私は前回この騒動に対して
「個人的にはそれほど心配はしていない」
と綴りました。
この言葉は
「すべては完全に自動的に起こっていて
自身で行っていることは1mmたりともない」
という、私自身の経験からなる基本的スタンスから
発せられたものです。
究極的には心配しようがしまいが、自身でできることは
一切ないのでただ傍観するしかない、ということです。
(本当に笑ってしまうほど何もしていないし、圧倒的な力と
速度の「エネルギーの多次元的ジグソーパズル」において
この私たちは何かできうるはずもないのです!)
この時世にこのような物言いをすると世捨て人的な無責任さ
を感じるかもしれませんが、傍観といってもこの世界における
現象に無関心になったり投げやりになったりするわけではあり
ません。
(この辺りは、修行体系によっては「無執着」という
名の「無関心」に陥りやすく注意が必要なところです)
傍観とは、この私の「態度」ではなく「構造」なのです。
そしてまた、「起こることが起こっている」という現象世界
において、「この私」にはやはり「心配」が起こったり、
目の前の物事に対処しようという「意思」が起こります。
「起こることが起こっていること」と「この私が何かを思い
行動すること」、この2つに矛盾はありません。
(ワークでお伝えし体験していただきたいのはこの核心です)
なぜならば、現象に顕われた私と傍観する私とすべてを
起こしている私は、同一のものであり単にフォーカスの
違いにすぎないからです。
その意味において、この私はどのフォーカスの層においても
そこで起こっていることに対してアプリオリに受容し、すでに
してすべてを信頼してしまっているのです。
「信頼してしまっている」から「存在している」のです。
そこには起こっている現象に対する文句を言う相手も
怒りをぶつける相手もおらず、すべてが自分自身から
はじまり自分自身に還ってきます。
仮に「別の層の私」に対して怒りをぶつけたとしても、
ひとたび現象の顕れの構造を知れば、それは完全なる
「独り相撲」であって他者という亡霊を相手に独り相撲を
続けることは「この層の私」にとってはエネルギーを消耗
させるだけだということを知ります。
それは自分自身を分裂させ痛めつけることです。
もちろん、この「痛めつけられている」という感覚自体も
幻想です。
すべての私はそのことを知っているのに、痛めつけられている
この私だけが、分離した幻想に産まれ、幻想に生きているのです。
かといって、これも誤解しやすいのですが「すべての私を統合しな
ければならない」という思い込みはますます分離の幻想を強めます。
「この私」が「すべての私」と合一し、究極的な意思を知ろうと
などとゆめゆめ思わないことです。
「この私」は「この私」の知りうることのなかで自身を信頼し、
ただ存在しているだけですでにして「すべての私」の顕われ
なのです。
この視点をふまえたうえで、今回のウイルス騒動に
関してパートナーのリアル氏( ⇒「リアルワールド」 ブログ )
が動画で語っているのでご覧ください。
この動画を出すときにリアル氏は「これは少し難しいかも
しれないな」と漏らしていました。
なぜなら、これを語るときのメタ的視点が理解されていないと
ウイルス騒動をスピリチュアル的にお気楽かつ人ごとのごとく
傍観しているような誤解を生むかもしれないからです。
リアル氏はここで「神」という言葉を使っていますが、これは
上記の「すべての私」の最上位概念にあたります。
「神」を現象側からとらえて擬人化するならば、動画で語って
いる「進化」とは神の意思であり計画であるともいえます。
進化とはなんでしょうか?
現象世界における進化は運動の法則のなかで起こります。
リアル氏が動画の中でいっている慣性の法則も3次元的な
顕われのひとつです。
すべての次元において進化とは「〇〇し続ける」という
前提のもとに起こっていきます。
(当たり前といえば当たり前の話ですが…動き続ける
ものがなければ何も認識されえないという意味では、
進化とは世界の存続そのものともいえるでしょう。
また、「止まり”続ける”」ことは無ではなく、動き続けて
いることと同義であることに注意してください。
ただし、直線的でない時間の次元においては「続く」という
概念と認識は全く異なってきます)
進化の純粋なエッセンスとは、生物的な形態や知性の発達の歴史を
包括したうえでの漸近的な「視点のシフト」です。
(なぜ「漸近的」なのか…それは限りなく近づいても永遠にそれ
そのものには到達できないからです)
この3次元の世界において神という概念を立てるとき、
視点のシフトとは、この私はすべての私の意思と連動している
者であり、私が存在していることが即、すべての私=神の意思
であることを知ることです。
これを知ったとき、私の見ているものは即、すべての私が同時
に見ているものであり、すべての意思が同時に発動している
ものであることを理解します。
リアル氏が動画で言わんとしていることは、現象世界の私たちは今、
進化のプロセスの過渡期にありながら、 ウイルス騒動という
ひとつのテキストによって、神への信頼と態度が問われている
ということではないでしょうか。
(これを、魂の霊的進化を基本とするスピリチュアリズム的にいえば
「お試し」ということになります)
とはいえ「私たちは人類の進化のため奉仕しなくてはならない」
などと焦燥感や使命感に駆られる必要はありません。
それどころか、「進化しなければならない」という強迫観念は
その想いが強ければ強いほど視点を固定化し、想定内の限定された
結果しか生みません。
そうではなく、ただシンプルに一人の存在としてそこにありつつ
信頼と自己受容が起こればそれが結果的に奉仕となり、進化に
つながると思うのです。
自身であることへの信頼なくして幻想の大局に奉仕しようと試み
ても、その熱意は渇望感のすりかえと依存であり続けます。
私自身は神や魂という言葉はあまり使わないようにしているの
ですが、「信頼」という態度は最重要視しているものです。
その意味で私自身にも現象世界においては日々、大小様々な「お試し」
が起こり、そのつど信頼を問われ続けています。
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先日、近所の小さな神社の前を通りすがったとき、年配の女性2人
が境内の掃除をしているのを見かけました。
普段は誰も見向きもしないような裏寂しい気配の神社で腰を屈めて
隅々まで手入れをしながら
「こういうときこそ感謝、感謝よ、チャンスなのよ!」
と声を掛け合って笑っていたのです。
私はそこに、その女性たちの素朴な形の精神の表現を見出だして
思わず一緒に笑いたくなりました。
表層的なスピリチュアリズムからすれば、神社・掃除・感謝が揃うと
ああいかにも…といった感じがするかもしれませんが、そのとき
その行為には他意や屈託が微塵もなかったのです。
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