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【#あるがまま #無我 #テンセグリティ 覚醒からのつぶやき 1】        

2020/08/15

植物
宙に浮いて何年もうちにいるティランジア
(エアプランツ)


◆現象世界は音楽でありダンスである。
フィーリングに淫することなく実存で聴き、実存で弾もう。

◆3次元の悟りとは、音をハラの奥底で見ることである。
これは比喩ではない。

◆覚醒とは、常に「それそのもの」である。
それは音に例えるならば、響きの発生そのものとしてある。
響きを聴いてしまってからでは遅い。
聴いてしまった音とのズレが「この私」なのである。
音に触れて忽然と悟るとき、私が響きとしてあるのだ。

◆「聴いてしまった音」と「私」とのズレは、直列的な時間差を
縮めることでは解消できない。
そこにはアキレスと亀のように永遠に埋められない距離がある。
気づきだけに特化した瞑想はこのパラドックスに陥ることがある。
気づきと対象が並行線をたどり続けてしまうのだ。

◆怒りを決して消そうとしないこと。
思考による無執着は二元性を強化し気づきの感度を鈍くする。
怒りの出ない人格者になってから悟ろうとすればその意図自体
が手の届かない未来を生む。
覚醒は怒りそれ自体としてある。

◆怒っている自分を未熟と考え責めたくなるのは未だかつて
「怒りそのもの」との合一に出会っていないからだ。
純粋な怒りの中心は「意味」が落ちている。
合一においては「怒りそのもの」も「平安そのもの」も一瞬の
スパークとともに怖ろしい静寂に消え入る。

◆私たちは一定の同じ刺激が続きその刺激に網膜の細胞
が慣れてしまうと、見ていた対象物自体を認識できなくなって
しまうのです。
つまり、私たちは常に「動き続け」「刺激を受け取り続ける」こと
によって世界という顕れを持続させているということになります。

◆私たちをこの「動き続け」「刺激を受け取り続ける」ことによって
「何者かの意思によって」世界を成り立たせるための「盲目的な奴隷」
であると捉えるならば「この世は苦である」といえるかもしれません。
しかしそうではないのです。
「私たち」も「何者か」も擬人化されたイメージにすぎないのです。

◆△「神は(有限面の)サイコロをふらない」
〇「神は(無限面の)サイコロを『ふる=ふらない』」

◆瞑想は心を落ち着けるために行うのではなく、落ち着かない
どの瞬間にも落ち着きがあることを発見するためにある。

◆美学を持った瞬間、美は消える。

◆「美学」にすり替わった探求は、意識と自己イメージを固定化する。
探求は「生き様」や「センス」の主張ではない。

◆意識は変容しない。
意識はすべてをただ映しているだけだからだ。
認識は変容する。
制限が外されると、もともと映っていたものが新たな見え方
で掘り起こされ発見される。

◆「今ここ」という言葉の呪縛から解放されよう。
「今ここ」は「瞬間」ではない。
例えば、ある人が幻想に気絶したまま100年の一生を終えたとする。
そのとき、その人の「生まれてから死ぬまで」の100年の時間の
流れ自体が「今ここ」にある。
「今ここ」は無限に伸び縮みする。

◆テンセグリティ構造は3次元の覚醒感覚に近いものがあります。

◆3次元的な感覚としては無限の相似形のテンセグリティ構造
のどこか一辺が崩れるとパタパタパタッと全体が組み変わって
常に変化しつつ世界のテンションを保ち続けるといった感じです。
世界には支点がなく、無限の組み合わせからなるテンション
それ自体がバランスを保っています。

◆テンションには支点がないため独特の浮遊感覚があります。
多次元はこの構造だけでは説明できませんが、バックミンスター・フラー
は3次元的な覚醒に直観的に触れていたのだろうなと思います。

◆光速に近づいて進行方向以外の光が届かなくときの見え方
(暗闇の中に丸いのぞき窓のような光と景色)、現象世界の1コマ
に吸い込まれる一瞬前の見え方に似ています。
世界の速度に認識速度が同化したら「のぞき窓の枠」は消える。

◆ワークは「完璧に美しい無心のバカ」になってよい場です。

◆突発的に何らかの神秘体験が起こっても、衝動にまかせず
最低3年はあらゆる角度から検証し、日常レベルでのすり合わせ
を行っていくべきである。
一時の体験にアイデンティティを持てば、体験した自分を守るため
に例外なくヒステリックになっていく。

◆道の途中に顕われてくる共時性の奇妙さにオカルト的な興味
を持つべきではない。
それは夢において時系列がランダムに展開する仕組みと同じである。
夢に興味を持てば、夢にとりこまれる。

◆時間の幻想が見切れてくると、あり得ないような偶然や
シンクロニシティが頻発してくることがある。
(それらは脈絡のないものであって、いわゆる「引き寄せ」のように
自身の望みどおりの展開になるわけではない)
これは直列的時間を采配していた引力に緩みが出てくるために起こる。

◆宗教性を取り除いたマインドフルネスは、核心部分が
抜け落ちている。
宗教性を嫌うのはその背後の実理性を見抜けていないからだ。
とはいえ多くの場合、宗教は宗教性の集団幻想によって
成り立っているのもまた事実である。

◆いかなる経典や教義にも自身の体験を「寄せて」いってはならない。
もちろん、それらは発心の縁となる場合もある。
しかし、いったん縁がついたら忘れたほうがよい。
それらは、体験の後から「答え合わせ」に使うべきである。

◆もし伝統的な修行体系で何かを悟ろうとするなら、メソッドの
「つまみ食い」はしないほうがよい。
エゴによるつまみ食いは、エゴを太らす餌となる。

◆一瞥体験者であっても、鋭利な認識は自覚的に磨く必要があります。

◆「幸せ」を時間の流れにおいてつかんだとしても、そこでは幸せな
状態を引き延ばそうとする貪りと、消えてしまうのではないかという
不安と、手に入れてしまったという慣れと退屈が起こる。
こうして人間は次から次へと新しい幸せを強迫的に求め続ける。
この欲求が世界の夢を存続させているのだ。

◆「この世は苦である」という教義は特定の共通認識へ向けた
方便である。

◆苦を心理的な「私(たち)の苦」ととらえれば「私の思い通りにならない」
ことのすべてが苦になるが、例えば今ここに「石ころがあることそのもの」
と「世界が思い通りにならないことそのもの」の本質としての空はまったく
同じものであってそこに対象化された苦はないのだ。

◆「苦そのもの」が私であるとき、苦も私も存在しえない。
その本質を見抜くことが覚醒である。

◆「無我」が先か?
「合一」が先か?
そんなことは些末な問いにすぎない。
どちらにしても先も後もないのだから。

◆あるがままの世界を本当に見たら発狂する。
この認識の鈍さは発狂しないための慈悲による。

◆純粋な慈悲は覚醒側からしか起こらない。
慈悲は現象側の個対個で起こるものではない。
見かけ上エゴ感覚が少なくなったときに慈悲に近い意識に
アクセスはできるが、本当の慈悲そのものではない。 

◆ 覚醒側の慈悲は、人間から見て必ずしも「慈悲的」ではない
場合もある。
人間が、すべて思い通りにいかないのもその理由である。

◆たとえば瞑想において最後の通過点を目の前にして慈悲が
手助けするかしないか、しない場合もそれは慈悲ゆえなのである。
覚醒側からの慈悲はいまこの瞬間も常にすべてにおいて働いている。 

◆今、世界が生まれた。
あなたがいなければ世界は生まれなかった。
あなたがあなたという存在を引き受けてくれたから世界は生まれた。
あなたが寸分違わずあなたであったから、たった今、世界は生まれた。
その奇跡を見せてくれて、ありがとう。

石
デザートローズ(砂漠の薔薇)という名の石


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