【#今ここ #過去世と禅定 #自分軸 覚醒からのつぶやき 2】

パートナーが朝の散歩で出会った風景。
よく見るとうっすら二重になっています。
◆「今ここ」という言葉の呪縛から解放されよう。
「今ここ」は「瞬間」ではない。
例えば、ある人が幻想に気絶したまま100年の一生を終えたとする。
そのとき、その人の「生まれてから死ぬまで」の100年の時間の
流れ自体が「今ここ」にある。
「今ここ」は無限に伸び縮みする。
◆一呼吸ごとに全世界が組み変わる。
全宇宙がわたしと同時に動いている。
信が確立するまでは「わたし」が定点のままでいい。
◆ほんの一瞬でもいいから毎日、それとともにある自覚を
思い出せば信頼は加速度的に増していき、わたしを必ず助けてくれる。
◆瞑想は新しい境地の開拓ではなく、原初の在り方の再発見だ。
◆サマタは一人称視点、ヴィパッサナーは三人称視点で起こる。
統合に至ったとき「第三の視点」ともいうべき、未知の視点が顕われる。
◆禅定は過去世の果実。
これを聞いて諦めるか諦めないかも過去世の信の果実。
だがしかし、過去世はまさに今ここにある!
このことは大いなる救いだ。
◆純粋な気づきによる心随観の直観は、時に心身の奥底
から震えが起こるほどの解放をもたらすが、一定レベルの
定力とテクニックが必要になる。
まずは思考レベルで問題を整理し、直観が起こる環境を整えよう。
◆意識的に瞑想するのならば「私は肉体ではない」と信じこもう
とする前に、何はともあれ腸を軽くするのが一番手っ取り早い。
腸が詰まっていると意識が肉体に引っ張られる。
腸が軽いとそれだけで思考のグダグダの半分は消える。
◆瞑想は、人間の心身の構造をただそのままに「置いておく」ことと、
信頼からの安堵の軽さが同時に成り立っているところで起こる。
心身のことは心身にまかせておけばいい。
心身はこのわたしよりもずっと賢い。
そうすれば、わたしはただ、軽さそのものとしてある。
◆意識的に瞑想するならば、次はないと思ってその一回の瞑想に
全ての照準を合わせよう。
全カルマの結晶がそこにあることを自覚するのだ。
◆瞑想には始まりも終わりもない。
あらゆる動作の途中で、いかなる準備もなく唐突に 座ってみよう。
そのうち座る必要すらなくなる。
区切りや構えがなくなれば、瞑想のほうからいつでも勝手にやって
くるようになる。
むこうからやってくる瞑想は、至福に満ちている。
◆身体の輪郭は、ハンガーで服を掛けておくように、物理的にも
心理的にも押しても引いてもいない「あいだ」にひょいっと引っ掛け
ておけばよい。
◆肉体の一部である脳が私であると信じれば、爬虫類にまつわる罪
や支配の呪縛と、集合無意識のアーキタイプから永遠に逃れられない。
爬虫類脳の記憶と新皮質とのせめぎ合いが原罪の物語を創る。
◆この物語がベースにあるかぎり、恐怖からの逃走が進化の動機で
在り続ける。 物語の呪縛に囚われたままAI時代に突入すれば、
恐怖からのヴァーチュアルな解放を餌に永遠に幽閉される。
◆自分がないからこそ、自分の言葉で語ろう。
◆「信」はあたりまえの日常から育まれる。
華麗な体験が起こらないからといって悪態をついて諦めてしまう前に、
今このとき自動的に呼吸が起こっている奇跡の目撃者であることを自覚しよう。
◆誰にも認められないからといって卑屈になる必要はない。
わたしたちが在ることは、それ自体で「まるごと認められている」ことの証明だから。
すでに在るんだから、そのまま居ていいのだ。
そこに誰かの許可なんているはずがない。
◆自分の存在を証明しようと躍起になる必要はない。
存在とは何か?などと考えなくてもよい。
すでに存在してしまっていることを認めるだけでよい。
それは存在について考えていないときにある。
◆生物の歴史を、自分の体で一からたどってみよう。
アメーバあたりからはじめて背骨ができて人間になったら、
ハイハイから直立歩行までやりなおしてみる。
こんどは、背骨をなくして原核生物まで逆にたどってみる。
そうすれば、神の意図に少しだけ触れられる。
◆この世でいちばん二元性を強化するのは無我の概念だ。
◆覚醒は音符 カルマは楽譜 人生は演奏 上手い演奏や下手な
演奏があるが、音符は記号として並んでいるだけだ。
◆この世界は決して完全燃焼しないようにできている。
不完全燃焼の渇望がまだ見ぬ未来への夢を生む。
◆アメンボが水面を滑るように、バッタが地面を蹴るように、
わたしという呼吸のダンスに成りきろう。
◆赤ちゃんはよく自分の足指と遊んでいる。
この世では、そういうふうに自分を遊ぼう。
◆「二極化」という「素晴らしい夢」が叶えば、弥勒菩薩は
「残念なほうの世界」でまた一からやり直しだ。
◆「悟りとはなんぞ」と「晩ご飯なに食べよう」を、同じ軽さで気づこう。
◆空間にぶらさがっている軸だけで動けば、イルカのように歩ける。
◆ネコをそっと撫でるようにエゴを労わってあげれば、安心しておとなしくなる。
◆モノとモノのあいだを魚のように泳いでいこう。
モノにぶつかっても、よくよく見るとモノは無限の穴だらけ。
自分の大きさを決めなければ、いろんな穴をくぐっていける。
◆笑いは思考の結び目を一瞬解くが、笑ってさえいればいいという
居座りは感性を愚鈍にする。
◆この世でひとつだけ修行を選ぶとすれば、肉親との確執を自力で
解消することだ。
確執のエネルギーはパターンを変えて必ず次生に持ち越す。
この際、親がどう思うかは考えなくてよい。
自身の親に対する意識だけが組み変わればよいのだ。
◆肉親との関係は確執だけにとどまらず、一見うまくいっているよう
でもそこに潜んでいる依存や力関係や価値観の刷り込みがないか
どうか内観してみよう。
それらは例え縁を切って蓋をしたとしても、必ず手を変え品を変え
反応パターンに顕われてくる。
このパターンが瞑想のサマタの完成を妨げる。
◆年齢を重ねると一見、自然に落ちてくる反応パターンもあるが、
火種が完全に消えたわけではない。
火種に油を注ぐ生体エネルギーが減少しただけで、新たな肉体に
宿れば再燃する。
ここはエゴが一番見たくない部分だが、
今世の生体エネルギーが残っているうちに着手しよう。
◆現象世界の多様性は一元性とは何ら矛盾しない。
次元を跨ぐアクロバティックな視座がハートに落ちたとき、
直接触れるようにそのことを理解する。
◆わたしは、その人その人の生き生きした実存のダンスに触れたいと思う。
それは結局、個を超えながら、個のダンスとなる。
行住坐臥のすべてがダンスだ。
座禅は、究極の即興ダンスだ。
◆熟睡して目覚めた休日の朝
震えるほど怒り泣き切った後
広々とした温泉に浸かった瞬間
悩み続けた問題が解決した瞬間
乾いた喉を湧き水で潤す瞬間
深い森のなかで深呼吸する瞬間
それらの浄化と解放すら重く感じるほど、
「信頼」から理由なく放射される安堵は、翔べそうなほど軽い。
◆亡霊は過去の記憶のループの中に閉じ込められている。
今を生きていると思っている生身の人間もまた、過去の記憶の
反応パターンに囚われているかぎり、永遠に届かない今の裏で
亡霊のように彷徨い続ける。
◆月の裏側が見えないように、自分の頭の後ろが見えないのは、
存在の形態としては摩訶不思議だ。
産まれた瞬間に、この形態にびっくりして産声をあげたくもなる。
「とんでもない世界に来てしまった」と。
◆自分の顔も、内臓の中も、背中の大部分も、脳味噌も、目玉も、
3次元の世界では一生、自分の目で見ることができない。
それなのにこの身体にアイデンティティを保ち続け、2つの小さな穴から
覗いているものを信じ切っている。
◆わたしたちは常に、一人称と三人称のあいだをゆらぎ、自身から
離脱したところにイメージとしての自己を設定し、自分の顔があることを
信じて生きている。
◆バケツに水を入れてぐるぐる回すと、水は落ちてこない。
バケツの回転を止めたとたん、水は落下する。
私の心身はバケツの中の水のように重力と遠心力のギリギリのバランス
により同一性を保っている。 バランスが崩れたとたん、私はバラバラに霧散する。
…バケツをぐるぐる回しているのは誰か?
◆常に0.2秒遅れた世界にいる私たちは、未来に進んでいるというより
「過去に間に合っていない(!)」のだ。
空白の0.2秒の間に、世界は始まって終わっている。
無限に引き延ばされた0.2秒の間に宇宙が入っている。
宇宙を知りたければ、未来に向かって急いでも絶対に間に合わない。
◆動作が起こるときの意図は、そのエネルギーとベクトルにエゴが付随
していなければ、花の蕾が開くことや木の葉が舞うことや鳥が鳴くことや
魚が飛び跳ねることとまったく同じ力から起こっている。
その根源の力を擬人化するならば、この世界は神の意図であるということもできる。
◆1秒間に24コマのフィルムは連続した動きに見えるが、1秒間に24回の
音は分割して聞こえる。
この違いは、視覚と聴覚の信号受信システムの速度差からくる。
音は「今」に少しだけ近づく鍵となる。
音の中心をハラに落とそう。
◆ 空気を瓶に詰めて売るのが経済
空気を区切り所有するのが政治
空気の性質を分析するのが科学
空気の存在を定義するのが哲学
空気に香りをつけるのが芸術
空気の価値を教えるのが宗教
空気に気づかず息してるのが凡夫
空気に気づいて息になるのが行者
空気を忘れて空気になるのが覚者
◆ 林檎を見て「林檎」とラベリングすれば、その人は林檎
を林檎と呼ぶ世界にいる。
林檎を見て「見た」とラベリングすれば、その人は林檎を
見る自分の世界にいる。
林檎を見て「・」としか林檎の実存をラベリングできないこと
がわかればラベリングを卒業してよい。
ここから空性のビーイングが始まる。
◆ どこかの星から転生してきたので地球の今世は違和感
があって辛いという話がある。
その人は転生したのではなく、この同じ場所で何生も何生も
今と同じ違和感を感じてきたのだ。
それは転生の違和感ではなく、自分自身への違和感だ。
たとえ次生で故郷の星に帰ったとしても、その人の違和感は続く。
◆ 星は自分の意識の中の座標だ。
自分の中に星の地図が入っている。
この場所にいて故郷の星との距離があるのは、この私が私自身
と一致していないからだ。
私が一致すれば、故郷はここになるのだ。
すべては意識の地図の中の座標だ。
◆ 宇宙を一人称の定点と三人称の俯瞰で同時に見ると、
座標と座標の距離は自由自在に伸び縮みする。
同時に見るときに発生するチラチラとしたゆらぎが、
無数の宇宙と星を生み出す。
◆この私が上位次元に上昇する必要はない。
この私が目指すかぎり上昇などできない。
すべての次元の私はすでにいる。
私はすでに、すべての私たちの軌跡の一辺だ。
私たちを信頼して任せておけばよい。
そうすればこの次元でこの私を全うしてあげられる。
◆カルマは理由を聞いてくれない。
「あの人が悪いから怒ったんだ」 といっても、
「あの人が悪いから」 というネバネバした質感とピキピキした
怒りの質感だけが正確に引き継がれる。
そこにおいては一切衆生が恐ろしく平等だ。
◆遠近感は両眼視差や物体の肌理や影により脳内で編集されたものだ。
だからしばしば錯覚が起こる。
遠近法の一点透視図法は一神教の神を中心に描く宗教画から発展した。
それ以前の人間は、日本画のように多神教的なフラットな世界に住んでいた。
◆ 遠近法の啓蒙によって人間は視点と意識を固定された。
それと同時に自我が強化された。
古代の人間は自我をメタ認知することがなかった。
メタ認知が、人間の苦しみを生み出した。
◆線も面も立体も多次元も、点ではなく「・」だ。
◆離れているものと自分を一体化しようとしないこと。
離れていることそのものの真ん中に、距離のない自分がある。
◆世界は無限の真ん中の連続である。
◆真ん中の波に乗っていく。
◆不均衡なものにも真ん中はある。
見かけの不均衡さにとらわれないこと。
◆一瞬の気づきを持続させようとしないこと。
あらゆる持続の意図は夢に気絶する入り口となる。
しかし、本当は夢も持続しているわけではない。
一瞬一瞬あらたに眠っているだけなのだ。
覚醒はこの逆を辿ればよい。
◆持続の夢から目覚めるために、見かけ上の動きの
連続性を止めようとしないこと。
気づきは時間と空間の分割の中にはない。
◆この私とは、世界を分割し分類する「機能」である。
便宜上の機能がなければ、限定された空間の中で私と私は
ゴツンとぶつかってしまう。
機能は単にメカニズムであってそれ自体、良くも悪くもない。
◆「自分軸」は自分が消えるところにある。
自分のイメージする自分軸を自分で作れば、
自分軸自体にがんじがらめになる。
◆夢の持続の瞬間には麻薬的なうねりと気絶がある。
この瞬間を見切ろう。
◆粒と波の両方を見よう。
粒を見るには粒に、波を見るには波になればよい。
◆善行の果を今生の自分が受け取るという保証はない。
「自分が受け取る」という自分がないとき、善行は善行
としての目的を果たし、善が剥がれて行となる。
◆入念に準備してからわかろうとする必要はない。
今、わかってしまっていいのだ。
そこには自己を超えた自己受容がある。
◆存在に言い訳はいらない。
モノも植物も動物も、自身が在ることを言い訳したりしない。
言い訳してもしなくてもかまわないが、どちらが自然の状態かは明らかだ。
◆この世界は、肉体にフォーカスすれば肉体の、イメージに
フォーカスすればイメージの、運動にフォーカスすれば運動の、
空にフォーカスすれば空のワンネスとなる。
◆パンが肉でありワインが血であるのは肉体の世界のワンネスだ。
◆パンとワインが肉と血を超えるとき、パンがパンにパンを
食べさせ、ワインがワインにワインを飲ませる。
そこに食物連鎖はない。
◆存在の覚醒では、沸騰した水の泡のように全てが私ととも
に弾けている。
ただし沸騰し底から昇って水面で弾けるまでのプロセスは一切ない。
唐突に弾けた瞬間だけがある。
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