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【覚醒からのつぶやき 4】       

2020/10/01

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


植物

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◆存在の本体は莫大なエネルギーのアイドリング状態だ。
肉体が固形物だと信じれば、エネルギーは個体分しか通り抜けられない。
無理やり通そうとすれば木端微塵に吹き飛ぶ。
だが、肉体が無限の「あいだ」の非連続体だと知るとき、
エネルギーはすべての「あいだ」を自由自在に行き来する。

◆人間を一個体と見る認識からは、個人個人のエネルギー量は異なる
ように見えるが、境界のない「あいだ」の非連続体を見る認識からは、
すべての存在のどの瞬間にも莫大なエネルギーを見出す。
たとえ衰弱した病人にあっても、どの瞬間にも「あいだ」の莫大なエネルギーがあるのだ。  

◆このことは、エネルギーを現象面でとらえていては理解できない。
エネルギーを相対的な強弱ではなく二極の「あいだ」で瞬間瞬間に決定される
創出それ自体としてとらえるのだ。
創出そのものに強弱はない。
存在と非存在の二極の発生するあらゆる場に、相対を超えたエネルギーの爆発がある。  

◆「わかりたい」というエネルギーを、時間の前後ではなく存在の上下に貫こう。
追いかけてくる自我から、純粋な意思だけを救出するのだ。  

◆単純に、「わかりたい」と「わかる」のベクトルと位相がズレているだけなのだ。
愛を知るために冷蔵庫の中を探しているぐらい、明らかなズレがある。  

◆「わからない」ことに開き直るのでもなく、「わかりたい」という意思を固める
のでもなく、不可解の真只中に永遠に放下してしまおう。
無限後退の真空において、存在と再会する。  

◆わたしという現象は、噴水で吹き上がる水ではなく、噴出それ自体のエネルギーだ。
放物線を描いて落ちる水の軌跡は3Dにおけるわたしの残像にすぎない。
身体に同化すれば、重力によって噴出は上下に固定される。
身体に同化しなければ、噴出は360°どの瞬間にも見出せる。  

◆ここは瞑想者の盲点なのだが、噴出自体に気づきはじめると、残像を
一括して切り捨てようとする。
残像が一切認識されなければ問題ない。
しかし、残像が残像であると認識された瞬間、残像が残像でなくなり、
そこに自身の噴出の発現がある。
噴出は常にあるが、その発現は決定されるものとしてある。  

◆「それ」を神と名づけた瞬間、人間は人間の枠に気絶する。  

◆意思を「意思」として気づく段階では、すでに「目的」が伴っている。

◆ 生まれ変わりの印に前世と同じところに痣があるとか、臨死体験者が
過去を見てきた記録として建造物に印をつけておく、などという話は心情的
にわからないでもない。

◆肉体の死を迎えて意識のフォーカスのチャンネルが変わるとき、
前回のチャンネルで理解したところから始められれば効率がいいので
自分自身にヒントを残しておきたいのだ。

◆ただ、そうそう思い通りにいくものではなく、前回理解したところまで
辿り着くのに紆余曲折する場合があるが、紆余曲折の中に前世で取り
こぼした新しい発見があったりもする。

◆私自身、散りばめられたヒントに子供の頃から要所要所で出会ってきた。
(ヒントなしで唐突にフラッシュバックが起こって困惑することもしばしばあったが)
直線的時間で理解しようとするとオカルトにしか聞こえないが、過去の私からの
ヒントも、未来の私からのヒントも、現在に散りばめられている。

◆時には積極的に直接呼びかけられることすらある。
また、現在の私が過去の私や未来の私に呼びかけることもできる。
例えば今、過去に直接呼びかけられたときの私の記憶を想起してみる。
すると、呼びかけた声は他ならぬ私自身だったことに気づく。
(これは声の響きと安心感の有無で判断できる。) 

◆また、現在の私が同じ声に呼びかけられるとき、未来の私がこちらに
目を向けていることが経験的に理解できる。
ただ、過去現在未来というのはあくまでも直線的時間における私の記憶の分裂だ。
私が私に呼びかける声がひとつのところにあるとき、時間は消える。 

◆こういった話は誤解を生みやすいのであまり話さないようにしているが、
時空の仕組みとしてむしろ自然なことなのだ。

◆面白いものでこの仕組みに気づくと、例えば今この瞬間、未来の私を想起したとして、
しばらくそのことを忘れていても未来のしかるべき時点で今この瞬間
(未来から見れば過去)に想起したことを思い出す。
つまり、特別な目印をつけておかなくても意識の中で気づきの時限爆弾を仕掛けておけるのだ。

◆しかし、この仕組みの利用は目的を誤ってはならない。
だから、それがわかるまで隠されている。 

◆ハートの本質を知りたければ、現象の発生する前面ではなく「裏側」の振動に触れよう。  

◆意識も反重力装置が発動すればいいんですよ。
地球上の心身はすべて重力に規定されています。
私はその感覚を前時代的にホバークラフトと呼んでいましたが。
ただし、空中浮遊する必要はありません笑
重力に逆らおうとするのではなく瞬間瞬間に「あいだ」が決定される仕組みを
使えばよいのです。  

◆物理次元ではヴィジョンを定めないと物事が形にならないという理がある。
ヴィジョンが明確であれば強い意志とともに具現化するのだ。
そこには粗く単一的なエネルギーがある。  

◆しかし、ヴィジョンを定めないことの中にも、別次元のエネルギーがある。
決定以前のエネルギーの混沌それ自体にすべてを任せてしまえば
、限定されない未知の力が私の行先を決めてくれる。
ただし、全託の信念に盲目的に気絶すれば、それもまた単一的なエネルギーとなる。  

◆ある力が決定されるのは、同じ力が二極に分離して引きあうからだ。
強い力と弱い力が引きあうのでは「あいだ」が決定されず、現象として像を結ばない。  

◆ある力が現象として発生するとき「あいだ」は発生と同時に決定されている。
創出のエネルギーは二極のバランスのあいだが決定されるときの引きあいの作用そのものなのだ。  

◆眼耳鼻舌心意の六門の入力に対して反応しないことを修行と考えていないだろうか。
人間の知覚には、同じ刺激が続けばそれに対して反応しなくなるという特性がある。

◆たとえば、視点が一点に固定されれば周囲の視界は消えしまうし、
同じ臭いを嗅ぎ続ければ臭いの存在を忘れるし、微妙なストレスが続くと
ストレス自体に気づかなくなる。

◆単純に反応さえ出なければよいのであれば、知覚の特性によって反応が
消えることはいくらでもある。
この仕組みを利用したのがサマタ瞑想だが、ここがゴールではないことは明らかだろう。  

◆頭と感情で人間を見限る前に、まずは人間として直立しよう。
飛ぶのはそれからだ。
直立する前に無理やり飛べば、自他未分の沼に引き戻される。  

◆服着るのと、歯磨くのと、食事するのと、掃除するのと、本読むのと、メールするのと、
花飾るのと、トイレ行くのと、病院行くのと、銀行行くのと、呼吸するのと、踊るのと、
歌うのと、瞬きするのと、やるべき優先順位がすとんと抜け落ちて、焦るでもなく、
諦めるでもなく、カーンとサマディに張りつく。  

◆覚醒とは、脳の機能はそのままに、生の優先順位が組み変わることともいえる。
必死に生きようとしなくてもよくなるのだ。
もちろん、目の前の危険は回避するし、お腹が空けばご飯を食べる。
ただ、命の維持はお任せしておくだけになる。  

◆ふと思ったけど「必死」に「生きる」ってアンビバレンツの極みですね。  

◆死が必然だから生きるってことか。  

◆平面の気づきは対象と観察者が並行しつづける。
ここに気づかないかぎりヴィパッサナーは頭打ちとなる。
球体の気づきは観察者が消え、あらゆるものの中心でありながら、何もつかんでいない。
ただし、この私が球体の中心に入ろうとすれば、たちまち平面の気づきに逆戻りする。  

◆球体が先にあるのではなく全方向、何もつかんでいないことの徹底が
球体の中心に浮いている瞬間瞬間を決定する。
球体の大きさは瞬間瞬間に決定され、極小から極大まで無限に変化するが、
実体があるわけではない。  

◆球体の感触も中心の浮遊感もまた、即座に手放されると、バラバラに捩じれて
引きちぎられるような高密度の領域に触れる。
そこには、同じ極の巨大な磁石どうしを無理やりくっつける間に挟まれているような
凄まじいうねりと圧がある。  

◆鮮やかだった花が色褪せ枯れていき、最期の最期に干からびた花びらの一片が
粉々になって風に運ばれ消えていく。
最期の一片はまだ、花の一部だった。
消える間際までは、花の存在の延長だった。  

◆消えた瞬間、何がなくなったのだろうか。
花を花と見る私が消え、色と形から自由になった花が、そこに存在しつづけている。  

◆簡単なのでやってみてほしい。
手を思いっきり強くグーに握ってみる。
今度はふわっと軽くパーに開いてみる。
グーの中心とパーの中心はまったく同じものだと気づくだろうか。
これがわかれば全部わかったのと同じなのだ。
難しいことなんてひとつもない。
中心ってどこ?などと考えないように。  

◆個人的には、アナパナは気が昇りやすく、意識が身体の前面に偏りやすいので、
初心者は丹田をつくって気を落とせるようになってから移行するほうが身体の構造
としては自然という考えです。  

◆アナパナで意識が前面に偏ると、光やヴィジョンなどのニミッタが出やすくなりますが、
サードアイ付近前方にみえるニミッタは集中の度合いとしては浅く、気づきが肉体の目
を伴ってしまっています。
ニミッタの光をまぶしく感じるならば、肉体の目に囚われている証拠です。  

◆それに対し、場所のない虚空のようなところに唐突にフラッシュするニミッタは集中力が
高まってきた証拠になりますが、ニミッタ自体には囚われず手放していく必要があります。  

◆呼吸の秘伝として、鼻から吸った息を縦方向ではなく横方向のラインを意識してみてください。
(ただし身体の軸は縦方向に「置いて」おきます)縦の意識だけだと鼻孔入口付近で意識が
途切れ、気づきが平面的になります。
その意識で丹田呼吸をしても意識が前面に偏り、丹田の奥深くまで落ちません。  

◆横のラインは、鼻から入った息を上咽頭付近に向かってぶつける感じで吸い込みます。
(顎を引かず、顎先と鼻先はその場所に「置いて」おくようにします)

◆このとき、硬口蓋から軟口蓋のあたりが軽く浮いて前後にストレッチされる感覚が
すれば正しく吸えています。  

◆また上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげることで、
瞬間的にサマディに入りやすくなります。
出来る方は合気あげでこの感覚を使ってみてください。
横のラインの呼吸の感覚がつかめると呼吸とともに肋骨と筋膜が内部から風船が膨らむように
押し広げられてきます。  

◆肋骨と肋骨の間が縮こまっていると感情や思考に囚われやすくなり、気が昇って
丹田に意識を落とせません。
ワークでは毎回、この辺りを基本として調整します。
集中力の欠如は9割方、身体の基本的な使い方(および食事)に起因していると
いっても過言ではありません。  

◆眼球が左右均等にまっすぐ前を向いているかどうか意識したことがあるでしょうか。
まっすぐ向いているかどうか鏡ではなく(鏡だと鏡の中の目を見てしまうため)
他人にチェックしてみてもらってください。
たいていの場合、左右不均衡で片側だけわずかに内転していたり外転していたりします。

◆このバランスが、瞑想における思考の発生や気づきの偏りに直結しています。
偏りのあったまま眼球が微動するとその人特有の思考が発生し気づかないまま連鎖します。  

◆肉体との同化から離れて完全に眼球をその場に「置いて」おけるようになれば
偏りも無関係になりますが、それ以前は基本的な身体の型として眼球をまっすぐにする感覚
を身につけたほうが気づきが等価に入りやすくなります。  

◆肋骨の「いちばん下」を触ってみてください。
自分がイメージするよりもかなり下のほうにあって驚くかもしれません。
普段意識しているのは胸骨にしっかりくっついている第1~7番目までの肋骨で、
下のほうの第8~12番目の肋骨はあまり意識できていません。  

◆体の前面からしっかり触れる第8~10番目まで(第11~12は背骨側から浮いています)
は無意識に上の肋骨と癒着し委縮していることが多いのですが、ここが委縮すれば
気が昇りやすくなったりネガティブになったりします。  

◆先の呼吸とともに肋骨の8~10番を下方向へ「置いておく」ようにすることで徐々
に肋骨の間がストレッチされて均等になっていきます。
(この調整は多少時間がかかります)
それにより、意識は丹田の奥深くにすとんと落ちることができるようになります。  

◆サードアイやら高次元の目やらを開くまえに、まず人間としての肉体の目を開こう。
なんのために人間に産まれたのかという話。  

◆100年にひとりのバレエダンサーといわれたシルヴィ・ギエムは、ある著名な
日本人ダンサーと共演したとき「私の目をちゃんと見て!」と何度も注意したという。
日本人ダンサーは「ちゃんと見ているつもりなのに何故?」と困惑したそうだ。
ほとんどの人間がまだ肉体の目すら開いていないということ。

◆股関節周りに隙間を開ける感覚と、腸腰筋を上下に引っ張る感覚と、仙骨を
立てて仙腸関節の隙間を開けて折りたたむ感覚がつかめないうちは無理に
座禅の形を組まないほうがよい。  

◆前頭筋を頭上へひっぱり、皺眉筋をの間をふわっと開き、鼻根筋と眼輪筋の力をゆるめ、
側頭筋を盆の窪へひっぱり、咬筋の力をゆるめ、オトガイ筋と頬筋をひっぱりあい、
顔と頭の皮膚を張って、頚椎が盆の窪に刺さって頭蓋骨全体が浮いているようにしてみて下さい。
そうすれば妄想なんて出ないですよ。  

◆身体のすべてが引っ張りあいだし、意識のすべても引っ張りあいなのです。  

◆前頭筋が下方向にゆるんで妄想したり居眠りしたりしている人が多すぎる。  

◆逆にいえば、客観的に気づいて修正すればいくらでもショートカットできるという話。
むやみに走りださず、まずスタート地点に立とう。 

◆意識が意識それ自体を客観視できるようになるまで、まずはこの世界の身体を
客観視のモデルとして有難く使わせていただく。  

◆まずは肉体の目を獲得しなければ、見ることと気づきの肉体的な癒着に気づけない。  

◆ある次元の体験的理解は、常にひとつ上の次元からの俯瞰のよってもたらされる。
肉体の目にしろ、3次元にしろ。  

◆悟りとは「システムを解明すること」ではない。  

◆身体の理解と調整は途上の補助にはなるが、ある地点で一気に無効になる。
ラマナ・マハルシの曲がった首が語っている。 

◆気づきは透明だからといって、対象を銃で撃ち落とすように均一のテンションで
気づこうとしないこと。
柔らかい気づきもあれば、硬い気づきもある。
すべての気づきが世界をぴったり覆うとき、ただそのままの世界が戻ってくる。  

◆すべての教えが各自にとっての方便であることは謙虚にわきまえておくべきである。
ここにおいて例外はない。  

◆硬い身体は硬い意識がつくる。
硬さと硬さがぶつかったところが物質として固定されていると思い込んでいるのだ。
軟らかい意識は、身体を塊としてとらえないので、どこにもぶつからない。
「ぶつかる」という意識の強張りが解ければ心身は内側からバラバラにほぐれる。  

◆硬い意識のまま身体の表面だけを脱力させようとしても「脱力しよう」という
硬い意図が心身の中心を強張らせる。
このときの脱力はぐにゃぐにゃした砂袋のような重さと虚脱感を伴う。  

◆軟らかい意識の脱力は、全身が花粉になってふぁ~っと霧散しているような
飛翔感を伴う。
この感覚は物質を超えているので、肉体の柔軟性や可動域に限定されず誰でも
体感し得る。
瞑想はここからはじめたいのだ。  

◆意識のありかたで身体の重さや動きの質は変化する。
たとえば床に丸まっている相手を肉体の塊として転がそうと思っても重くて動かない。
自分の肉体と相手の肉体が塊としてぶつかるからだ。
が、水平線のはるか先まで意識して地球ごと転がそうとすればあっけなく動かせる。  

◆また、開脚するときには左右の足先と耳が水平線のはるか先まで伸びているように
意識すれば限定していた可動域を超えられる。
これはイメージトレーニングではなく、具体的な意識と身体のメカニズムなのだ。
この身体の枠にかっちりはまっていると思い込めば、意識と身体も限定されたものにとどまる。  

◆二極が離れようが近づこうが、あいだにあれば関係ない。 

◆あいだにあることは、極を設定しないこと。  

◆凪にいる魚も時化にいる魚も、そこにふさわしい力で泳いでいる。
泳ぎがあいだで起こっているのだ。意識の力学でその力を体感していこう。  

◆唾をごくんと飲むときの喉の実感、それぐらい具体的に覚醒に触れよう。  

◆今すぐ実際に水を飲んでみてほしい。
水を飲んで、体の中でその感触が消えていく最期の最期まで見つづけてみよう。
最期にある、肉体とイメージの境界に気絶しなければ、あいだの入口に出会う。  

◆好き嫌いをなくそうとしないこと。
好き嫌いはまさにその瞬間、事実として起こっているからだ。
好き嫌いをする自己嫌悪がでたらでたで、それは事実としてあるだけだ。
事実を事実として受け流しきっていくこと、それは過去現在未来のすべての
自分をその瞬間救っているのだ。
奇跡はここにある。  

◆地面に立っているということは、こちらからも押しているし、あちらからも押されている。
その真ん中に、それでしかないバランスで立たされている。
そのことさえわかれば、すべてわかる。 

◆気づきの極限を見切ったら、現象世界にもどってこよう。
現象発生の同心円の真ん中で、祈りになろう。  

◆「上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげること」
この真ん中でサマディにホワイトアウトせずに、気づきが気づいていればよいのです。
ここが団子状に癒着していると瞑想は堂々巡りします。  

◆気づきのとらえかたの癖に気づかない限り、気づきが解放をもたらすことはない。
気づきのベクトルが一定の方向になっているから自他が分離し続けるのだ。
気づきの癖は、その人そのものが顕われている。  

◆「気づきに気づく」とは、気づきそれ自体の中心で気絶せず「目覚めている」
ということです。
気づき自体は対象化できません。  

◆「すでにそれである」ということは、帰納法でも演繹法でも導き出せない。
修行のトリックに惑わされないこと。  

◆瞑想はゴールを目指す長い道のりではない。
ものを見ることの基礎が現象世界で健全に養われていれば、ほんの一瞬の瞑想で
すべてが一致する。
だから、現象世界で健全に生きる。  

◆無執着は結果として起こること。
だから無執着を目指さないこと。無執着は諦めや放棄ではない。
無執着は性質ではなく構造なのだ。  

◆それの手触りが見えてくると足元が崩れ去るように感じはじめるが、逆に、
肉体の足はしっかり大地を踏みしめるようになる。  

◆肉体と仲良くなって協力してもらおう。  

◆「先に進もう」という意識が自己の分離を生む。
ここで誤解しやすいのは「先に進んではいけない」ということではないこと。
いまここに「止まろう」とするのはちがう。
「先に進んでいること」のすべての瞬間が自己と一致していれば、
結果としてただ「進むこと」の軌跡があるだけなのだ。 

◆覚醒を「動き」の中でとらえられるようになろう。
それが、現象世界での悟りだ。  

◆動いているから止まっているし、止まっているから動いているのだ。
座禅で停止に陥っていないかチェックしよう。  

◆自分自身であることとは、想像の中の小さな自分にふてぶてしく胡坐をかくことではない。
自身の顕われは自分の想像を超えている。
そのことに畏敬の念と感謝をもとう。 

◆不足感は自分自身とのズレから生まれる。
ズレの大きさが即、不足感の大きさなのだ。

◆自分自身とぴったり重なっているとき、そこに心理的にも
物理的にも過不足があろうはずもない。 
 
◆自分自身の過不足が消えて、それでもなお何かが溢れてくるのならば、
それを表現すればよい。
そこから利他行がはじまる。 

◆なんらかの体験が起こったら、他人の言葉や経典の言葉で定義づけてしまわず、
あらゆる角度から自分の言葉で検証してみよう。
他者の定義を必要とするならば、それまでの体験だったということだ。  

◆テレビを見続けると洗脳されるように、一方的に情報を受け取る側に居座ると
意識の筋力が退化する。
それがどれほど素晴らしい教えであっても例外はない。  

◆とかく瞑想というと受動ばかりが強調されるが、最終的に「能動も受動である」
ということが腑におちなければ、この世界でエネルギーを循環させることはできない。
わたしたちひとりひとりは、世界の創造のエネルギーの中継地点なのだ。
エネルギーの循環、これが創造主の意思である。  

◆三角形のあいだは固定されるが三角錐のあいだは浮く。
3次元の身体をポータルにして意識を立体化しよう。  

◆呼吸と意識の深さで他人を受け入れる器が決まってくる。
他人を拒絶する人はたいてい鳩尾で呼吸が止まっている。
心理的に「他人を受け入れなければ」とあれこれ悩むよりも、まずは身体を変えるほうが早い。
深く境界のないところには四次元ポケットのように何でも入る。  

◆女性であれば、子宮が安らぐ感覚を知っている。
子宮の安らぎの最奥に世界がまるごと入っている。
男性であっても、女性性と現象世界の創造原理の理解によって同じ感覚が養われる。
この理解は、必ず修行者の助けになることを覚えておいてほしい。  

◆死に方がどうこうというよりも、死の瞬間の意識レベルが正確に次のチャンネルに
引き継がれる。
引き継がれる際の中間層のタイムラグ(人によって時間感覚は伸び縮みする)で、
自身の創り出す死後の世界にフォーカスする。
誰が罰するわけでもなく祝福するわけでもなく、自分自身が反映される。  

◆傍観者にも批評家にも野次馬にもそれぞれの軸があるが、自分自身が
存在の実感に撃ち抜かれたければ、プレイヤーとして世界の軸と一体化しよう。  


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