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【覚醒からのつぶやき 5】              

2020/10/02

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


サンスベリア

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◆覚醒は、どの次元にも触れつつ、どの次元にも属さない。  

◆内と外の定義が、終わりのない哲学を生む。
覚醒は哲学ではない。  

◆終わらせようという意図が、始まりの種となる。
この直列的思考を脱しよう。  

◆完成の途上で、宙ぶらりんのまま悟ってしまおう。
それしか、ない。  

◆義理がたく几帳面な人ほど、後片付けしにここに戻ってきてしまう。
そのラスボスが弥勒だ。  

◆とっ散らかったことに後ろ髪引かれない人はサクっと飛んでいく。  

◆そう考えたら、ここに残ってしまうわたしたちって愛すべき存在じゃないですか?  

◆いかなる知識をもっても心のざわつきが消えないなら、チャンスだ。  

◆生きていても死んでいても罰する者も罰せられる者もいない。
罪悪感も正義感も、ただ自らの恐れが生み出す幻想だ。
それらは他者への恐れではなく、逆に、たったひとりで自立してある現実を直視
できない恐れからくる。
他者の目を設定しなければ存在できないと思い込んでいるのだ。 

◆アダムとイヴが人間になるには、もう一人の視線が必要だった。
それが蛇の狙いだった。
しかし、この物語自体も、恐れが生み出した幻想だ。
物語を存在の根拠にすれば、恐れが恐れを支配し続ける。  

◆頭蓋骨という独房に閉じ込められた無数の視線が互いの脱走を監視しあう世界は、
異常というほかない。  

◆視線の分化自体は問題なかった。
多様性においてむしろメリットのほうが多いはずだった。
自分自身の隅々まで探索できて楽しかった。
しかし、いつしか源を忘れてしまって、楽しかった分化が分離の苦しみにすり替わってしまった。  

◆分離の苦しみすら忘れた不感症の人間は、ただの肉の塊だ。
苦しみを感じられるのならば、救いがある。  

◆苦しみだけを利己的に取り除こうとすれば、幻想の快楽と引き換えに、
永遠に閉じた輪の中のエネルギー源として飼われる存在となる。
それが今、現実となりつつある。
苦しみを感じられるうちはまだ間に合う。  

◆西欧人がアジア人の見分けがつかないように、宇宙人が地球人を見たら、
姿形も言葉も思考も全員同じで見分けがつかないだろう。
見分けのつかない違いで争っていることに笑い出すか、一片の興味すら持たないにちがいない。  

◆「苦であるこの世」も幻想です。
だから、苦の外に脱出するわけではないのです。

◆瞑想ですべてがバラバラに崩壊する現場とすべてがバラバラに発生する
現場を見極めても、わずかに離れた位置に展開していれば観察者が残っている。
観察者の位置がわずかに「引いて」残っているからこそ、正気が保てるギリギリの
ところで無常を悟るわけだが、この地点はまだ半立体的な覚醒だ。  

◆ここでいったん認識の癒着を平面からバリバリと引きはがしてからもう一度現象
に戻って同じことを立体で悟る。
観察者が現象の中心と一致して消えたとき、崩壊する自己も発生する自己もなくなって
気づきの分離が完全に落ちる。
ここにおいて、起こることが起こっているということに真の意味で触れる。 

◆意識の立体感覚は自身の内部で具体的につくりたい。
奥行きは自身の中に作りたいのだ。
そのために肉体の目から内部の目へのシフトが必要なのだ。
そうすれば、目の前の空間に多次元立体モデルを創らなくても、目に映ったものが即、
多次元の回転の動的な影の断片にすぎないことがわかる。  

◆立体は、上位次元の動的な影である。
止まって見えるものも、高速に回転しているものから切り取られた立体的な影だ。  

◆地球という球体もまた、上位次元で全方向に同時に回転する、無限に重なった軌跡
の動的な影である。
(上位次元では全方向=360°ではないので3次元の単純な軸の回転と同じではない)  

◆動的な影である球体はひとつではなく「見かけ上」上位次元の回転とともに
無数に分岐する。(上位次元では実際は分岐していない)
この分岐を、3次元ではパラレルワールドと呼んでいる。
上位次元の軸は平面、さらに上位では立体なので、3次元からみれば角度
によって影は均一ではなく伸び縮みする。  

◆3次元の現象が顕われては消えていくように見えるのは、上位次元の
伸び縮みする動的な影を瞬間瞬間、断続的に切り取って直列に並べているからである。  

◆3次元の瞑想においては、古典的な洞窟のアナロジーの「回転しない影」を
見切るところからはじめる。
まずは肉体の目と癒着した1対1に限定された認識を引きはがす必要があるからだ。
平面の影の極限を見切るとはじめて、立体の影の手触りが浮き上がってくる。  

◆平面の影はスクリーンに映るが、立体の影は360°のVR空間に映る。
ここから、対象としての現象の気づきではなく、現象それ自体からの気づきがはじまる。
ただし、影が影であることは、どの次元においても変わらない。
だから、どの次元からも覚醒に触れられるし、すべての次元を知る必要もない。  

◆3次元上で組み立てられた多次元立体モデルは、上位次元の回転する軌跡から
均一な時間差と角度で頂点と交点を抽出して辺と辺でつなぎ合わせたものだ。
3次元上に組み立てられた立体は、いかに多層構造であっても可視化できる時点で
3次元の視点を固定する。  

◆動的な影の本体を直観できなければ、切り取られた影の立体だけを見て、
回転のエネルギーを未知なる力と崇めるレベルで認識が気絶する。  

◆「今」とは衝撃である。今、今、今、の吸いついてくる炸裂のインパクトが強烈
すぎて前後は勝手に切れてしまうのだ。
時間がどうとか空間がどうとか自分がどうとか考えている余地なんてない。
今以外が入り込む隙間がないとしか言いようがない。  

◆それを体験すると、時間というのは「今」の物理的衝撃から肉体を守るために
引き伸ばされ薄められたもの、という感覚が出てくる。
肉体の波動はこの次元にしか耐えられない。  

◆肉体は「今」のマグマから冷え固まって遅れて出てきたもの、というのが率直な印象だ。  

◆肉体にとっての「今」そのものは寛ぎではなくむしろ痛みに近い。
痛みがあると苦痛が意識を占有するように、今の衝撃が意識のすべてを占有する。
今の痛みはエクスタシーの中心で耐えきれず死にたいと願うようなエネルギーなのだ。  

◆これもシステムとしては途上にすぎず、おそらく、この原始的な「今」の感触と肉体を
同期させて使うエソテリックな方法もあるだろうが、あまりそこには興味がない。  

◆子供の頃に夢中になったオモチャを見ると、懐かしさと温かさに心が解けこそすれ、
今それを取り上げられても泣き叫んだりはしない。
現象世界における無執着とはそのような感覚だ。
家族も、人も、モノも、国も、世界も、自分自身も、そのように見るようになる。  

◆股関節から下が足だと思わず、腸腰筋の一番上から足だと思って使うと
動きの質があがるように、眼球を目だと思わず、松果体の裏からが目で眼球は
変換レンズだと思って世界を見よう。  

◆「歩く」ことは肉体の足から起こっているわけではない。
足は結果として動きだすのであって、歩きの最初の最初をどこまでもたどっていくと、
最初の意図の発動に出会う。
すべての動きの意図がどこから生まれてくるのか、本気で見る決意をすれば、
一瞬にして源にたどりつく。  

◆承認欲求を隠している人ほど「覚醒して人々を救う」という願いを掲げて修行に励む。
それ自体は良くも悪くもないが、限定された願いは限定された結果しか生まない。
覚醒した結果、どのように生きるかは一切限定されていない。
表に顕われる覚者はそのようにプログラムされた一部の人にすぎない。  

◆皮肉なことに「救いたい」という想いが「救ってもらいたい」人を創る。  

◆「答えを知りたい」と渇望するが、答えはその、喉から出ている手の中にもある。
 
◆「死ぬまでに悟りたい」という想いが、有限の存在と時間の限定を創る。

◆病巣の痛痒さを掻きむしり一瞬の快楽を得る人間と、完治させることのない薬を
売り続ける人間。
どちらも報酬系の回路の犠牲者だ。
痛みを快楽で麻痺させるのではなく、正常な痛みを取り戻すことからはじめなくてはならない。  

◆あと何回生まれ変わるかを気にしているうちは、生まれ変わり続ける。
なぜそのことがそんなに気になるのだろうか。  

◆わたしたちの頭の上は、上でも下でもない。
頭が足だと思って宇宙にグラウンディングしてみよう。  

◆地球にくっついているからといって、まっすぐ立っていると勘違いしないように。
わたしたちは今このときも、ものすごい勢いで全方向に吹っ飛んでいっている。
でもこのことは、地球にまっすぐ立ってみないとわからない。  

◆果てしない螺旋構造を縦に昇っていこうとするから気が遠くなるのであって、
横の隙間からちょっと飛び出して蚊取り線香みたいにぺちゃんこにして
渦の中心に消えちゃえばいいんですよ。  

◆頭蓋骨の外を見るということは、私の内に映ったものを反転させて2つの穴から
「のぞき込んでいる」。
のぞき込んだ景色の中に、私は映っていない。
もちろん、エルンスト・マッハの絵のように身体の一部は視界に入るだろうが、
のぞいている私自身は反転せずに常にその場に消えていることに気づこう。  

◆映っているものは内と外が反転するが、気づきは反転しない。
気づきとともに見ている私自身は、常にその場に消えている。
(ここでは世界が先にあるのかないのかという話は置いておく。ただ、映っている事実だけを見る。)  

◆外側に見えている世界は私の内でみたもの、すなわち私の内側そのものだ。
手を前に伸ばせば、私が私の内に触れる。
世界のすべてのものは、私自身に触れるものとしてある。
だが、肉体の目の限定をはずせば、いっさいの距離がなくなって世界は直接わたしになる。  

◆手を前に出すとき、同時に、手がむこうから私に侵入してくる。  

◆股関節が折りたたまれると、膝が私に迫ってくる。  

◆世界は手品みたいに驚きに満ちている。頭で解明してしまったら、もったいない。  

◆目が前面に2つ並んでるって、なんの冗談かと思う。
なにか悪いことしてここに入ったのかと、罪の意識を持っても仕方ない。  

◆心身の構造には不条理な仕組みが多々あるが、進化というものがあると
仮定すると、突貫工事で無理やりいろんな機能をひとつの入れ物に詰め込んだ結果だろう。
例えば、目の盲点は眼球の配置の都合で残ってしまったし、直立歩行を優先したために
腰に負担がかかる構造になったりした。  

◆目は直立の獲得とともに前面に移動してきたが、これなどは意図的に視界の死角
をつくって別の機能を発達させようという何等かの意志が見られる。
その意味では、進化は意思であるといえる。
これを神の意志と呼んでもいいが、デザインはわりと行き当たりばったりのところがあるという印象。  

◆腸って長すぎるし、あまりにも狭いところに詰め込まれすぎてて笑える。
消化と吸収のためにひとつの器官がここまで長い必要があるのが不思議だし、そもそも
固形物を食べること自体が不条理と感じる。
食べなければ、生体のデザインがこの形である必要はなくなるが、
そうなったらなったで何を残す?  

◆脳なんてパーツごとに時代の古い順に積み重なってて、このせいで複雑怪奇で
矛盾だらけの悩みが出てくる。
あとから取ってつけた感がすごい。
あまり愚痴ってるとデザイン担当に怒られそうなのでこのへんでやめておこう。  

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、自我の芽生えと意識の進化を
見越して「最適なパーツ」が様々な次元から選択・采配された。  

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材はバラバラの次元から
寄せ集められ、「人間」という形に都合のいいようにつなぎあわせて一つの個体に
仕上げられ、それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。  

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、ホログラムで多方向からの
光がひとつの像として浮かび上がるように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体
として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、3Dの人間の意識はつくられた。

◆胃にモノを入れることは、蝙蝠傘にミシンを食べさせるぐらい、ある意味シュールな行為なのだ。
でも、消化は身体のみならず意識の顕われでもあるので単純に切り捨てればいいというものでもない。
「飲み込みが早い」「知識を吸収する」などの感覚は身体と連動している。
人生の消化不良もしかり。  

◆これまでは地球の重力は人間全員、平等だったが、覚醒の局所から反重力部分だけを
利己的に利用しようという動きが出てきた。
近い将来「重力格差」がやってくる。
二極化という概念は好まないがあるとすればここだ。
これは陰謀論などではない。
UFOすご〜い!とか呑気に喜んでる私達への覚書き。  

◆三次元の覚醒は反重力感覚を「含む」から話がややこしい。
これはトンデモ話ではなく、わたしたちの心身と思考すべてが重力に支配されてきた
ことが真に見切られれば、自然に理解されること。    

◆地球が平らだと言い張る人たちを笑うけれど、地球がひとつの球体だと思い込んでる
私たちも、上の人に笑われているのです。  

◆わたしたちが神と呼んでいる存在はわたしたちの限定された認識の投影にすぎない。
それがいかに超越的に感じられたとしても。  

◆わたしたちの意識が、3次元を3次元として縛り続けてきた。
意識の「引っかかり」が、次元の法則を限定しているのだ。  

◆もともとは、意識と気づきは同義だったが、メタ認知によって意識と気づきと思考と感情を
ごちゃ混ぜにしているうちに、自己がバラバラになってしまった。
まずはその混乱を解きほぐそう。  

◆いずれ認識の区分は一元、二元、非二元、の3つだけでは間に合わなくなる。
まったく理解不能な認知形態がごまんとある。
だから、単純なうちにわかってしまおう。  

◆空は反重力を含むが、空=反重力ではない。
「反」重力は重力ありきの二元だが、空は一元でも二元でも非二元でもない。
3次元においては、どこにもつかまらない意識は原理的に反重力感覚に近いものがあって、
自動化された瞑想ではこの波のあいだに乗っていく。
UFOもこうやって操縦するのかも。  

◆よく、クンダリーニのエネルギーはどこを通るんですかと聞かれるけど、
背骨に近いけど肉体じゃなくて、どこにもくっついていないところを重力に逆らい
ゴゴゴゴゴ!っと怒涛の衝撃で昇る。  

◆そのエネルギーは本来、すべてに満ちているが、あらゆる引力から自由になった
空の道しか通れない。
逆にいえば、空いた道を見つけたら向こうから待ってました!とばかりに通り抜けてくる。  

◆「あなた」と呼びかけるのは、認識の感覚にそぐわないので苦手だ。
そう呼んだとたん、舞台と客席が分かれて演劇が始まる。  

◆肉体の意識で開けた道には、肉体に近いエネルギーしか通れない。
じゃあ、意識だけでどうやって道を開けるんですかと言うけれど、物体と意識に境界がない
ことを知れば、手で物体のゴミを取り除くのと同じように、意識で思念のゴミを取り除くだけでいい。  

◆物質の世界は意識の世界への直接的なポータルなのだ。
だから目の前の物質をつぶさに観察しよう。  

◆にわかには信じられないと思うけど、私が立ったその時その下に、重力と地球が生まれ、
全体が回転し始めるのです。
本当に信じがたいけれども。  


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