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【#タイムラグ #ミクロとマクロ #概念の死 覚醒からのつぶやき 6】     

2020/10/10

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◆目覚めている人がいるのではなく、目覚めている目だけがある。  

◆消える中心を、探さない先どりしない後追いしないつかまない  

◆「この私が消えなければ」と考えている最中にも、わたしはいないのです。
だから問題ない。  

◆世界のすべては始まっても終わってもいないものの再現です。  

◆認識のタイムラグを時間で修正しようとする瞑想は一如の完成を見ない。  

◆世界に包まれているのではなく、中心が世界を包んでいる。  

◆自分だと思っていた中心を外せば、あらゆるものが瞬間瞬間に中心となる。  

◆いかなる中心も固定されていない。
中心が移動していくのではなく、移動の只中で中心が無限に顕れては消えていく。  

◆捉えがたい曖昧なものや不安定なものにも中心がある。  

◆ミクロからマクロまですべてに中心があって、それらのひとつひとつは
バラバラなのに距離がない。  

◆自分の中心を外すのが怖ければ、身体の軸を外してシミュレーションしてみよう。
ただし、あくまでもシミュレーションなので骨格と重力に囚われているかぎりは
完全に外れることはない。  

◆軸を外そうという想いが軸にならないように。  

◆自分で自分を見ているってことは、すべてのものが見てくれてることなんだから、
それで充分じゃないですか。  

◆覚醒うんぬんよりも、各自が謙虚に責任もって自分自身に気づいてくれてる
世界って優しくて心の底から安心できる。
その心構えさえあれば、失敗しても未熟でも何でも許しあえる。  

◆今日も人知れず気づいていてくれてありがとう。  

◆瞬間瞬間というけれど、瞬間は相対的で主観的なものなので
「瞬間に気づこう」と意図したらダメなのです。
瞬間は定力に応じて決定されますが、定力が高ければ高いで、
瞬間は拡大され引き延ばされていきます。  

◆瞬間と瞬間の間はない。
それは時間の直線で区切られるものではないからだ。

◆便宜上「瞬間」と呼ぶところに在るときには、時間を前に進むのではなく、
中心に触れたと思ったらまた次の中心が中心自体から吸いついてくる、
といった感覚で入れ子になった中心が果てしなく顕われては消えていく。  

◆認識の極限を見切るとき、気づきはギリギリのところまで「並行に」
入り続けるが、最終的に一如を悟るには気づきは「垂直に」落ちて
中心に消えなければならない。  

◆降りてきた智慧の凄さに興奮しないで、しばらく寝かせておこう。
そうやって熟成させておくと、本当に必要なときに、必要な智慧が発動する。  

◆智慧の切り売りは自身をすり減らす。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。ここにつまづくと、
気づきは並行線をたどる。  

◆瞑想は「意図しない」というたったひとつのことだけを徹底すればよい。
ほんとうに、これだけなのだ。
意図しないことが続かなくても、続かない過程自体に、自身を知るための
数限りないヒントと恩寵が散りばめられている。  

◆「意図しない」ことは「意図を止める」ことではない。
この世界のすべてのものは意図が創っている。
純粋は意図はエネルギーだ。
意図に自分という想いがくっつかなければ私の苦は発生しない。
瞑想は、意図と自分との癒着を浮上させ見切っていくことなのだ。  

◆この世界では、中心とバランスの明滅だけが、永遠に起こりつづける。  

◆オンとオフの明滅は二元に限定された意識が生み出す。
神そのものは明滅以前にある。  

◆認識形態によっては、世界は単純な生滅の反復ではない。
生滅だけで世界を説明するのは地球の方便にすぎない。
生滅は時間ありきだからだ。  

◆意図と自身の癒着が剥がれてくると、隠れていた神秘が次々と
勝手に顕われてくるようになる。
神秘はすでにそこにあるもの。
神秘を追わなければ、神秘のほうからこちらを見つけてくれる。 

◆学者や芸術家は、夢現で閃いたアイディアが逃げないうちに枕元のメモに記す。
智慧の閃きは一瞬なので粗い意識では見切れない。
頭でメモをとろうとすると間に合わないのだ。
それを受け取れる精妙な意識と身体がないと記録できない。
人は、各々の意識の速度に合った智慧しか認識できないのだ。 

◆智慧はハラに落ちなければ自身を救えない。
だから、肉体の世界でハラをつくる。  

◆完全な無為の認識においては教える人も教えられる人もいない。
だが、ここでも思い込みの罠がある。
見かけ上、教える人と教えられる人がいたとしても、それ自体が無為なのだ。

◆瞑想で集中できなくても、自分の好きなことなら集中できる。
この世界は、好きなことをやって集中力を身につける場ともいえる。
この世界への集中から執着が抜ければ即、瞑想になる。
極端な話、パチンコの集中だって依存がなければ覚醒に触れうる。

◆執着=悪というのは二元的発想だ。 短絡的な価値観に囚われないようにしよう。
ただ単に、執着は明晰さを奪い、苦しみを呼び起こすという事実があるだけ。
それが嫌なら執着を離れるし、嫌でなければ好きなだけ続けていい。
誰も咎めはしない。

◆激辛のものを食べると辛さに悶絶する。
これは身体が危険信号を発しているからだが、危険信号に意識をあわせず
衝撃の中心を見てみると、辛さに触れていないすっと醒めた何もないところ
があるのを発見する。
苦行に何か意味があるとすれば、ここだろう。

◆瞑想は、自我の生命維持のストッパーを外せるかどうかが鍵になる。
自己同一性が崩れるのは自我にとって恐怖でしかないので危険信号を発し、
別の対象に意識をそらそうとあの手この手で仕掛けてくる。
でも、本当は大丈夫なのだ。 ストッパーを外しても死にはしない。
見かけ上の自分が死ぬだけだ。

◆もしまだ怖ければ、いきなりストッパーを外さず、身の回りのものの
「概念の死」を確かめながらゆっくり進んでいけばいい。

◆熱湯や火に触れてしまったときなども、生命の危険信号の前に一瞬、
空白があるのを見出す。
事故等で痛みも感じずに景色がスローモーションになるのは、この空白が
引き延ばされたものだ。
そこからわたしたちは、この肉体を維持する機能の以前に在るもの、
ということができる。
ここを見切ろう。

◆すべての瞬間がヒントであり答えである有り難い世界です。

◆この私が本体かコピーかというのは自己同一性の記憶の問題がすべて。
死んで生まれ変わる時は記憶が消える。
今この瞬間は、記憶を持った死からの再生。
一瞬一瞬、死んでいる。
でも本当は記憶も継続しているのではなく、一瞬一瞬再生されている。 

◆直列的時間の認識が瞬間につぐ瞬間の死と再生に追いついていないから
自己同一性を保てるのです。 

◆生と死はチャンネルの切り替わりです。
チャンネルを切り替えて、また同じチャンネルを見ることが、自分という同一性。
ただしチャンネルを変えているのは自分ではありません。


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