【#天国と地獄 #相対性 #進化の過程 覚醒からのつぶやき 8】

セレナイト(繊維状透明石膏)
◆心身の硬さを能動的に柔らかくしようとすると、
表面だけ緩んでも硬い芯が残り続ける。
見ている自分の意図自体が硬いからだ。
柔らかくしようと意図せず、そこにある硬さを置いたまま、
ただ受動的に見続けていると、見ている自分とともに芯から解けていく。
この柔らかさは別次元のもの。
◆今日はワーク開催予定だったが、おととい台風の影響を考えて
次週に変更した。
変更したと思ったら進路が変則的な動きを見せている。
今回の台風は、いろいろな意図が連動しているようで面白い。
◆神はこうやってすべてを完璧に配置する。
それが一見、自分にとって好ましくないことであろうとも。
◆台風が逸れて喜んでるけど、逸れた先で被害に合う人もいる。
金子みすゞの詩を思い出す。
朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう
この視点はいつも持っていたい。
◆現在の私が過去の私を癒せるとしたら、現在の私の苦しみもまた、
未来の私が癒してくれるだろう。
癒し、癒される、私自身の過去・現在・未来の信頼関係において。
そして、過去・現在・未来の距離がなくなったとき、癒し、癒される私は
ひとつとなり、瞬間瞬間に苦は浄化されるようになる。
◆過去の私、現在の私、未来の私、すべての私と仲良くなろう。
すると、私自身が私を助けてくれるようになる。
この安心感は唯一無二のもの。
◆ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』より
「知覚の扉が取り払われたら、何もかもがありのままの無限の姿で
人間の前に顕れるだろう。人間は自らを閉ざしてきた。
今や、人間は、洞穴の狭い隙間からものを見ているに過ぎないのだ」
◆経典は頑張って理解しようとしない。
わからない部分を頭で理解しようとすると、その時点の認識による解釈で
自分自身を固定してしまう。
自分の体験から直観的に腑に落ちるまで、先を急がず寝かせておく。
◆苦しみが自分のアイデンティティになっている人は苦しさが生きる糧なので、
他人の苦しみまで探してあれこれお節介を焼こうとする。
だから望みどおり、ますます苦しくなる。
◆姿勢による各部位の力の方向性と意識は連動している。
身体と意識のすべての方向性を一点でバランスをとるのが座禅。
その一点は、止まっているわけではなく、すべての運動の可能性を
含む消失点なのだ。
それを知るために、いったん動きを分解して身体動作の方向性を知る
アプローチは有効。
◆いわゆる「引き寄せ」では、力を「くっつける」方向ばかりを強調するが、
「くっつくこと」と「はなれること」と「ひっぱりあうこと」、
この3つの力が現象の本質です。
特に意識においては「ひっぱりあう」拮抗する力のあいだにいることが重要。
◆ぶっちゃけた話、すべては動きでしかないんですよね。
高尚な言葉や難解な概念をとっぱらうと。
◆動いているものは誰でも認識できます。
あとは、動いていないものの動きを見るだけ。
◆ただし、すべての動きは相対的な錯覚です。
◆つまづくとしたら、ここですね。
だから観察して錯覚を見抜くのです。
ヒントは身の回りのすべてにあります。
あれこれ習いに行く必要もないのです。
◆そのことを、仮の定点である私を通して見抜くということです。
◆仮の定点がなければ何も認識できません。
自分自身が動きそのものになるからです。
だから、仮の定点を担う私という存在は貴重なのです。
◆そんなの知ってるよと思うかもしれませんが、それだけなのです。
それさえわかれば、あとは動きの組み合わせがあるだけです。
◆あらゆる解釈がものごとを複雑にする。
複雑さにプライドをもたず、単純でいる勇気を持とう。
◆単純であれば、力をひとつに凝縮できる。
◆複雑化してもいいが、複雑化の過程の中の単純さにあること。
◆「わかりたい」という想いが世界を創る。
動きそのものは「わかる」以前にある。
◆「わかりたい」者がいないとき、動きそのものだけになり、
世界があるかないかを観察する者はいなくなる。
◆動きそのものは無明ではない。
動きをコントロールしようと足掻く意図が無明だ。
◆頭ですっきり割り切れるものよりも、心がすっきり割り切れる方向
へ導かれよう。
◆過剰な自信も、過剰な謙遜も、神への冒涜となる。
◆止まっている電車に乗っていて隣の電車が動き始めると、
乗っている電車が動き出した感覚がする。
隣の電車と並走していて乗っている電車が減速すると、
後ろに進んでいく感覚がする。
乗っている電車と同じ速度の電車が並走していると、
止まって見える。
◆物体の相対速度による錯覚は理屈を知れば容易に見抜けるが、
心の錯覚は見抜きづらい。
物体も心も錯覚の仕組みは同じだが、心は常にいろんな速度で変則的
にあちこちに飛び回っていて、相対的な基準がズレ続けていくからだ。
逆にいえば、心の方向と速度がシンプルになれば、錯覚は見抜きやすくなる。
◆単純であることは、騙されやすくなることではない。
単純であればあるほど迷いがなくなり、本質が見抜けるようになる。
◆女性でも男性でも、どちらでもない性でも、
女性の心身の働きの微細な綾を知る人は、
現象世界の創造の原理を理解する。
ここはマッチョな修行だけではわからない。
私自身、女性でありながら無視し続けてきたところだったが、
それを知ることは計り知れない恩恵がある。
◆勘違いしてはいけないのは、女性として生まれても、
女性性の原理を自ら理解する必要があるということ。
◆念が呪いに近くなって別の存在を呼び寄せてしまう人がいます。
妄想とはいえ、ある種のパワー感を持ち始めるのが厄介です。
そうなるとなかなか自分では気づけなくなります。
気づきに爽やかな軽さがあるかどうかは常にチェックしてください。
◆何らかの対象物に対して祈りを捧げる時も注意が必要です。
いつのまにか別の存在に祈っていることがあるからです。
強いパワー感があっても、知らないうちに妙な契約を結ばないようにしてください。
◆危ないパワーを身につけるぐらいなら、無知な方がずっとマシです。
エネルギー系は自分で判別できなければ、うかつに扱わないことです。
◆こういう類のパワーを纏っている人は薄暗い空虚な内面を隠しています。
この空虚さは、千と千尋のカオナシのように何でも飲み込んで自分のパワーを
拡大しようとします。
底なしの虚空は周囲を引き込むパワーがあるため、無知な人々を引き寄せます。
◆この虚空を無我や空と勘違いしないこと。
パワーをいくら身につけても不足している感じがしたり、寄ってきた人の
エネルギーを吸い込んで浄化が必要と感じる場合はカオナシになっています。
空虚さをパワーで埋めるのではなく、自身のエネルギー量に応じて人に与え、
何も持とうとしないことです。
◆存在には、真剣さはいるけど、深刻さはいらない。
瞑想では、深刻な馬鹿にならず、真剣な馬鹿になる。
◆真剣になればなるほど、どんどん軽くなっていく。
重くなっていくのは、深刻になっている証拠。
◆もっと軽いノリでいこう。
くすくす笑ってる途中でふっと瞑想に入るぐらいでいいのだ。
瞑想の境目をなくしていく。
◆頭と顔の筋肉を緩めて、美しい馬鹿になろう。
◆真剣な馬鹿の馬鹿力は、この世で一番強い。
全部が緩んだとき、瞑想が爆発する。
◆緩みきってハラから笑いが沸き起こってきたら、目覚めはすぐそこ。
◆緊張を知らないと緩みもわからないから、人生の緊張も悪くない。
緊張したら、あとは緩むだけ。
◆今からオリンピックメダリストやノーベル賞受賞者にはなれなくても、
自分至上最高の馬鹿には誰でもなれる。
すごい希望じゃないですか?
◆人に与える心地よさに味をしめて、欲張って与えすぎないようにする。
自分自身を過不足なく知り、すべてにおいて丁度いいエネルギーの
真ん中に浮いていよう。
◆全体の力のバランスを知ってはじめて、煩悩とよばれるエネルギーを理解する。
煩悩自体はただのエネルギーで、特定のバランスに引き込む作用があるだけ。
これが個別の人間という限定された枠の中で、偏りの幻想を生む。
◆弱い力の「あいだ」と、強い力の「あいだ」は同じもの。
弱い人間も強い人間もいるが、どこを切りとっても「あいだ」は同じもの。
だから、覚醒を知るのに自分自身以上に強くなろうとする必要はない。
弱くても強くても、そのままの自分で「あいだ」を知ることはできる。
◆世界と分離して孤独だと感じたら、いったん赤ちゃんの知覚から
復習してみるのがおすすめ。
赤ちゃんは視界がぼんやりしている時期から周囲のものを舐め回したり
触ったりして世界の知覚を学習する。
視野がはっきりしてくると、自分の体で遊んだり、周りのものを指差したりする。
◆この過程を、馬鹿馬鹿しいと思わずに実際にやってみる。
目をぼんやり開けて周囲のものを舐めたり触ったりしてみる。
そうすると忘れていた世界との親密感が蘇ってくる。
特に、舐め回し感覚は意識の触覚を創る。
個人的にここはワンネス感覚にも少なからず影響していると感じる。
◆ここからもう少し大きくなって、床を転がり回って体の重さとバランスを知る。
ハイハイは四肢の視覚的・体感的なコネクションを知りバラバラな世界を連結する。
これらの鏡像段階前の世界のつながりをいったん取り戻すと安心感が生まれる。
身体を取り戻す前に身体を超えようとすれば揺り戻しがくる。
◆赤ちゃんは腸の快不快の意識はあるが、ハラの意識はない。
ハラは自我と連動しているからだ。
自我がハラに脱落するためには、いったん自我を育てる必要がある。
そうでなければ、赤ちゃんの自他未分のままなのだ。
その状態は苦を苦と認識しなくて幸せともいえるが、世界を再認識できない。
◆体系化された言葉は頭を気絶させる。
体験はいつも、その人の言葉にならない言葉でしか語り得ない。
うまく語れたと思ったらもう、体系に気絶している。
◆しいて言い表すと「シャッ」とか「ピキッ」とか「ウニョにょにょ」とか
「きききっっっっききっっっっっっk」とかだけど、それじゃあ経典は信者の手前、
格好がつかなかったんだろうな笑
◆認識が剥がれるときは、頭の中心でF1カーが死ぬか生きるかの
舵切ってるような感覚というのが、思いつくかぎりでは近い。
◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。
ここにつまづくと、気づきは並行線をたどる。
◆二次元的な前後の裁断は卒業する。
同心球状(ただし人間の構造上、体感としてはトーラスになる)以上は、
この次元の自己同一性では同時には捉えられないので直観にとどめておく。
◆もちろん、気づきの瞬間に同心球を設定しているわけではないので、念のため。
◆前後に裁断するというのは、直列的時間の中の話ということに加えて、
世界を認識の問題だけで片付けようしてしまうのが片手落ちなのだ。
両側を立体的に見るには、世界の創造の源にも立ち会う必要がある。
◆気づきの瞬間にはひとつしかないというのは、人間の認識形態による体感だ。
もちろん、この体感は人間としていったんハラで経験する必要がある。
しかし、これが終着点だと決めると、またもやここに幽閉される。
◆人間としてハラで一如を経験しても、前後ではないということは明確にわかるはず。
おそらくその直後に、頭が概念化したのだろう。
◆前後という前提こそが、見切られるべきものである。
同心円もまたしかり。
◆同心球状の裁断とは、全方向への回転の真ん中に「回転を止めずに消えている」
ということです。
この消える一点においては、一如の覚醒体験としては違いはありません。
ただし人間は、この軌跡の一瞬を、直線から切り取って認識します。
だから前後の裁断と錯覚するのです。
◆すべての瞬間は、あらゆる速さと大きさの相対的な回転の中心ですが、
地球上での認識はまた、重力と自転と公転の方向に限定されます。
全体の回転はこれらの方向に限定されません。
瞬間は無限の回転方向が同時に運行している中の一点です。
◆前に進むという直線的な前後感覚は、人間の心身と認識の構造自体に
組み込まれています。目が前面に配置されたのはこの理由です。
認識には、後ろが見えないという視野の死角が大きな影響を与えています。
これが、トーラス状の見かけ上の運動の一部を、直線的に切り取らせる要因です。
◆しかし、これらもまたひとつの中心があって回転が起こっているという限定された認識です。
中心はひとつであってひとつでないのです。
これ以上は、同時複数的な全方向に回転するカメラのような存在形態でしか認識できません。
現象は、ひとつの平面的なスクリーンに映っているだけではないのです。
◆すべてのものが、それ自体が回転しながら全体の回転の中の一部です。
全体の回転は無限に拡大されますが、どの回転の一点でもそれを悟ることは可能です。
これら全体の回転から人間の進化の軌跡を切り取ったのが螺旋構造です。
◆これらの認識もまた、途上にすぎません。
とはいえ、ここまでを体験することはそう難しくありません。
◆運動と一体化している意図もまた、回転の中の一点から
「飛び出して(はみ出して)」くるのです。
◆私たちの局所的な運動は、無限の回転の遠心力から飛び出してきては、
新たな回転を生み出し、それ自体がまた、中心をつくって周囲と引き合います。
◆個人が悟るのではないのです。そうであるとき、悟りもまた、永遠に進化します。
◆これらを知るときには、いったんすべて忘れる必要があります。
座禅にしても、輪廻にしても、同一性の忘却可能な認識システムは
有り難い恩寵なのです。
◆螺旋の軌跡は3次元上で仮に視覚化されたものです。
◆私たちの身体性をもって体感できるのは、平面球までです。
◆上の次元から俯瞰するとき、瞬間に裁断されて飛び出すものは回転する球です。
◆当たり前の話ですが、球を裁断するのは「球のナイフ」です。
だから自身の認識が球になる必要があるのです。
◆回転もまた、切り取られた仮の姿です。
しかしそれを「平面的に」却下するのは幼く乱暴すぎます。
それを私は「気絶」と呼びます。
◆私たちは古代からこの気絶の境界を、様々な象徴にすり替えてきました。
神の概念もそのひとつです。
◆ここで言っていることも途上にすぎません。
ただし、幼い私たちでも、過程を見る目を開くことは可能です。
いったん目を開き認識が転換すれば、勝手に進んでいきます。
◆いったん「ぶった切る」という荒療治が必要なのです。
◆ごちゃごちゃいわずに悟ればいいんだよ!という態度は
子供っぽいと言わざるを得ません。
◆何も信じないこと。
既存の言葉に当てはめないこと。
◆「過程のままでいい」と悟ること。
誤解を恐れず言うならば、解脱もまたひとつの「アイディア」なのだ。
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