【#祈りと慈悲 #パラレルワールド #バクティ 覚醒からのつぶやき 9】

◆個人的な感性のゆらぎの真ん中に浮いてあることで、
非個人的な感性の切っ先に立つ。
◆個人的な感性と自己表現は、いちどは誰でも出し切ってみたほうがよい。
そこで思う存分、泣いたり笑ったりする。
出し切ってもう何もでなくなったところで、非個人的な感性の手触りが、
背後から立ち顕われる。
◆だから、いちどはちゃんとドロドロした人間をやってみる。
◆取り残されたエネルギーは不発弾として持ち越される。
不発弾は爆発してしまえば消えるが、どこに埋まっていたか忘れたまま残り続けると、
存在に常に不安の影を漂わせることになる。
◆夢の3D映画は最後までぜんぶ観ないといけないと思い込んでるけど、
いつでも席を立っていい。
お尻は座席にくっついてない。
映画の続きが気になっても、この映画は永遠に上映し続ける。
席を立つタイミングを逃さないように。
◆夢は全部気づいたら終わる。
でもわたしたちの気づきは死角があるように設計されたから、
一人で全部見ることはできない。
だから、みんなで分担して夢の隅々まで照らそう。
額にサーチライトをつけて。
◆夢の3D映画には結末がない。
一コマ一コマが次の場合を生成し、ストーリーは無限に分岐していく。
だから、結末を知るのは放棄する。
◆映画を見ないためには、目をつぶるのではなく、勇気を持って席を立つ。
そのための気力は蓄えておく。
◆映画を見るのをやめるのに、肉体を殺してはいけない。
殺された肉体は、座席に残されたまま、映画の続きを見てくれる亡霊を待ち続ける。
◆本当は、映画も夢だし、映画を見ているのも夢だし、
映画を見るのをやめるのも夢だし、そもそも夢なんてない。
◆肉体の死というタイムリミットがあるから、人は常に未来に向かって
「間に合わない」と焦っているけど、間に合っていないのは未来ではなく現在なのだ。
いつも現在から0.2秒、遅れている。
◆盲点なのは、0.2秒遅れているその感覚自体を共通認識として「今」と呼んでいること。
だから「今ここ」という教えは常に混乱をもたらす。
◆「間に合わせたい」人がいなければ、今は今のままある。
◆「あなた」が「今ここ」にいることはできない。
「今ここ」が「今ここ」にあるだけ。
◆ある意味、この私はわたしの作品だけど「素晴らしい作品を創ってやろう」
という意図はさもしい。
◆透明な作品は、美しい。
◆自分自身に慈悲を向けられるようになると、世界が喜ぶ。
◆慈悲と憐憫は似て非なるもの。
◆究極の慈悲は、手を差し伸べない。 そこに存在の信頼がある。
神とはそういうもの。
◆慈悲は一本の柱となって次元を貫く。
◆だから神は柱に見立てられてきたのだ。
◆この柱は相似形として、わたしたちの中にもある。
わたしたちは、それによって立っているのだ。
◆祈りはこの柱で起こる。
◆だから、ただ自分そのものであれば、何かに向かって祈らなくていいのだ。
◆わたしたちは、理論の正しさを証明するために生きているのではない。
だってわたしは事実、これなんだから。
これ以上にまぎれもない事実があるだろうか?
◆神を持ち出すのは半ば禁じ手にしてきたが、その言葉を使わざるを得ないこともある。
それによって頑なな視界が開けることもあるからだ。
ひとつのことがわかれば、自由に横断していい。
◆いったん脱落したらヨコとタテのあいだに浮く。
そのとき、脱落は地上のものだったことを知る。
◆本当にすごい人は秘仏のように隠されているので表に出てこない。
縁があれば出会えるけど、多分、見ても気づかない。
◆散漫な状態には散漫な気づきがあるだけで、それがいけないわけじゃない。
メタ的に気づかれる気づきは、その時々の主観の密度と時間の
経過をありのままに正確に顕しているだけなのだ。
「ひとつの瞬間に集中する」という幻想にとらわれて、
気づき自体をサマタの訓練の道具に使わないこと。
◆現象世界での個人の責任は、能動的に行為している感覚によって発生するが、
能動と受動のあいだにあるとき、個人の責任は無化される。
ただし、無化=放棄ではない。
すべての次元の責任の真ん中にあるのだ。
◆四次元以外の次元は「爆発できなかった」のではなく、
わたしたちの認識がそれを「爆発させることができない」のだ。
◆徳と善行について。
エネルギーとして貯まるというよりも、瞬間瞬間の反応パターンが組み変わるんですよね。
その結果、エネルギーが変化して軽くなる。
徳という考え方は一長一短で、自分が徳の貯蔵庫であると考えるとエゴが肥大しますね。
◆一切を限定したくなければ、言葉を発しなければよい。
言葉で表せばその瞬間、限定が発生することは自覚しておく。
その自覚をこの世界では「責任」と呼ぶ。
◆気づきに気づいている人が2人以上いる空間はピーンと冴える。
1人以下だと場の影響下にボーッと流され続ける。
◆面白いのは、気づいている人が1人だけだと、ありのままに見ているだけで
場自体は変わらないということ。
だから、よくあるスピリチュアリズムで覚者を何人か配置して世界を変える
みたいな話は分からなくもない。
でも、覚者自身は自分が世界を変えようという意思なんてない。
◆気づきに気づいている人は場を超えた全体に気づいているので
場のエネルギーのうねりに飲み込まれない。
だから空気がパキっと澄む。
それは法悦ではなく、静謐なエネルギーだ。
◆人は常に幻想の場に飲み込まれ、その場その場の空気感に気絶して
流され続ける。
気づけばそれをいつでも切ることができるのにも関わらず。
◆場に飲み込まれる心身が癖付いている人は、気づきに気づく静謐な空気
のハリを肉体で捉えるため緊張と勘違いし、隙あらば居心地のよい緩んだ元
の場に戻ろうとする。
心して心身の癖付けに気づき、組み換えていく必要がある。
◆頭の後ろの化石みたいな塊を引き剥がして360度の意識を取り戻そう。
◆頭蓋骨から背骨がゆらゆらぶら下がっているだけ。
肉は忘れる。
◆気づき続けることは、心を殺してサイボーグになることではない。
◆空気を読むのではなく、場全体のハリを直接読む。
◆抽象化と観念化を混同しないこと。
◆覚醒は世界を抽象化することではない。
また、概念化しないことは覚醒の一部であっても、全部ではない。
◆感性は抽象化してもよい。
感性に自我の痛みを混入させないこと。
◆思想・哲学は世界と言葉ありきの戯れ。
感性が回収されぬよう、注意して遊ぶ。
◆一息の呼吸で肉を突破し、どこまでも深淵に入っていく。
深淵は入れば入るほど、明るく軽く開けたところ。
◆呼吸は止まるのではなく、一息が肉体を超えてどこまでも細く長く深く
引き伸ばされ、認識できなくなるのだ。
この究極が死だ。 死は停止ではない。
◆自分が悟るという考えはまず最初に捨てられるべきもの。
かといって、みんなで悟るわけじゃない。
強いて言えば、ひとりであった何かが独りごつ、という感覚。
◆瞑想の一息には瞬きがない。 だから、肉体を超えた息が続くかぎり
どこまでも見ていける。
ただし、途中で何も掴まなければの話。
死後という観念のヴィジョンもこの延長で起こる。
呼吸を止め、瞬きする肉体がなければ時空を遮るものがないのだ。
ただし死者は、ヴィジョン自体に遮られる。
◆気づきの目の瞬きの瞬間、一瞬の気絶と共に場面が切り替わる。
その瞬間は常に「なかったこと」にされている。
◆清潔感があるかどうかは重要な判断材料。
うねうねギラギラした禍々しさは避けよう。
◆体の感覚が鈍ってると清潔感を判断できなくなるので注意。
そういうとき、インスタントなものに飛びつく。
インスタント自体は悪くはないが、飛びつく時の目が眩む気絶は沼にハマらせる。
◆エネルギー系であれ覚醒系であれ、特定のパワーを「扱おう」とするものは注意する。
自身のエネルギーバランスが崩れていると、そういうものに飛びつく。
◆何かを表現すれば、その逆の力が発生する。
しかもそれは必ずしも一対一対応でないのがややこしい。
◆そうは言っても、怖いからといってまったく動かなければ、
傷つきはしないが赤ちゃんのまま何も学べない。
◆結局、すべてのバランスのあいだに在ることしか救いはない。
◆私はわたしに任せておけば安心だ。 頼もしいなあ!
◆ありがたいね。 考えなくてもいいんだから。
こんな楽してバチがあたりそうだ笑
ああ、ヒマだから罰の意識を創っちゃったんだろうね。
◆人っていうのは自分の存在を誰かに受け取ってもらいたいんだね。
自分で自分を受け取ればいいだけなんだけど、自分を信じてないから
別の信じられる人を探して彷徨う。
それじゃ、信用されてない自分が可哀想。
でも本当は今だってちゃんと受け取られてるんだけどね。
◆パラレルワールドは並んでない。 並べてるのは自分。
◆気づくというのは、全体が気づいていることなのです。
だから、自分が自分に気づけば、全体が自分に気づいていてくれるのです。
この気づきを、神の目ともいう。
◆全体には、あらゆる次元のわたしがいます。
だから、気づきに気づくだけで、すべてのわたしが私と重なって
協力してくれるのです。
こんなに心強いことがあるでしょうか?
◆観光バスツアーみたいに気楽に乗ってればいいんですよ。
たまに渋滞とかトイレ休憩とかガイドの変な民謡とか聴かされるけど。
勝手に連れてってくれるから。
◆不思議でしょうがないんだけど、なんで肉体年齢を伸ばそうとするのかね?
意識を変えたほうが時間は伸びるのに。
時間なんていくらでも伸び縮みする。
でも、伸びたところで梵天界なんて退屈だよ?
◆X X業界の人、と定義されそうになったら走って逃げる。
◆人間ドラマは1話完結でいいです。 キャストもセットも最小限で。
◆死んでもどこにもいかない。 (自縛霊じゃないよ)
◆孤独で寂しいとか言ってるけど、覚醒の現場はあり得ないぐらい
ぎゅうぎゅうづめで賑やかどころじゃないからね。
今のうちにゆったり孤独を楽しんだほうがいいよ。
◆祈るなら、殺されるつもりで祈る。
自分を全部、差し出す。
このエッセンスがつかめたら、生きても死んでもいないところで、
祈りそのものになる。
◆痛みを見るより痒みを見るほうが難易度が高い。
◆笑いに皮肉と逃避と自虐が入ってないか注意する。
この笑いは苦しみと表裏一体。
◆この笑いが集団化すると、陰湿な村を形成する。
◆仲間意識を「確認する」ための笑いには注意する。
この確認がしばしば強要に発展する。
◆野生動物は笑わない。
家畜化すると笑いを覚える。
◆いい気分の中に潜む「ほくそ笑む」影に気づきのメスを入れる。
この影は聖なるものにもいつの間にか忍び寄る。
あらゆる色合いに潜む影の尻尾をつかまえる。
◆「悪魔との対話」の悪魔は、比喩ではないのだ。
擬人化するかしないかは別として。
◆影はうっとりとした心地良さを纏って、あらゆる瞬間にスルっと入ってくる。
この影を根絶しようと血まなこになれば、思うツボだ。
気づきの光を当てることで影は退散する。
影もまた、自らの創った実態のない幻想だからだ。
◆影の尻尾を捕まえるには、名付け得ないエネルギーの微かな移ろい
を見るのが一番早い。
自分の感覚に淫する前に気づけるからだ。
◆人間としてのあらゆる経験は、影に気づくための予行練習となる。
この練習は、痛みを伴う。
◆光があれば影がある。
影は影で必然としてあるだけだが、それに「あるがまま」と居座れば、
いつのまに影が入り込み、その視点でしか世界を見られなくなる。
しかも、光と影は想像を絶するほど複雑に入り組んでいる。
光=善、影=悪という3次元の単純な二項対立ではないのだ。
◆だが、その複雑さに正義感をもって首を突っ込む必要はない。
ただ、一人一人が自身に起こるエネルギーの移ろいを粛々と見切っていけばよい。
◆善は次の瞬間には悪となり、悪は次の瞬間には善となる世界だ。
ひとつの信念をつかめば、変化に気づけなくなる。
◆生まれては死ぬというアイディアは局所的な異端思想。
この宇宙はカルト。
◆バクティの道は一見優しそうだけど、様々な「お試し」がやって来る。
その究極が、磔刑。
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