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【11/7(土) 東京ワーク】 ~所感と解説~        

2020/11/13

◆11/7(土)東京にてワークを開催しました。

ワーク
 「内部の目」のワーク


今回も身体や目の基本的な使い方や姿勢の調整などを基礎として行いましたが、
ワークの後半では基礎をベースにしながらも、テクニック云々よりも「存在」の
感覚をダイレクトに感じていただくことに主眼を置きました。


◆まず、以前行った糸を使ったワークで他者と自分とのバランスのあいだに消える
ことを体感していただきました。(前回のワーク参照)

前回は2人組で行いましたが、今回は4人組で4つの方向に糸を引っ張り合いながら
4人のバランスの中心を感じ、全員の意図の一致する方向へ動いていってもらいました。


<前回のワークの解説より抜粋>

糸

http://rubins-work.com/blog-entry-86.html


この、能動と受動のあいだというのは、どの位相のどの瞬間にも
全てにおいてあるものです。

このことをまずは3次元の物質を通して体感していただくために、
上記の爪楊枝のワークに加えて、今回はナイロンの糸を使ってみました。


まず、2人組になって糸の両端を指でつまんでもらいます。

そして、糸をピンと張って相手と自分のあいだで起こる微細な振動や
バランスが取れて一瞬止まっている状態を感じ取っていきます。


微細な振動を感じているときは、2人の間で糸の引っ張り合いの
駆け引きが起こっていますが、バランスが取れているときは、糸の
張りの感覚自体が消えて真ん中でふっと質量の消えているような
ところが見つかります。

ここは能動的に引っ張っても受動的に引っ張られてもいない
均衡なポイントです。

この真ん中にお互いの意識があるとき、その瞬間2人は同時
にそこに消えています。


次に、お互いの微細な振動を感じとりながら瞬間瞬間、糸の
バランスのとれる方向へ感覚をたよりに移動していきます。

すると、2人の身体が思いもよらない方向へどんどん勝手に
進んでいったり回転したり上下したりしはじめます。
(皆さんの動きは即興的なデュエットのダンスとして見ても
優雅で秀逸なものでした。)


このとき、糸の移動と運動のどの瞬間にも先ほどの「質量の
消えているところ」があることを見出せます。

見かけ上、止まっていても動いていても、どの瞬間にもそれが
あるのです。

この実験ではシンプルに2方向のバランスから起こる力学的な
消失点を体感していただきましたが、実はこの消失点は360度
どのバランスの中にもあって、どの方向のどの瞬間にもあるのです。

そしてまた、物質のみならず思考や感情や意図やエネルギーと
いったすべてのものに、このポイントが瞬間瞬間に無限にあるのです。
(これは、単純に物質的な力学に還元しているだけでは体感的に
見切ることが難しいですが、原理としては同じことです)


糸で例えるとイメージとしては、ひとつの思考の瞬間に360度すべての
方向に糸が引っ張られていてその瞬間のバランスをとっている感覚です。
(360度というのはあくまでも3次元で例えた場合です。多次元から
見れば別のベクトルが加わってきます。)

このように、あらゆるものが360度引っ張ったり引っ張られたりしながら
無限にバランスをとっていて、そのひとつひとつの「決定された」バラン
スの真ん中はそれ自体として消えているのです。

これは現象世界の極小から極大まですべてのものに共通しています。


ある意味、現象世界側の理解としては、このことがシンプルに腑に
落ちればよいといえます。

ただ、おそらくそれらの消失点をバラバラに見出すことができても、
運動の連続性や「わたし自身」の存在や認識との関係性が腑に
落ちないということがあると思います。

これは、サマタが高まっても対象と気づきが並行し続ける問題にも
関係していますが、認識とハートと丹田それぞれの明確な理解と、
軸に消えて存在に脱落してあることによって一気に解決します。



◆次に、この糸のバランスの感覚を持ったまま、2人組でボールを投げあって
もらいました。

ボール


このとき、自分の丹田と相手の丹田が糸でつながってバランスをとっている感覚で、
丹田からボールを投げ、丹田で受け取るようにします。

すると、投げあっているうちにだんだんと呼吸とリズムが合ってきて「相手を受け取る」
という直接的な感覚が生じてきます。

なぜならば、丹田というのは自分自身という存在の感覚につながっているからです。


丹田からボールを投げて受け取るというのは、自分を渡して相手を受け取ることに
つながっているのです。

ボールという物質を介してはいますが、より集中力が高まってボールが自身のハラと
一体化しているとき、ハラの中に相手の存在が直接入っている感覚が起こってきます。


ある参加者さんは
「ボールを受け渡していると、愛が生まれてくる感覚がします!」
と感想を漏らされましたが、自身の存在の中に相手をまるごと受け入れる感覚は、
この世界の創造原理である女性性の子宮の感覚なのです。

この愛は、自他の愛ではなく、存在の合一の愛です。


見性体験のレベルでは、受け入れる相手もいなくなって、ただひとつのところに
相手と自分がぴったりと重なって消えていますが、そこまで集中力が高まっていなくても、
自分の中に入っているという感覚はつかめるはずです。

子宮の中にまるごと世界が入っているという感覚は、マッチョな修行体系では切り捨て
られる部分ですが、この感覚の理解なくしては二元性の原理は悟れないのです。


ボールを投げあっていると循環のうねりが起こってきますが、女性性や愛の感覚と
いっても、そのエネルギーを単純な肉体のセクシャリティやエクスタシーに還元して
しまわずに、エネルギーの中心の醒めたところで見ていることが重要です。
(うねり自体は止めません)

今回は、エクスタシーに気絶しないための準備として、内部の目を立体的にして
肉体の目と気づきの癒着を切り離すワークを先に行っていたため、相手を受け入れ
つつ全体に飲み込まれずに見ているという感覚をつかんでいただけたと思います。

また、ボールを投げあうことによって、座禅による静的なワンネスから現象世界を
見切るための動的なワンネスへの移行訓練にもなります。

(本来は静的・動的といった区別はないのですが、一瞥体験がある人でも動的な
世界に戻るとエネルギーのうねりに巻き込まれてしまうことが多いため、意識的に
それらの差をとっていく訓練が必要になります)


この感覚は、存在のワンネスの感覚と直接つながっています。

拙著「Rubin ~ルビン~ -覚 醒- 認識の転換のために」
ではこれを「存在の座」のワンネスとして記しています。


<「3つのセンター」より抜粋 ③丹田(存在の座)を参照)>

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6. 3つのセンターにおけるワンネス体験


●3つのセンター

ひとくちにワンネスの体験といっても、実はその顕れかたにはバリエーションがある。

さまざまな覚者のいうことに微妙な相違があるのはそのせいである。

わたしはこの相違の理由が、実際に体験するまでわからなかった。


覚醒に帰還するとき、3Dに生まれ出てしまったわたしたちは、見かけ上の身体の
エネルギーと空間的位相を利用する。

このことはすべての3Dの存在が避けては通れないものである。

たとえ身体がなくなり意識だけが拡散したと感じたとしても、それは先に身体に同化
していた感覚ありきなのである。


覚醒側から身体を純粋な機能として見たとき、3つのセンターというものがある。

①頭(認識の座)
②ハート(振動の座)
③丹田(存在の座)

(これに加えて①~③を統合する④頭頂(消失の座)がある。
ちなみに④におけるホワイトアウトと認識の座の気絶とは消失の次元が異なる。)


これらは、現象側からひとつながりの身体としてみたときは、見かけ上、ひとつの
身体の枠の中に縦に順番に並んでいるように感じられるが、覚醒側からみたとき、
それぞれの機能は独立した位相にある。

3つの位相が現象側に顕れるときは、ホログラムのように別方向からの3つの機能
が並んだところに身体という枠の意識が創られるようなものといえる。


現象側の感覚からみたとき、

①頭(認識の座)の座標は、頭部の中心の松果体のあたりに位置する。
(名づけられた器官である松果体そのものではない)
通常の人間が「頭の中心」と感じる場所の、ほんの少し後ろにある。

②ハート(振動の座)の座標は、心臓の後ろの右端が触れるところと背骨
との間あたりにある。これも、人間が通常「ハート」と呼んでいる場所の位置
からほんの少し後ろにある。

③丹田(存在の座)の座標は、恥骨と尾てい骨のあいだにあり、女性の子宮の位置に近い。
これは人間が通常「丹田」と呼んでいる位置よりも少し下であり、たいての場合、
恥骨と尾てい骨の間の水平バランスがズレているので正確に感じることが難しい。


ここで注意が必要なのは、これら3つのセンターは、物理的な内臓などの位置では
ないということである。

センターそのものは、何も対象として触れていない空間のようなものとしてある。
そこは、物質と意識の境目の消失点のようなものとしてある。


しかし、人間は対象物がないとその存在を認識することができないため、便宜上、
身体の内臓や骨の位置の感覚をたよりにそれとの距離を探るしかない。

だがそれらは、身体の物質的な実感のある場所よりも、ほんの少しズレたところ、
「あいだ」にあるのだ。
 
逆にいえば通常、実感の感じられる場所というのは、すでに対象物に触れてしまった
後の現象世界の中の座標なのであり、その感覚をいくら強化していっても覚醒本体には
遡れない。


これら3つのセンターのそれぞれの消失点は覚醒に直接つながっている。

だが、「各センターはそれぞれ単体ではそれそのものを認識できない」。

覚醒の見え方のバリエーションは、これら3つのセンターの複合的なコンビネーション
による。
 

先に述べた、わたしの認識の座における体験は、認識の座が優位に立った覚醒の見え方
だったが、存在の座が背後のベースとしてあったうえで成り立っていた。

なぜなら、最後の瞬間にいたるときまで、現象世界における存在の座があったうえで、
そこから無限に後退していくという見切りのプロセスを利用していたからだ。

このとき、存在の座は消失の目的には利用されず、現象側の対象物として利用された。


●それぞれの機能とワンネスの見えかた

①認識の座は、純粋な観察者として機能しており、それ単体では対象物がないと認識できない。
すべてのワンネス体験のコンビネーションは、度合の差はあれ、認識の座を必要とする。
なぜなら、これがないとなにも見ることができないから。
認識の座は、それがそれそのものとしてあるとき、個人的な観察者としての意識は消えている。
だからワンネスの体験においては観察者としてのわたしはなくなっているかのように見え、
他のセンターの体験が全面にでてくるのだが、観察者の機能は、それらを体験するうえで背後
にまわっているだけで必ずベースとしてある。

②振動の座は、先に述べたように、覚醒との距離(の幻想)によって振動を変える、
現象との中間地点のようなものである。純粋に振動だけが抽出されたときは消失点に吸い込ま
れるような空間的座標のないもののように感じられるが、現象側に顕れでているときは現象
すべてに直接ふれてそれぞれの振動とともにあるかのように感じられる。
それは裏と表のすべてに触れて無限の空間に水平に飛び出していくような触覚のようなもの
としてある。
個別の魂の感覚や愛の感情といったものは、この機能にエゴ感覚が結びついた、二次的な
副産物である。
この感覚も、それ単体では認識できず、認識の座の観察者を必要とする。
「すべてが愛であった」という体験は、振動が、覚醒側ではなく現象側に触れている感覚の
度合のより強いときに起こる。「神の愛」を感じるというとき、それは「神」という対象物が
まだある、こちら側の話なのである。もし、覚醒側のハートに対応する振動に直接ふれたと
したら、愛を感じる間もなく、その莫大なエネルギーによって一瞬にして身体など吹き飛んで
しまうだろう。

③存在の座は、文字通り存在の感覚と結びついている。
「在る」という純粋な実態感、あるいは「わたし」という純粋な実態感はここから生じる。
(ここでいう「わたし」とはエゴ感覚とは異なる)この座において心身脱落するときは、
ダルマ落しのようにすとんと落ちて、丹田の器にパカっとハマると同時に個別のエゴ
の枠が抜け落ちる。
存在の座は、もともと内在的にすべての現象を包括していたのだが、存在の座に心身
が脱落したとき、「わたし」の感覚が占めていた場所が本来包括していたすべての現象
と置き換わる。
そのとき、わたしの中にすべてがあった、という体験が生じる。
こうして、このセンターで消失点に触れたとき、「わたしの中にすべてはあった」「わたしは在る」
という感覚とともにワンネスを見るが、このときもやはり、①の認識の座の純粋な観察者を
必要とする。
このとき重要なのは、①の観察者が③の代替としての「わたし」という個別感覚を持たずに、
背後の観察者として消えていられるかどうかである。
また、現象の対象物やストーリーに結びついた自我の実態感も、より物質に近い次元でこの
座を借りて起こるが、それと純粋な「わたし」の実態感を混同してしまうと「自分が悟った」
という的外れな感覚が生じることになる。
また、③に脱落したときに①の認識の鋭利さが弱いと、気づきの目が開いていないまま
暗闇の空間にはまりこんで何も動かない(触れてこない)無として在るように勘違いする
ことがある。


以上をふまえ、①~③の配合の割合でワンネスの体験の見え方のヴァリエーション
が決まってくる。

また、各種の覚醒のための修行体系というものも、①~③のどこにフォーカスして
いるかの度合で異なってくる。


最近のさまざまな覚醒の報告をみると、深さの差はあれ、②と③の配合率の高い
コンビネーションが多くみられるように感じる。

①と③は比較的、突発的に起こる可能性が高いように思われる。
(ただし、③は深さの差が出やすい)
このとき①は、「透明な気づき」という名のもと、うっすらとしたイメージとして背景に
ひっこんでしまっている。

しかし水を差すようだが、①の認識の座が確立されていないと、それらの体験は偶発的な
一瞥に終わり、体験の意味や構造の全体を理解することが難しい。


認識の座が確立されていないと、すぐに現象世界へ引っ張られて戻ってしまい、体験の
神秘を現象世界の論理で語るにとどまってしまうのだ。

優位なセンターの体験のひとつですべてが終わったと思ってしまう。

そして、いつのまに現象世界のうねりに飲み込まれて「すべてはわたし」「あるがまま」や
「愛」の名のもと、再び流転を続けることになる。


だから、最初に述べたように、①の認識が確立し、自動化される必要があるのである。

3つのセンターの体験は、認識されていないだけで、実はすで備わっている。

それらは、別の対象物に占有されている認識の瞬間において、ただ隠れているだけなのである。

つねにすべてのものがそれらに触れてあるのであって、すべての人間は覚醒を読み取ることが
可能なセンターをはじめから割り当てられている。


これら3つのセンターは必ずしも現象側においてひとつに統合される必要はない。

むしろ統合しようという試み自体が、身体への同化の強化と、現象側において
「いつか未来に統合されうるもの」という、意図のベクトルを発生させてしまう。

そもそも3つ同時に身体というひとつの入れ物に並んでいるというのが幻想なのだ。


逆にいえば、各センターという覚醒のポータルが現象側へそれぞれが司る機能を
顕すために、見かけ上身体という枠がつくられ、そのなかに配置されるというアイディア
が採用されたのだった。

現象側のわたしたちは、その配置にしたがって担当者意識として采配される。


それらは個々の機能であって見かけ上わかれているが、それぞれの消失点においては
ひとつの覚醒の場にある。

現象側においては、統合はされていなくても、上記のようにコンビネーションの形はとる。

そのときも、3つ同時に機能させようとこちら側から意図する必要はないのである。


3つの機能によるそれぞれのワンネス体験を経験することは、現象と覚醒の多元的な
理解に役立つ。

覚醒とは、3Dの現象側のひとつの側面だけですべて説明できるものではないのだ。

覚醒へ遡ろうとするとき、3つの機能が本来の純粋な機能としてそれぞれ自動的に
働いている状態を知っておくことは、帰還の確率を高めるといえる。

純粋な機能とは、それぞれのセンターの役割に人間側の意味やストーリーといった
不純物が混じっていない状態である。

すなわち、先の③であれば、存在のセンターの純粋な「わたし」とエゴを混同していない
ことであり、②であれば、純粋な振動とエゴの愛や感情を混同しないことであり、①であれば、
純粋な気づきとエゴの思考や判断を混同しないことである。


また、①②③相互のあいだの機能の取り違えと混同を避けることも重要である。

これらの混同を注意深く見切って、各センターの純粋な機能を自動的に働かせることが
できたとき、エゴに依っていたそれらの存在のコントロールを忘れて、手放しで任せて
しまうことに専念できるのだ。

混同を避けるためには、各センターに無自覚に混入していた不純物を注意深く無限に
見切っていく必要がある。

この作業はエゴにとっては面白くないし、自動化されるまでは強い意志と根気がいるだろう。

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