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#水平のワンネス/垂直のワンネス 【4/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】  

2024/04/21

4/20(土)東京にてワーク開催しました。

鏡


【水平のワンネス/垂直のワンネス】

ワークも回を重ねるごとに進化してきましたが、内部の目と水平方向(現象界)のワンネス感覚を具体的に
体感できる方が増えてきたので、今回はいよいよ次の段階の「垂直方向のワンネス」と「3つのセンターの
分離の無化」をお伝えすることになりました。

その意味では、今回は記念すべき日であったともいえます。


水平方向のワンネスも、内部の目が完全に確立しないうちはまだ肉体の目と認識が癒着していますが、
構造的に正確な位置を意識できされすれば、ある程度癒着があっても立体的な3次元視(水平のワンネス
は3次元のものです)の体感は可能です。

事実、これまでいらした参加者さんのほぼ100%がこの視覚を実際に体感できていました。


ただ、水平方向のワンネスではアタマ・ムネ・ハラそれぞれのセンターの覚醒感覚の違いが残り続けます。

もちろん、人間の認識においては一つの瞬間に一つの認識しかないため、ある瞬間においてはそれら3つ
のセンターは分離しているわけではないのですが、サマタが完璧に完成しないかぎり肉体感覚の揺らぎと
ともに、それらの覚醒感覚は時系列で顕われては消えていく繰り返しで、統合にはいたりません。
(3つのセンターのうち1つの覚醒に特化した一瞥体験だけでは、この揺らぎの仕組みを見切ることは難しいでしょう)

水平方向のワンネスにおいても垂直の軸を利用して「この私」が消えていることが前提なのですが、このときの
垂直の軸にはまだ上下の「高さ」があり、そこに消えることは肉体構造を利用した暫定措置なのです。

そこで次の垂直方向のワンネスが必要になってくるのですが、この段階では水平方向のワンネスの立体視覚
をより厳密に磨きあげ、肉体の目と認識の癒着を外さなければ成立しません。


【消失点とブラックボックス】

そのため、まずは基本の「内部の目の確立」と「3次元視の確定」と「水平(3次元)のワンネス体験」を順を追っ
て具体的にワークしていったのですが(このワークについては過去にも詳細に解説してきたので割愛)、垂直
方向のワンネスへの移行へあたり新たに加わったワークがあります。

これまでにも、内部の目の裏側(厳密にいえば座標があるわけではないので裏ではない)のブラックホールに
吸い込まれるような「消失点」とその奥の「見ることのできない」ブラックボックスの領域については度々触れて
きましたが、今回はそのブラックボックスの領域に反転して映し出される「もうひとつの現象界」を「消失点の内圧
で気絶せずに」具体的に「見る」方法を新たにお伝えしました。

「見ることができない」のに「見る」とは矛盾しているようですが、その矛盾は先に述べたように「見る」ことが
肉体の目の視覚と癒着している限りは解消しません。


シール

そこで、肉体の目の無意識の癒着を実感していただくために、まず内部の目から壁に貼った直径5mmの丸い
シールを見て(映して)もらい、その視覚の状態のまま瞼を閉じシールを見つづけます。

瞼を閉じているのでシールが視えないじゃないか、と思うかもしれませんが、シールを見ていた時の視覚と眼球
をそのままそこに置いておくと、肉体の視覚としては瞼の裏側しか映っていませんが、シールの実体感は依然
として見えていた時のままそこにあるのです。

この感覚は、シールの「イメージ」を創ってイマジネーションで視ることとは全く異なります。

瞼を閉じても開いても、具体的にそれはそこにある(感覚的には触れているといったほうが近い)のです。

このとき「見る」ことは、自分の外側にある(と錯覚している)対象物とそれにフォーカスする肉体の目との癒着から
はじめて解放され、純粋な認識(ただし、まだ純粋な気づきそれ自体ではない)として再発見されるのです。


この体感が得られたところで、こんどは眼を開けたままシールを内部の目から見てみます。

すると、純粋な認識を体感した新たな視覚は、肉体の目の癒着なしで純粋にシールを内部の目に映すことができる
ようになっています。

ある参加者さんはこの感覚を「シールが内部の目に直接吸い付いているようです」と表現されましたが、この段階
においては「自分」の外と内という境界がすでになくなっており、この見え方はすでに水平方向のワンネスの一瞥
といってもよいでしょう。


ただ、このときの内部の目の感覚はまだ「表側」に限定されており「裏側」は依然としてブラックボックスのままなのです。

ブラックボックスのまま内部の目の裏側へ回り込もうとするとき、プロセスを誤魔化さずに正確にたどれば、必ず内部の
目それ自体の高密度な内圧に気絶することになります。
(逆にいえば、適当に誤魔化してイメージで裏側へ飛んでもそこは表の認識で見た表の世界のままです。これは物理的
な表裏の話ではなく、座標のない認識の構造的な裏表の話なのです)


【肉体の目の癒着と感覚の後方転写】

そこで、裏ワザとしてこの肉体構造を利用することにしましょう。

まず先のように内部の目にシールを写します。

シールが吸い付いてくる内部の目の「表側」が実感できたら表の奥の消失点の「手触り(これを私はよく「意触り」
と表現します)」を感じ取ります。(意図的に「見よう」とするとそれは消えてしまいます)

さらに、消失点へ吸い込まれていった奥に広がる「見ることのできない」ブラックボックスのもやもやした「何か」の
気配を微かながらに感じ取ります。


ここでいったんその気配を置いておき、こんどは具体的に肉体の背面を意識化します。

これまでも説明を重ねてきましたが、眼球が前方方向に並んでいる人間の意識は常に肉体の前面に偏っています。

認識と肉体の目が癒着しているため、前面の視野と自意識が癒着しているのです。

この意識をいったん背骨側へ戻し(このワークは別途、基礎として毎回行っています)さらに視野を外れた背面の空間
を意識化します。
(背面の意識化には、両手で紐の端と端を持って腕を伸ばし、前面から頭頂を通って背面まで空間をなぞるようにします。
このとき視野から外れた瞬間に意識を変えないようにするのがポイント)

ある参加者さんは「前面から背面まで同じ密度のエネルギーの圧が感じられるようになりました」と言われましたが、
私は「手足で触れられる空間の範囲までが肉体」と定義しており、その感覚はまったく自然な道理なのです。


さて、物理的な肉体の背面が意識化できたところで、先の内部の目に映ったシールの見え方に戻ります。

この見え方は、前述のとおり内部の目の表側の現象であり、見かけ上のシールは肉体の「(見かけ上の)外側」の壁
に貼ってあります。

この(見かけ上の)外側にある壁とシールの視野全体を写している感覚を、そっくりそのまま肉体の背面に転写します。

もちろん、背面は視覚としては見えないのですが、前方の壁とシールを見ているときの内部感覚をそのまま後方へ
転写するのです。

これは前面の感覚が確立していないと難しいかもしれないので最初はイメージで補完しても構いません。
(このとき生きてくるのが、前述した「瞼を閉じても開けてもシールはそこにある」という体験です)

すると、外側から見た構造としては内部の目の消失点(・)の表(>)と裏(<)に同じ現象世界●が反転してあること
になります。(図で表すと●>・<● 構造としては「アインシュタイン-ローゼン橋」に近い)

このとき、背面の意識は未だ弱い(肉体の目の癒着が完全に外れていない)ので、裏の意識は表より曖昧だと思いますが、
多少訓練すれば表裏が同等の感覚に近づいてきます。


ただ、先に述べたとおり、この感覚は未だ肉体構造に依っています。

そのため、裏側の内部の目の感覚が強化できたら、転写したイメージを表側と同じように(肉体の目の癒着を剥がして)
内部の目の裏側に引き込みます。

このとき難しいのは、表側が視覚を頼りに引き込めたのに対して裏側は「感覚」だけを頼りに引き込まなくてはならない
ことです。
(この辺りから、文字で読んでいるだけでは珍紛漢紛になってくるかもしれませんが、ワーク参加者さんは何のことを
言っているか理解できるはずです。3次元の二元性モデルにおいては取りあえず裏表2方向だけ抑えればよいので、
実際にやってみるとそれほど複雑な話ではありません)

この「感覚」を具体的にするには、表側の立体視を精密に磨くしかないのです。

感覚が具体的になれば、イメージで補完した曖昧な部分が明確になり、転写したイメージ(感覚)が内部の目の裏側
に引き込まれ、表と等間隔の見かけ上の座標にカチッとはまるはずです。


【暗闇ワークと量子もつれ】

ワークではここまでのプロセスを明るい照明の部屋で目を開けて行い、その後、照明を消して真暗な部屋で同じこと
を行いました。

視覚情報が肉体の目と癒着しないという意味では、ある意味暗いほうが感覚を表裏同等に転写しやすいとも
いえるでしょう。

まず、壁に貼ったシールを内部の目に引き込み、裏側にも反転させた状態で照明を消すのですが、消えた瞬間に
肉体の目の瞳孔の変化に引っ張られて内部の目から意識が外れないようにします。

すると、前方の暗闇と後方のブラックボックスの暗闇(ブラックといっても本当は黒でも暗闇でもないのですが、ここ
ではひとまず暗闇とします)の境界がイメージを超えて地続きになるので、表の感覚をそのまま裏へ転写し、内部
の目の裏に感覚を引き込みます。

裏表の感覚が同等になったうえで試みとして、体軸を中心に肉体を回転させてみました。

体軸に自分という感覚が消えているとき、表裏の反転したイメージ(現象)の「前後」という概念は無化されます。

3次元の認識の私たちは、常に上記のように表と裏の現象世界の真ん中にありながら、前方の視野側に偏った
視覚にとらわれ(盲目の人であっても視覚に代替された五感を同じように使って方向を割り出しています)裏の
ブラックボックスには無意識なままです。

それが、3次元の立体視を獲得することによって前後の奥行きが意識化されると(裏表の世界は本当は同じところ
にあって分離していない)見かけ上反転した世界が立ち顕われてきます。

この反転した2つの世界こそが「量子もつれ」よろしく(この言葉自体は単なる概念にすぎないことに注意。明確な
体験なしに物理用語を乱用するスピリチュアルは信用しないこと)、消失点の高圧の気絶(=ワームホールモデル
でいうところの「ワープ」)を経由した二元性の幻視の源であるといっても過言ではありません。

(ちなみに、前時代的なプラトンの洞窟のアナロジーの影のモデルや、近時代的な映写機とスクリーンの映像の
モデルによる二元性の解説は、個人的な体感としては片手落ちと言わざるを得ません。なぜならば、影や映写機
を投影している者は誰なのか?という疑問が残り続けるからです。それらの解説者は往々にしてその「誰か」を
短絡的に「本来の私」と置き換えがちですが、映写機を回している「誰か」はすでに認識可能な表側の現象世界
に含まれるのです。そもそも、映写機とフィルムというアナロジーは時系列ありきの話です。体感的には表と裏と
ワームホールの出現に時差はなく、突如として全体の構造が同時に発生します。それは本当に唐突な瞬間です。
ただ、それが「客観的事実(本来そんなものは存在しませんが)」として「同時」かどうかを証明する術は3次元人
にはありません。その意味では量子が唐突に顕われたり消えたりする現象にも似ていますが、短絡的にそれを
認識の解説に転用するのは浅薄でしょう。また、唐突に出現する瞬間のスパークを真空から突然起こるビッグバン
モデルで説明すればエゴは満足するかもしれませんが、そういう類のエゴは、ビッグバンという現象自体が怪しく
なってきた昨今、新たな学説が生まれれば軽薄に信念を乗り換えていき、自身の実存としては結局どこにも辿り
着かないでしょう。客観的事実が幻想であるならば、最終的に重要なのはシンプルに「その人自身がどうか?」
ということしかないのです)


サクラ


【暫定的な無我感覚】

ここまで来ると「では、2つの分離した世界をどのように統合するのか?」という新たな疑問が起こるかもしれません。

前述のように、裏表の世界はもともと分離はしておらずひとつのところにあるのですが、それを分離して見ているのは
私たちの認識仕様にすぎないのです。
(といってもほとんどの人間は片側だけしか見ておらず、分離していること自体にも気づいていない)


この一つの解決案として、水平方向のワンネスにおいては先の「回転(自転)」して軸に消える、という方法があります。
(スーフィズムなどはこの回転を利用しますが、前提として神という二元的な存在を立てているので、構造的に
「恍惚(酩酊)」という忘我のシステムに踏みとどまらなくてはならない必然があります)


ただ、先に述べたように、水平方向のワンネスで利用される軸には上下の「高さ」があり、見かけ上はこの私が軸に
消えていても上の果てと下の果てはブラックボックス(というより感覚的に表現するとホワイトボックス?)のままなのです。

それはいわば、暫定的な「無我感覚」を上下に引き伸ばして確定を保留し続けているようなものです。

曖昧な領域を保留できるのは、まさに肉体感覚ありきゆえで、肉体のとどかない領域を無化ではなく無視することで
「無我」を肉体レベルで代替しているといってもよいでしょう。
(今回は準備運動として別途、ハラの底の果てしなく深い奥から個人を超えた「地獄」を吐き出すワークを行いましたが、
ハラの奥から声を出してくださいと言ったところ、声が肉体と癒着しているため、肉体の限界までしか深度を掘り下げ
られないといったことが見受けられました)


【垂直の無我感覚】

ここでやっと最初の話に戻ります。

水平方向のワンネスは、上記の理由から3次元の肉体に留まり続けるのであればそこで完結しても構わないのですが、
肉体由来の暫定的な無我感覚の保留を突破したいのであれば、次の垂直方向のワンネスの体感が必要になってくるのです。

ここで改めて生きてくるのが、水平方向のワンネスの表裏を同時に見て(触れて)いる感覚です。

ここから先は、今回のワークでは時間切れで導入を匂わせるだけになってしまいましたが、ヒントだけいうと水平の裏表
の感覚を(ある意味シンプルに)90度回転させて垂直にし、上下を水平の時と同じように見れば(触れれば)よいのです。

シンプルといえばシンプルですが、実際にやってみると肉体の目が完全に剥がれていないと「上下に垂直に見る」という
感覚は具体的に起こりません。


この感覚は、一般の人であっても例えば「お腹が痛い」といってお腹の感覚を見るときに、一瞬だけ無意識に垂直に目
を落としてお腹そのものを見ていることがあります。

ただ、本人はそのことを自覚していません。

ヴィパッサナー瞑想のマハーシメソッドなどではサマタの導入としてお腹の膨らみ縮みの感覚を見ていきますが、垂直
に見る目が確立していないと腹部というイメージを「外側」から見ることと「内側」から見ることを無意識にごちゃ混ぜに
してしまい、それにより集中がなかなか深まらないといったことが起こります。


今回のワークでは導入としてアタマの認識に特化し、水平の壁に貼っていたシールの感覚を天井に貼ったシールに
置き換えて垂直感覚の手触り(意触り)だけ体感していただきましたが、この段階ではまだ水平方向の意識が勝って
いるため、アタマ・ムネ・ハラの3つのセンターは縦に分離して並んだままです。

次回からはアタマに引き続き、ムネとハラの垂直方向のワンネス感覚もそれぞれ体感していただいたうえで、3つの
センターの分離を自意識とともに重ねて落とし、垂直方向の無我と存在のスパークの体験までをワンセットにして
いこうと思います。

(水平垂直という概念は3次元ありきなので、最終的には肉体感覚を落とすとともに水平垂直への囚われも外していきます)


ここまで文字で読んできて「これらの感覚を即物的に知ることに何の意味があるのか」「魂に何も響いてこない」と疑問
や苛立ちを感じた方もいるかもしれません。

これはもう実際に体感してみていただくしかないのですが、カチッと構造にはまったときの意識状態を知れば、どのような
心理的アプローチやスピリチュアル的アプローチにもない具体的な「エゴ感覚による苦の幻想」の激減(消滅はしません)
を即座に実感できるはずです。


チューリップ


関連記事
⇒ #輪廻はあるのか #私と世界の存続 【9/17(日) 東京ワーク ~所感と解説~】
⇒ #二元的「出産=創造」と循環 【1/20(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


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【#ムー民 #AI絵師 #ファンタジー 覚醒からのつぶやき 116】 

2024/03/31

アイアムザット
I am that I am, that I am not that I am.
Am I that I am ?


◆勉め強いず、学び習わず、知が知を然らしむ。

◆「欽ちゃんの仮想対象」

◆この一瞬には分岐がない。
この一瞬にあるとき、選択肢は存在しない。
選択権がないのではなく、選択肢がないということ。

◆信じることで信じられる神を限定している。

◆信じる者は「信じる範囲内でのみ」救われたり救われなかったりする。

キャンベル
「イメージはイメージです」
※実際のイメージと異なる場合がございます。


◆最初に見た動くものが自分だったため、自分のなかで親と子が交錯している世界。

◆可愛い(という想念)が(直列で)渋滞している。

◆多次元に渋滞なし。

◆切られた植物の幻肢(枝)を見れば、肉体との同化も解けることでしょう。

◆間違いを繰り返しているのではなく、繰り返しが間違っているのだ。

風船

◆ワークで風船を「この世でいちばん愛しいもののように抱えてください」
と言うと、自分の赤ちゃんのように抱えた方がいました。
赤ちゃんを自然に抱える位置は、ハートとハラの中間ぐらいです。
このとき、母はハートだけではなく、ハラでも子と繋がっています。

◆この位置だと赤ちゃんの顔と対面しつつ子宮で繋がっていたとき感覚
も呼び起こされます。
二元性の愛としてこれはこれで素晴らしいのですが、ハート開発という
意味では位置がズレています。
まず、この無意識に顕われるカタチがどこに繋がっているのかに意識的
になる必要があります。

◆また、パーンと風船が割れたとき、大切なものが一瞬にして壊されて
しまう悲しさや憤りを覚えるかもしれませんが、現象世界のカタチある
ものは全ていつか崩れ去っていきます。

◆しかし、その現象を発生させているハートには、かつて繋がっていたもの、
いま繋がっているもの、これから繋がるもの、全ての振動があるのです。
その源は、見かけ上の現象への愛に執着していては見つかりません。

ファンタジー
リアリティが、目を閉じる。

◆人生は「不滅」というファンタジーを探す旅。

◆わたしの完璧さを知ることが、覚醒の確定です。
これはファンタジーでもなんでもなく、明確に
見ることができるのです。
想像の余地は一切ありません。

◆この世の何が幻想かって、神は無償で世界を創造したはずなのに、
神と人が契約を結んだときから、創造は有償に堕ちてしまったんだよ。

◆そろそろ人間の「空想」という資源領域の奪い合いが始まりそうですね。
(いや、とっくに始まってるか)
不特定多数の「空想」がコンテンツ資源として利権化・有償化されるとなれば、
それは血眼にもなるでしょう。
行きつく先は「ルーシュ」搾取で、搾取する者を創ったのが人間自身だったというオチ。

メタアイズ
「RV魔法講座メタアイズ」

◆↑パートナーのリアル氏の「RV魔法講座メタアイズ」へ参上。
認識能力を活性化する秘伝ワークやヒーリングを担当しガッツリお手伝い
してきました。
この後、皆さんバリバリにヴィジョンが視えるようになってビックリ!

◆リアル氏の講座で「チークダンスを踊って、最後に相手をハグ
してください」と言われて一瞬みなさん「えっ?」と引いていましたが、
自分と相手のハートの感覚だけに意識を集中していると「自分対他人」
という気まずさがなくなり、ただハートだけが踊っている感覚になるのです。

◆お互いのハートの位置を意識したままハートの奥をくっつけようとする
と自然とハグの形になります。
ハラやアタマが落ちたハート単体でのハグは、非常に純粋な感覚です。
そこにはセクシャリティや思考が混在しないので、相手が誰であろうが
気まずさや邪な感覚は一切ないのです。

◆ハートと現象界は「触れている」というより、完全に表裏一体で
「くっついて」いるんですよ。
でも、そこには未だ「表裏」があるから「くっつく」ことができるんです。

きたろう
「!うろたきいお」

◆↑これは未だ3.5次元ぐらいの天使だな笑
3次元の住人は、これを神と崇めてきた。

◆ヤバみついでに。
立方体のマザーシップが来ても乗ったらいけません。
三次元の夢に閉じ込められます。
立方体が何の象徴か考えよう。

◆魔術は置換と交換ありき。
象徴を扱う魔術の終わり。

◆象徴をアップデートしない限り、置き換えの魔術は行き止まり。

◆DNAに刷り込まれた「黄金」という象徴を書き換えよう。

フリーレン
予備知識ゼロで『葬送のフリーレン』作画

◆↑『葬送のフリーレン』まったく見てないけど「魔法と認識できない魔法」
なるパワーワードにピピッとセンサー反応。
なになに「人類が未だに解明できていない魔法が『呪い』と呼ばれている」
ですって?それは聞き捨てなりませんね。

◆今更ながら、AIとアニメ風作画は親和性が高いよね。
適当に指示するだけで、一定のクオリティ叩き出してくる。
ストーリーも動画もAIで創れるし、ほんと人間いらないなこれ。
あとは著作権の問題だけど、ソースが不特定多数なら人類共有財産でよくない?

◆少なくとも、絵が綺麗なだけで賞賛される時代は終わった。

アニメ1 アニメ2 アニメ3 アニメ4
100秒でサクサクAI作画

◆「AI絵師」の見分け方⇒背景が歪(ゆが)んでいる
「AI呪師」の見分け方⇒時空が歪(ひず)んでいる

◆物質世界よりも感情世界のほうが地獄。

◆物質を超えよと夢見つつ、地獄へ向かっていく無明。

◆良心は情と癒着しやすい。

つなぐ
「つなぐ」位相では、伝わらないことが、在る。

◆集合無意識は良心を検閲する。

◆個別の思考が落ちた後に、集合無意識の代弁者に堕ちる場合がある。
熱心に救済を語るが、自覚的な「本人」がいないだけに厄介なのだ。

◆無思考という気絶に、純度100%の魔が閃く。
魔は、フリースペースを待ち望んでいたのだ。

◆「集合無意識」や「潜在意識」と呼ばれる実体が認識に
先行してあるわけではないんですよ。
それらを存在の基底と混同しないことです。

リアリティ ノンリアリティ
←写真  / AI作画→

◆↑AIだとリアルな植物の生体エネルギーが全然でないんだよなあ。

志賀
【DALL-E de そのまんま挿絵】
★志賀直哉『城の崎にて』
「たぶん京浜東北線の北浦和駅あたりにて?」
【生成原文】
山の手線に跳ね飛ばされて怪我をした、その後養生に、
一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。

志賀2

◆↑AIって想像力で作画してないから逆に不気味だよね。
人間だったらこの原文からこんな絵を想像しないし。
珍奇だけど「クリエイティブ」では決してないんだよ。

志賀3

◆↑「こういうのでいいんだよ」
やればできるじゃないか。

◆私たちは「実現可能」な預言しか読み取れない。

◆100%当たる預言者と100%外れる預言者の価値は同じ。

◆誰もがどの瞬間にも全てを見ているが、選択された時点でそれ以外は隠れる。
誰もが潜在的な「預言者」だが、意図された「預言」は構造的に当たらない。

◆パンデミックを預言したとしてネット上で有名になった某占星術師。
予め手当たり次第に動画をアップしておき、外れた預言は削除していたとかいないとか。
真偽のほどはともかく、私たちの世界というのもある意味「当たった預言」だけが
瞬間瞬間に採択されているともいえる。

◆「2025年」に向けて無限にアカウントを作り、あらゆる実現可能性を
預言しておけば、必ずひとつは当たるでしょう。
外れたアカウントを全て消せば、預言は当たったことになる。
そんなのインチキですって?
いやいや、もともと「現実世界」ってそうやって出来てるものだよ?
ほら、今この瞬間も!

◆消したアカウントは全て魂の同一IPアドレスに紐づいちゃってるけどね。

ムー
『ミーム谷のムー民』

彗星
1992年の映画『ムーミン谷の彗星』怖すぎ。
あらすじより
「あと4日で彗星が地球に衝突する」とのニュースを得たムーミンは、
道中出会ったスナフキン、フローレンらと共にムーミン谷を目指す。

◆スピリチュアリズムは、魂をミーム化する。

◆夢を養う「ミール・ワーム」
夢を蝕む「ミーム・ワーム」

◆ブラックマジックカット「こちら側のどこからでもキレます」

◆「刹子、それドラッグやない、お弾きや」

◆刹那と劫は「今」のファントムです。

◆「刹那に生きる」ことは「刹那的に生きる」ことではない。

◆毎瞬毎瞬ドッキリに引っ掛かり「テッテレ~」の刹那に気絶。

◆映像を見ながら映像を反芻している刹那の無意識に気づく。


↑実験者が仙骨の位置を支点にしていることに注目しよう。
仙骨+尾骨+恥骨から動くことを意識すると最小のエネルギーで最大のパワーが出る。


◆【恐怖...本当にあった真夜中のメモ供養3】
『会いに行ける聖者』会いたかった~イエス!

◆8歳の夏休み、6歳の弟と5歳の妹と一緒に、子供だけで京都に住む
祖父母の家へ遊びに行った。
幼い弟妹を引き連れ東京駅から新幹線に乗り、京都駅に無事着いたとき
には達成感と誇らしい気分でいっぱいだった。

◆最近になって知ったのだが、実はそのとき心配した祖父がこっそり
名古屋駅から新幹線に乗り遠くから見守っていたそうだ。
祖父は子供たちの自立心と自尊心を育てるため、そのことをずっと
黙っていてくれた。
数年前に亡くなった祖父とは血が繋がっていなかったが、いつも
自愛に満ちた人だった。

◆天使も、そういう風に見守っているんですよ。
私たち人間の自立心と自尊心を育てるために。
「はじめてのおつかい」の見守りは、ちょっと人間臭いけどね。


◆↑リアル氏のRVペアワーク、私もお手伝いで参加しましたが、
故人をRVしたメッセージを聞いて、あまりにも故人そのものなので
号泣されている参加者さんもいらっしゃいました。
まるでそこに故人がいるかのように感じたそうです。

◆私は祖父の名前を書いてペアの方にRVしていただいたのですが、
祖父の性格や住んでいた場所などドンピシャで当たっていたのでびっくり。
ちなみに、その方のRVによると祖父は私に「行け(GO)!」と何度も
言っているそうです。
何処へ?笑

松尾
【DALL-E de そのまんま挿絵】
無限代の過客?
★松尾芭蕉『奥の細道』
【生成原文】
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口
とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。


関連記事
⇒ 【#不善心所 #錬金術 #トーラス  覚醒からのつぶやき 79】


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4/20(土)18:30~22:00「東京ワーク参加募集」(夜間開催)】     

2024/03/27

*****  Rubin’s work  東京ワーク開催日時のお知らせです。

ワーク321 頭頂ポイント


◆4/20(土) 18:30~22:00
※今回は夜間のみの開催となります。

⇒ メルマガ登録はこちらから

場所は東京都中央区、参加条件等の詳細はメルマガにてご案内しております。


◆今回は、

【基礎】
・一瞬で集中に入る軸と姿勢
・どこにも居座らない座法
・呼吸の秘伝的ライン
・丹田のポイントと集中の奥義
・対象のない祈り
・内部の目へのシフト

【実践】
・時空と存在の切先に立つ
・存在の深淵に滑り込むには
・中心の合一から脱中心へ
・現象の引戻しと離脱ポイント

をテーマにワークを行なっていく予定です。
(内容は参加者さんの状況によって変更となる場合があります)


◆直近に開催したワークの様子

⇒ #「慈悲の瞑想」と祈りの対象 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】

⇒ #ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】

⇒ #ハラの見性体験 #純粋な意志 【2/24(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


↓ 限定公開ワーク動画 【実録!~「空」として在ること~】


【拮抗するポイントで空に浮くには】



※参加ご希望の方は、拙著 ⇒ 「Rubin ~ルビン~-覚 醒- 認識の転換のために」
をお読みのうえ、まずは以下のフォームからメルマガのご登録をお願いします。


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追って参加条件等の詳細をご連絡いたします。


※参加者一人一人の身体とエネルギーを見ていくため少人数性となっております。
参加希望の方が多い場合は先着順とさせていただく場合がありますことをご了承願います。


※メルマガ登録されている方で万一、ワーク案内メールが届いていない方が
いらっしゃいましたら迷惑メールフォルダをご確認ください。


ワーク 姿見


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#ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】

2024/03/18

⇒ #「慈悲の瞑想」と祈りの対象 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】
からの続き、ワーク所感と雑記です。


菜の花
また春が来ました。


【祈りと恩寵】

今回は一番の基本「祈り」メインの会になりました。
(詳細については⇒ 【その1】 を参照)

祈りは瞑想全てに先立ってあるものであり、最後の突破口にもなる最重要ポイント。

これ抜きに積み上げた方法は全て砂上の楼閣といっても過言ではありません。

「対象のない祈り」がその人そのものになった時、最後の恩寵が起こるのです。


【ハート荒療治】

今回のメインイベントは、風船を胸の前でこの世で一番愛おしいもののように抱きしめつつ、ハート
の奥の真空と現象の境界点に集中してもらったところで、風船をいきなり針で割るというビックリ荒療治 笑

心臓が弱い方は真似しないでください!

パーン!と割れる現象側の衝撃に意識を取られると「うわっ!」と表面でビックリしますが、ハートの奥に集中
し続けている状態でいられるなら、インパクトの瞬間にハートの弦に直接響き、目はただカッと刮目してある
のみでしょう。

風船
風船登場率の高い現場です。


【ポカンと垂れ流し】

⇒ 【その1】のワークで「対象のない祈り」の状態とはどのようなものかを体得していただいたのですが、
「赤ちゃんのようにヨダレを垂らすレベルで完全にポカンとしてください」と言った時、なぜか一人だけ脱力
しきれていない方がいました。

そこで「『自分』をキープしなくていいんですよ」と声をかけると、「今ガスが溜まってて緩めるとオナラが
出そうなんです!」と言われて大爆笑。

「それは勘弁してください 笑」と返しましたが、本当は赤ちゃんのようにヨダレもオナラも排泄物も涙も全て
垂れ流してしまっていいんですけどね。

そういえば以前「オシッコが出そうです!」と言った方もいましたっけ 笑


~Rubin's work Xより~

◆ケン・ウィルバーが何かの本で、禅寺で瞑想中に「誰かのオナラの音も静けさの中ただ聞いていた」
みたいなことを言ってたな 笑
聞くほうは無心でも、出すほうはなかなか無心じゃいられないわね 笑

◆バカリズムが「すべらない話」で、
「試しに部屋でズボン履いたままオシッコしてみたら、禁じられていた何かが解放され
スッキリしたが、無意識のストッパーが外れて毎晩オネショをするようになってしまった」
と言っていた。

◆私は小学生になってもオネショしていたが、特に罪悪感もなかった。
ある日、親戚宅でオネショして叔母に「オシッコじゃないよね、汗かいたんだよね」
と笑いながら言われ急に恥ずかしくなり、それ以来ピタッと止まった。
それと同時に、大らかな自他未分の世界も閉ざされてしまった。

◆「垂れ流し」は、動物的本能とは逆行している。
野生動物は敵に襲われないよう、排泄をコントロールする。
自他未分の私は「生き延びる」という本能の圧力を知らなかった。
その圧力は、皮肉にも「人間らしさ」を獲得するための通過儀礼なのだ。

◆「思考を垂れ流す」ワークで参加者さんがモジモジしてたので
「ここに来てる時点ですでに狂ってるんだから、恥ずかしいことなんてひとつもないですよ」
と言ったら失笑してました 笑

◆ワークの場では「バカな姿を見られたくない」といったエゴの思惑は逆に恥ずかしいものとなります。
瞑想とはまず自身をすべてさらけ出すことです。
とはいえそれは、意図的に自身を垂れ流して他人に押し付けることではありません。
エゴの垂れ流しと無心のバカを混同してはいけません。

◆ただ、対象のないひとつの自分自身であるところに素直になればよいということです。
それは自身を信頼するということでもあります。
ワークでは遠慮せず安心してバカになっていただければと思います。


【ハート覚醒と余剰エネルギー】

今回のワークの参加者さんで、もともと非常に感度が鋭くハートの境界点の感覚もすぐに理解された方
がいらっしゃるのですが、この方の場合もヴァイブレーションに触れた瞬間にビクッと現象側の肉体の反応
として外側にエネルギーを発散させてしまうタイプでした。

これはこれで構わないのですが、意識的な行を意図するのであれば、まず身体の構造をそのままその場
に「置いておく」感覚(押し引きの能動受動のバランスの真ん中に「置いておく」)を習得し、エネルギーの
内圧の中心の空に集中し切ることです。

そうすれば、中心の空にあるままヴァイブレーションに流されず、触れた瞬間の爆発的なエネルギーそれ
自体をハートの覚醒にダイレクトに活用できるのです。

(注:空自体は感知できません。ハートのヴァイブレーションは常に現象として「触れ出てしまったもの」
だから振動しているのです)


~Rubin's work Xより~

◆【「ハラ=存在=わたし」の消失点と現象の起点が一致して響くとき 】
次に、上記の丹田の感覚を確かめてある程度集中力が高まってきたら、今度は丹田の前に割り箸を
立てて持ってもらい、軽く持ち上げてコトンと垂直に床に落とし、その音の振動が直接丹田に響くことを
感じていただきました。

◆参加者さんの一人は、箸の先が「コトン」と鳴ったと同時に「びくっ」と小動物のようにハラの中から
身震いして意識が頭に昇って目を見開きました。
この場合、音の瞬間自体はハラでとらえているのですが、認識は肉体の皮膚と筋膜と内臓のレベル
にとどまっています。

◆(動物はこの感覚で危険を察知し瞬間的に反応します)
身震いしてはいけないわけではなく、身震いの奥底の中心の空に完全に意識が落ちていれば、反応
より前に空そのものの真空に吸い込まれ続けて身震いの振動を「自分のもの」としてではなく淡々と
見送ることができるようになります。

◆このとき注意が必要なのは意識を意図的に奥底に留めておいて生体的な反応が出ないように
するのは違うということです。
いわゆる「無執着」を勘違いして意図的に無反応になろうとすれば意識レベルはその地点で固まって
動かなくなり、固まっていること自体にも気づけなくなります。

コトン
実際は木の床でやります。


ただし、肉体の動きを出さないように意図的に止めてはなりません。

肉体が見かけ上止まって見えるのは、あくまでもバランスの拮抗が取れているからであり、止めている
わけではないのです。

もし完全に一点に集中し切れば、中心から爆発するヴァイブレーションはその瞬間に揮発しますが、100%
の集中は人間には不可能なので必ず余剰エネルギーが漏れ出します。


【光の粒子と振動】

しかし、身体をその場に「置いて」おけるのであれば、余剰エネルギーは構造の輪郭を通り抜けて微細な
粒子のように放出されるのです。

この感覚を知る人は、全身のバランスが引き合い座禅がカチッとハマッている人を外側から見た時、身体
の輪郭の周囲に粒子が光のように輝いているのが見えるでしょう。

(注:あくまでもこの現象は構造が整った「結果」であり能力開発などの「目的」ではありません)


これを見るのはそれほど難しいことではありません。

昨日のワークでも、自身の手を拮抗バランスの中心に置いておき、内部の目で手全体を眺めてもらうと、
指の輪郭から光の粒子が放出されているのを皆さんすぐに観察することができました。


ちなみに、欠伸をしながら腕を伸ばし、伸びきった最後の最後にビーンと痺れるような感覚の消える瞬間
を観察すると、微細なヴァイブレーションを発見しますが、先の粒子の放出を触覚で感知するならば、これ
と同じような振動を感じられるでしょう。

輪ゴム
ワークで大活躍の輪ゴム。
物理的な拮抗バランスを利用して、どの瞬間にもある中心の空を探っていきます。



関連記事
⇒ #ハートのヴァイブレーション増幅術 【10/14(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


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#「慈悲の瞑想」と祈りの対象 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その1】 

2024/03/18

3/15(土)東京にてワーク開催しました。

ワーク会場へ
ワーク会場への道すがら


【物理次元の覚醒】

今回のワークは、「対象のない祈り」とは「自分自身が空としてある時ただそこに在るだけで全てを包括している」
ということを具体的に体得していただく回となりました。

最初に、私たちが物理的な肉体として宇宙と連動していることのデモとして、地球の自転の方向を向いて座ってもらい
秒速400mで回転していることをひとまず頭で知っていただきました。


会場の窓の外に川があるのですが、川幅が200mぐらいなので「(日本の緯度だと)0.5秒であの対岸まで移動している
んだよ」と言うと「すごい速さですね」という方と「そんなものですか」という方がいらっしゃいました。

(余談ですが、人間の認識は0.1~0.2秒のコマ割りで、その間の空白は前後の編集でフィルムのように繋いでいます。
だから、私たちはある意味0.2秒の空白の間に、空間まるごと川の真ん中だった位置まで移動した後、「今ここ」を
断続的に呼び起こしているようなものなのです)


速度の感じ方は人それぞれですが、物理的な次元の私たちは現時点で解明されているかぎりでは、銀河系の中心
(いて座A=ブラックホール?)を軸に太陽系の公転⇒地球の公転⇒地球の自転とともに回転しています。

よって、肉体としての私たちが重力に従って地球上に立っているということは、全天とともに回転していることであり、
実感があろうがなかろうがシンプルに宇宙と一体化しているのです。
(ワークではさらに具体的に物理と祈りの型がどのように関係しているかをお伝えしました⇒後述参照)


物理的な肉体の構造において、「この私」が体軸に消えているときには、ただ宇宙の運行だけがあり、物理次元の
覚醒という意味ではそれだけで完結しているのです。

体軸に消えた「私」には対象物(という認識)がありませんし「私」という認識も生まれません。

だから、ずっとそこに居さえすればただ宇宙を宇宙と知らぬまま流れていくのみです。


しかし、私たちは常に軸からズレ出し、私と相対する(宇宙という)対象物を(自ら)創り出します。


【「慈悲の瞑想」と祈りの対象】

では、上記をふまえて「対象のない祈り」について述べていきます。

今回は、ヴィパッサナー瞑想に取り組まれている方が複数いらっしゃったので「慈悲の瞑想」をモデルに取り上げ
つつ「祈り」の対象と型についてお伝えしました。


「慈悲の瞑想」はヴィパッサナー瞑想では必ず瞑想の一番はじめに行うものであり、サマタ力が高まった状態で
行えばこれだけでもエゴ感覚が劇的に抑えられ心身が微粒子のように軽くなるものです。

私の幸せと親しい人の幸せと生きとし生けるものの幸せと嫌いな人の幸せ、全てを等価に全霊で願うことはエゴ
のない状態だからです。

(本来、ヴィパッサナーでは身体は徹頭徹尾妄想との位置づけであるため、型を持ち出しての説明は方法論としては
邪道となります。私自身もどこかの宗派に属しているわけではないため、ここではあくまでもモデルとして扱っています。
とはいえ「祈り」による恩寵が発動せず行き詰っている瞑想者にとってはヒントとなるでしょう)


そこで、参加者さんに「私/親しい人/生きとし生けるもの/嫌いな人/それぞれの幸せを願う(祈る)ときの意識の
微妙な違いを感じられますか?」と質問しました。

すると「唱えているとフワ~ッと祈り(慈悲)に入りはしても明確な違いは意識していませんでした」との答えでした。

この場合の「明確な違いがない」ことは「対象が等価である」こととは異なり、対象がぼんやりとした自他未分の状態で、
意識がサマタ状態の手前で気絶してしまっているのです。


【祈りと自分の乖離】

盲点なのは、慈悲の瞑想というのは古来より受け継がれた霊脈により、瞑想者が無自覚であっても唱えていれば
マントラ的な効力が自動的に発動してしまうということです。

これは、例えば密教の「印」の型の意味を体感的に知らずとも効力が発動してしまうことにも似ています。

自身の扱えるエネルギー量を超えていることに気づかずに型を用いることは魔と契約するようなものです。


慈悲の瞑想の場合は性質上そこまで危険性はありませんが、無自覚に発動したエネルギーに浸ってしまうと、
ブラックボックスの結果としてアウトプットされた効果だけに頼り続け、祈りと自分が乖離しつづけます。

このとき、エゴは軽減したのではなく、エネルギーへの酩酊によって背後に隠されたようなものだからです。


マントラ化した言葉に酔って背後に隠れたエゴにとっては「嫌いな人」に対して祈ることにも何の抵抗もないでしょう。

ここが問題で、消えたのではなく隠れたエゴは、「嫌いな人」への抵抗感を直視し本当の意味で自分を見つめ自他
の差別を突破するチャンスを逃し続けてしまいます。


その極端な例として、才能があり素晴らしい体験を得た修行者であっても非常にエゴイスティックで自身の修行の
邪魔をする者には舌打ちをする、といったケースも見てきました。(当ワークの参加者さんにはそんな方はいません)

これでは、先に述べた「私/親しい人/生きとし生けるもの/嫌いな人/それぞれの幸せを願う(祈る)ときの意識の微妙
な違いを感じられますか?」という質問の意味すらわからないでしょう。


また、そこまで酷くなくても、例えば無自覚に「嫌いな人」に祈ろうとするとき「修行者は慈悲深くなくてはならず、
心理的に他者を嫌いであることは許されない」といった短絡的な精神論に偏ることも起こります。


【祈りの対象の距離と型の関係】

「慈悲の瞑想」には合掌のような型はありませんが、ここではそれぞれの「祈りの対象」を型と照らし合わせて
みていきます。 (ワークでは実際に型に為り、感覚を具体的にみていきました)


先にヒントをいうと「対象」によって前述の「軸に消えた(宇宙と一体化した)私」との距離が異なり、それぞれの
距離に見合う型が自然発生的に生まれます。


まず「嫌いな人」に対して祈るとき、自身のエゴを隠さず直視するならば、最初は抵抗感があるでしょう。

この抵抗感が、嫌いな人という対象を「私」から分離させ、さらに遠ざけようとします。

遠ざかった「嫌いな人」を対象として祈るとき、はじめは体が身構えて引こうとします。


このとき合掌(詳しい説明は割愛しますが、合掌の型は宇宙全天と触れているハートの源から自然に起こる
ような構造となっています)するとしたら、その手は身体のどこに置かれるかを観察しましょう。

そのまま「嫌い」という反応を直視し(気づき)祈り続けると、やがて身構えていた体が緩み、対象との距離が
少しずつ「私」に近づきます。

再び、このときの合掌の型と内部感覚がどのように変化したかを観察しましょう。


私との距離がより近づいたのが「親しい人」という対象です。

「親しい人」へ向けて祈るとき、合掌の型はどのようにあるか・頭の位置はどこにあるかを心理的・物理的に
観察しましょう。


次の「生きとし生けるもの」という対象には生物である「自分」も含まれますが、そこにはまだ主客の分離
があります。

全ての生物を対象にするとき、物理的にも心理的にも全天を抱くような意識が必要になってきますが、その感覚
から自然に起こる型はどのようなものになるか観察してみましょう。

人によっては合掌ではなく手を天に向かって開きたくなってくることもあるでしょう。
(型が先にあるのではなく、意識が型を必然で生むのです)


最後に、この私自身の幸せを祈るとき、どのような型と感覚になるでしょうか?

(実際の慈悲の瞑想ではまず最初に「私」の幸せを祈り、上記の順序とは異なります。その理由は後述します)

このときの「私」は未だ、わずかに私自身とのズレがあり対象化されています。


この私に対して祈るとき、どのようなヴァイブレーションが起こっているでしょうか?

このとき私は、合掌という型をとる必然性があるでしょうか?

合掌を組む肉体の手を「私自身」に直接向けることは可能でしょうか?


ここにおいて型の(必然の)放棄が起こったとき、私は私自身の軸に一致し「対象のない祈り」となるのです。


【祈りの難易度と自覚】

それでは、なぜ慈悲の瞑想では「私⇒親しい人⇒生きとし生けるもの⇒嫌いな人」の順番で祈るのでしょうか?

ある解説では「その順番のほうが抵抗感がなく容易だからだ」といいます。

しかし、難易度で言えば「私」への祈りが一番難しいのです。


エゴは私の幸せを利己的に祈ることはできますが、本当に難しいのは、私が私自身として祈ることです。

ある意味、それが出来ればすでに覚醒といえます。

これらすべての対象との距離に自覚的な祈りが捧げられたとき、距離のない「私」の内にはすべての対象物へ
の祈りが包括されていたことを知るでしょう。


先に「物理的な宇宙との一体化に消えているとき、それは物理次元においてはある意味覚醒である」と述べました。

ただ、その次元においての「私」は、あくまでも物理でした。

が、祈りによって全ての対象物との距離が包括されて在ることの「自覚」が生じた「私」は、物理を超えたものに
なったのです。

ここにおいてはじめて「慈悲の瞑想」の「慈悲」が私自身のものとして理解されるでしょう。


【命を差し出す祈り】

ワークではこの後、頭を垂れて祈る型と頭を天に向けて祈る型、それぞれが何を意味しているのかをお伝えしました。


対象物は神でも仏でも何でもよいですが、頭を垂れるときには人間の急所である頚椎を差し出すつもりで垂れます。
(ワークでは、実際に急所にカッターを近づけてみます。本当は真剣がいいんですが笑)

また、天に向けて祈るときには、急所である喉元を差し出すつもりで上へ仰ぎます。

なぜなら、祈りというのは古代の生贄にも通じますが、自分自身の命を差し出すことだからです。

「死んでもいい」という覚悟で祈るのです。


ここで急所の感覚を保ちつつ、頭を垂れた状態から頭をゆっくり天に向かって上げていってみましょう。

すると、どの瞬間の頭の位置にもそれぞれの祈りがあることに気づくでしょう。


命を差し出すとき、肉体があれば急所を差し出しますが、軸に消えて肉体がない状態(=死)のときには、
命が命の中心として差し出されます。

軸に消えているときの頭は構造上、頚椎が立って目は前を向いています。

3次元の肉体として直立し、全ての祈りを包括するとき、私たちはただそこに在るだけで慈悲であり祈りである
ということです。


私はよく「私自身を祈りとして体現するとき、赤ちゃんのようにポカンとして無垢であってください」と言うのですが、
「ポカン」は曖昧にぼんやり微睡んでいるのではないのです。

完全に白紙でありながら、命を差し出しているのです。


祈りは瞑想の全てに通底しています。

それは、崖っぷちギリギリのところに真っさらな白紙で立つようなものなのです。


⇒ #ハート覚醒と余剰エネルギー 【3/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~ その2】 へ続きます。


花と手


関連記事
⇒ #ハラの見性体験 #純粋な意志 【2/24(土) 東京ワーク ~所感と解説~】


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