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【覚醒からのつぶやき 7】       

2020/10/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


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**************

◆いかなるものにも定義されない自分自身であろう。

◆自分も他人も定義しないとき、子供の頃見ていた美しい世界が帰ってくる。

◆思考という計算機は使ってよいが、計算高い思考にならないようにする。

◆目を開けて机に指を置く。
目を開けて足に指を置く。
目を開けて顔に指を置く。
目を閉じて机に指を置く。
目を閉じて足に指を置く。
目を閉じて顔に指を置く。
そこに何がありますか?

◆ジャンプするときには地面を踏み込んでから反発で飛び上がる。
その、飛び上がる直前の、足の裏が未だ地面に付いているときの
感覚で立禅や座禅しよう。
ただし飛び上がってしまうと気だけ昇って重力で落ちるだけなので、
身体は地面にぴったり付けておく。
これがどこにも居座らない状態だ。

◆現実世界のほうが夢なので、ある意味リアリティの整合性の結合が緩いんですよね。
だから実際、この世界は不条理だらけだし何だって起こりうる。
逆に、覚醒した世界は緩みがありません。

◆世界は不条理だからこそ奇跡も起こるが、現象として顕れた奇跡の神秘性に
惑わされるのではなく、何でも起こりうる危うい夢の構造の方を見抜こう。
奇跡はそのためにある。

◆全員が良い人になっても、全員が悪い人になっても、世界は消える。
良い人が悪い人を創り、悪い人が良い人を創る。
そうやって持ちつ持たれつ協力して世界を保っている。
だが、世界創造のバランスゲームは良い人と悪い人というバランス以外でも保ちうる。
そろそろ気づこう。

◆世界を保たなければいけない義務も義理もない。
消しても消しても次々に顕れるから。
今この瞬間も、生まれた。
だからといって、使い捨てにしてると、劣化版で再生することは肝に命じておく。

◆正義心は心身を固める。

◆意識の風通しがよければ心地良いが、吹き溜まりができても慌てず
次の風向きを待つ。

◆百年の気絶も、一晩の気絶も、一瞬の気絶も、同じもの。

◆思考を見張ると気づきが凶器になる。

◆気づきは綿毛で触れるよりも軽くていい。

◆見たくない部分は気づきが落ちても気づかずノーカウントにしている。
ノーカウントの時間は、深く沈殿して闇となる。

◆カッコよくやろうとすると苦しくなる。
いま在る生を、愚直に全うするだけ。
それが結果としてカッコよさになる。

◆何かを信じるたびに目に鱗がくっつく。

◆私がある幸せはいつか消えるが、私がない幸せはいつもある。

◆幸せは自家発電しよう。

◆何もつかまなくていいとき、幸せは理由なくお腹の底からふつふつ
と湧き上がってくる。

◆ふつふつと湧いてくる幸せの種を見つけたら、爆発させようと欲張らないで、
花粉のように細かく放出させて静かに愛でる。

◆幸せの花粉は刻一刻と色合いを変えていくが、このエネルギーに
名前をつけたとたん、限定された幸せに留まる。

◆すべてのエネルギーがひとつのところにあって、刻一刻変化しつつ世界
に流れ込んでくる。
その中の限定されたエネルギーだけをつかもうとすれば、限定された存在に留まる。
私を通りすぎていくエネルギーの変化そのものを愛でよう。

◆「○○のエネルギー」と名付けたものへの信仰は、光のスペクトルの一色
だけの世界に限定するようなものだ。
世界の本質は境界のないすべてのスペクトルの変化し続けるうねりのダイナミズムだ。

◆とはいえ、一つ一つの色を知らなければ変化に気づけない。
現象世界はそのための学びの場だ。
一つのエネルギーを深く味わえば、他のエネルギーの味わい方も理解する。
味わい方を知ったら、味わう自分と個別の境界を手放して、変化そのものになる。

◆エネルギー酔いは甘美だが覚醒そのものではない。

◆酔っ払いは「酔ってない」と言い張るが、本当に酔いの中心にいられるならば
酔ってもいい。
酔いを物のように完全にそこに置いて置けるなら。
でも、それならもう、自分が酔う必要はなくなる。
この世界のすべての酔いは、忘却の希求だ。

◆気づきの距離がなくなったとき、世界はまるごとわたしの生命活動となる。

◆気づきの距離を自分でなくそうとすることは、目の前のコップを念力で
自分にくっつけようとするぐらいナンセンスだ。

◆どんな人でも、その人の良いところを見つけて愛でよう。
まったく見つからなくても、そのユニークさを愛でよう。
そうするうちに、自分自身のまだ気づかない良いところが見つかる。
そこに気づいて、生きる力を取り戻そう。

◆自己を離れることは生きる活力がなくなることではない。
活力そのものになるのだ。

◆因果の外には出られない。 絶対に。
だから、因と果の重ね合わせの中心に消えるしかない。

◆わたしたちは本来、一切の制限がなく自由だが、無制限を権利に掲げれば、
限定された自由に留まる。

◆人が覚醒するのではなく、その人の目を通して覚醒が覚醒する。
そのときその人の目は、覚醒と世界のあいだの透明な回転扉になる。
その人がいるかいないかは、言葉の遊びだ。

◆「いる」と「いない」は言葉の上では真逆だが、「いる状態」と「いない状態」
のあいだには無限のグラデーションがある。
どこからが「いる」でどこからが「いない」のかは、その人の次元の主観的な
感覚にすぎない。
確かなのは、覚醒においては、いるとかいないとかを考える隙は一切ないということ。

◆そもそも「いる」と「いない」は3次元の感覚であって、わたしたちの想像もつかない
認識形態においては、例えていうならば「いるいない」とか「いないいない」とか
「いいるない」とか「ないいいる」とか理解不能な別の言葉が存在するのだ。

◆覚醒は言葉で表現できないというが、例えば「ぴぽぽ」という新しい言葉が
覚醒状態を「完璧に」言い表す言葉でそれが世界中に広まるならば、
覚醒は瞬く間に伝播しうる。
その言葉が今のところ見つからないのは、言葉の構造自体が二元性に由来しているからだ。

◆「ばかうけ」の形にそっくりなUFOがでてきて話題になった映画「メッセージ」では、
認識形態の異なる生命体と言語学者が言葉の解読によって意思の疎通を図ろうとする。
この生命体の時間と言葉は地球とは異なる円環構造だった。
その理解の過程で時空の概念の転換が起こって世界が救われた話。

◆母親が東北生まれの東京育ちで、東北弁はまったく話さないが、なぜか
「いずい」という言葉だけはたまに使う。 「しっくりこない微妙にむずむずする違和感」
のような意味らしいのだが、その体感をうまく言い表す標準語がないからだという。

◆その言葉を何度か聞くうちになんとなく「いずい」体感がつかめてきた。
このように、知らない言葉によって今まで埋もれていた感覚が掘り起こされることがある。
覚醒もそのように、ただ、それを体感するための言葉が発見されずに埋もれているだけなのだ。

◆なんらかの体験で感動があふれ出てきたら、外側の感情にもっていかずに、
感動の中心のエネルギーを細かく小さくどこまでも凝縮していってハートの奥の
真空に吸い込ませる。
そうすると隠れていたポータルが見つかる。
いつまでも感動屋のままだと肉体の波動にとどまる。  

◆その際、肉体の反応である涙や鼻水や嗚咽は勝手に出るにまかせておく。
感動する自分に感動しない。
それらはそこに置いておいて、凝縮されたエネルギーを中心に吸い込ませ続ける。
このとき、肉体側にひっぱられる拮抗でGがかかるように細かく震えだしても、それも置いておく。  

◆目もハートもハラも、現象と思考と感情のごちゃごちゃの癒着をいったん整理する。
これは本当に必要。
ごちゃごちゃの認識でごちゃごちゃのものを見ても、ごちゃごちゃの気づきのままなのだ。  

◆本気でサマタ力を高めたければ、いったん瞑想から離れて、生まれてから今までの
すべての感情の未消化物を記憶のかぎり虱つぶしに追っていき、ひとつひとつ具体的に
納得して昇華させていく。

◆何をもって納得とするかは、ひとつひとつの体験によって違うが、リアルにその
当時の感情になりきって、当時見えなかった感情の奥の本心に気づいてあげよう。
もちろん、すべての記憶を追えるわけではないが、徹底的にやるとある段階で
「もうこれでやりきった」という時がくる。 

◆すると、瞑想における反応の出かたや手放し方の質がまったく変わったことに気づく。
そこではじめてすべての反応を置いておくことができ、集中が勝手に起こるようになる。
ただし、過去の自分を癒す感傷的な感覚に夢中になると、目的を忘れて延々と自分探し
をはじめるので注意する。  

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【覚醒からのつぶやき 6】       

2020/10/10

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


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◆目覚めている人がいるのではなく、目覚めている目だけがある。  

◆消える中心を、探さない先どりしない後追いしないつかまない  

◆「この私が消えなければ」と考えている最中にも、わたしはいないのです。
だから問題ない。  

◆世界のすべては始まっても終わってもいないものの再現です。  

◆認識のタイムラグを時間で修正しようとする瞑想は一如の完成を見ない。  

◆世界に包まれているのではなく、中心が世界を包んでいる。  

◆自分だと思っていた中心を外せば、あらゆるものが瞬間瞬間に中心となる。  

◆いかなる中心も固定されていない。
中心が移動していくのではなく、移動の只中で中心が無限に顕れては消えていく。  

◆捉えがたい曖昧なものや不安定なものにも中心がある。  

◆ミクロからマクロまですべてに中心があって、それらのひとつひとつは
バラバラなのに距離がない。  

◆自分の中心を外すのが怖ければ、身体の軸を外してシミュレーションしてみよう。
ただし、あくまでもシミュレーションなので骨格と重力に囚われているかぎりは
完全に外れることはない。  

◆軸を外そうという想いが軸にならないように。  

◆自分で自分を見ているってことは、すべてのものが見てくれてることなんだから、
それで充分じゃないですか。  

◆覚醒うんぬんよりも、各自が謙虚に責任もって自分自身に気づいてくれてる
世界って優しくて心の底から安心できる。
その心構えさえあれば、失敗しても未熟でも何でも許しあえる。  

◆今日も人知れず気づいていてくれてありがとう。  

◆瞬間瞬間というけれど、瞬間は相対的で主観的なものなので
「瞬間に気づこう」と意図したらダメなのです。
瞬間は定力に応じて決定されますが、定力が高ければ高いで、
瞬間は拡大され引き延ばされていきます。  

◆瞬間と瞬間の間はない。
それは時間の直線で区切られるものではないからだ。

◆便宜上「瞬間」と呼ぶところに在るときには、時間を前に進むのではなく、
中心に触れたと思ったらまた次の中心が中心自体から吸いついてくる、
といった感覚で入れ子になった中心が果てしなく顕われては消えていく。  

◆認識の極限を見切るとき、気づきはギリギリのところまで「並行に」
入り続けるが、最終的に一如を悟るには気づきは「垂直に」落ちて
中心に消えなければならない。  

◆降りてきた智慧の凄さに興奮しないで、しばらく寝かせておこう。
そうやって熟成させておくと、本当に必要なときに、必要な智慧が発動する。  

◆智慧の切り売りは自身をすり減らす。  

◆瞬間は前後ではなく、同心球状に断たれる。ここにつまづくと、
気づきは並行線をたどる。  

◆瞑想は「意図しない」というたったひとつのことだけを徹底すればよい。
ほんとうに、これだけなのだ。
意図しないことが続かなくても、続かない過程自体に、自身を知るための
数限りないヒントと恩寵が散りばめられている。  

◆「意図しない」ことは「意図を止める」ことではない。
この世界のすべてのものは意図が創っている。
純粋は意図はエネルギーだ。
意図に自分という想いがくっつかなければ私の苦は発生しない。
瞑想は、意図と自分との癒着を浮上させ見切っていくことなのだ。  

◆この世界では、中心とバランスの明滅だけが、永遠に起こりつづける。  

◆オンとオフの明滅は二元に限定された意識が生み出す。
神そのものは明滅以前にある。  

◆認識形態によっては、世界は単純な生滅の反復ではない。
生滅だけで世界を説明するのは地球の方便にすぎない。
生滅は時間ありきだからだ。  

◆意図と自身の癒着が剥がれてくると、隠れていた神秘が次々と
勝手に顕われてくるようになる。
神秘はすでにそこにあるもの。
神秘を追わなければ、神秘のほうからこちらを見つけてくれる。 

◆学者や芸術家は、夢現で閃いたアイディアが逃げないうちに枕元のメモに記す。
智慧の閃きは一瞬なので粗い意識では見切れない。
頭でメモをとろうとすると間に合わないのだ。
それを受け取れる精妙な意識と身体がないと記録できない。
人は、各々の意識の速度に合った智慧しか認識できないのだ。 

◆智慧はハラに落ちなければ自身を救えない。
だから、肉体の世界でハラをつくる。  

◆完全な無為の認識においては教える人も教えられる人もいない。
だが、ここでも思い込みの罠がある。
見かけ上、教える人と教えられる人がいたとしても、それ自体が無為なのだ。

◆瞑想で集中できなくても、自分の好きなことなら集中できる。
この世界は、好きなことをやって集中力を身につける場ともいえる。
この世界への集中から執着が抜ければ即、瞑想になる。
極端な話、パチンコの集中だって依存がなければ覚醒に触れうる。

◆執着=悪というのは二元的発想だ。 短絡的な価値観に囚われないようにしよう。
ただ単に、執着は明晰さを奪い、苦しみを呼び起こすという事実があるだけ。
それが嫌なら執着を離れるし、嫌でなければ好きなだけ続けていい。
誰も咎めはしない。

◆激辛のものを食べると辛さに悶絶する。
これは身体が危険信号を発しているからだが、危険信号に意識をあわせず
衝撃の中心を見てみると、辛さに触れていないすっと醒めた何もないところ
があるのを発見する。
苦行に何か意味があるとすれば、ここだろう。

◆瞑想は、自我の生命維持のストッパーを外せるかどうかが鍵になる。
自己同一性が崩れるのは自我にとって恐怖でしかないので危険信号を発し、
別の対象に意識をそらそうとあの手この手で仕掛けてくる。
でも、本当は大丈夫なのだ。 ストッパーを外しても死にはしない。
見かけ上の自分が死ぬだけだ。

◆もしまだ怖ければ、いきなりストッパーを外さず、身の回りのものの
「概念の死」を確かめながらゆっくり進んでいけばいい。

◆熱湯や火に触れてしまったときなども、生命の危険信号の前に一瞬、
空白があるのを見出す。
事故等で痛みも感じずに景色がスローモーションになるのは、この空白が
引き延ばされたものだ。
そこからわたしたちは、この肉体を維持する機能の以前に在るもの、
ということができる。
ここを見切ろう。

◆すべての瞬間がヒントであり答えである有り難い世界です。

◆この私が本体かコピーかというのは自己同一性の記憶の問題がすべて。
死んで生まれ変わる時は記憶が消える。
今この瞬間は、記憶を持った死からの再生。
一瞬一瞬、死んでいる。
でも本当は記憶も継続しているのではなく、一瞬一瞬再生されている。 

◆直列的時間の認識が瞬間につぐ瞬間の死と再生に追いついていないから
自己同一性を保てるのです。 

◆生と死はチャンネルの切り替わりです。
チャンネルを切り替えて、また同じチャンネルを見ることが、自分という同一性。
ただしチャンネルを変えているのは自分ではありません。

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【覚醒からのつぶやき 5】              

2020/10/02

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


サンスベリア

**************

◆覚醒は、どの次元にも触れつつ、どの次元にも属さない。  

◆内と外の定義が、終わりのない哲学を生む。
覚醒は哲学ではない。  

◆終わらせようという意図が、始まりの種となる。
この直列的思考を脱しよう。  

◆完成の途上で、宙ぶらりんのまま悟ってしまおう。
それしか、ない。  

◆義理がたく几帳面な人ほど、後片付けしにここに戻ってきてしまう。
そのラスボスが弥勒だ。  

◆とっ散らかったことに後ろ髪引かれない人はサクっと飛んでいく。  

◆そう考えたら、ここに残ってしまうわたしたちって愛すべき存在じゃないですか?  

◆いかなる知識をもっても心のざわつきが消えないなら、チャンスだ。  

◆生きていても死んでいても罰する者も罰せられる者もいない。
罪悪感も正義感も、ただ自らの恐れが生み出す幻想だ。
それらは他者への恐れではなく、逆に、たったひとりで自立してある現実を直視
できない恐れからくる。
他者の目を設定しなければ存在できないと思い込んでいるのだ。 

◆アダムとイヴが人間になるには、もう一人の視線が必要だった。
それが蛇の狙いだった。
しかし、この物語自体も、恐れが生み出した幻想だ。
物語を存在の根拠にすれば、恐れが恐れを支配し続ける。  

◆頭蓋骨という独房に閉じ込められた無数の視線が互いの脱走を監視しあう世界は、
異常というほかない。  

◆視線の分化自体は問題なかった。
多様性においてむしろメリットのほうが多いはずだった。
自分自身の隅々まで探索できて楽しかった。
しかし、いつしか源を忘れてしまって、楽しかった分化が分離の苦しみにすり替わってしまった。  

◆分離の苦しみすら忘れた不感症の人間は、ただの肉の塊だ。
苦しみを感じられるのならば、救いがある。  

◆苦しみだけを利己的に取り除こうとすれば、幻想の快楽と引き換えに、
永遠に閉じた輪の中のエネルギー源として飼われる存在となる。
それが今、現実となりつつある。
苦しみを感じられるうちはまだ間に合う。  

◆西欧人がアジア人の見分けがつかないように、宇宙人が地球人を見たら、
姿形も言葉も思考も全員同じで見分けがつかないだろう。
見分けのつかない違いで争っていることに笑い出すか、一片の興味すら持たないにちがいない。  

◆「苦であるこの世」も幻想です。
だから、苦の外に脱出するわけではないのです。

◆瞑想ですべてがバラバラに崩壊する現場とすべてがバラバラに発生する
現場を見極めても、わずかに離れた位置に展開していれば観察者が残っている。
観察者の位置がわずかに「引いて」残っているからこそ、正気が保てるギリギリの
ところで無常を悟るわけだが、この地点はまだ半立体的な覚醒だ。  

◆ここでいったん認識の癒着を平面からバリバリと引きはがしてからもう一度現象
に戻って同じことを立体で悟る。
観察者が現象の中心と一致して消えたとき、崩壊する自己も発生する自己もなくなって
気づきの分離が完全に落ちる。
ここにおいて、起こることが起こっているということに真の意味で触れる。 

◆意識の立体感覚は自身の内部で具体的につくりたい。
奥行きは自身の中に作りたいのだ。
そのために肉体の目から内部の目へのシフトが必要なのだ。
そうすれば、目の前の空間に多次元立体モデルを創らなくても、目に映ったものが即、
多次元の回転の動的な影の断片にすぎないことがわかる。  

◆立体は、上位次元の動的な影である。
止まって見えるものも、高速に回転しているものから切り取られた立体的な影だ。  

◆地球という球体もまた、上位次元で全方向に同時に回転する、無限に重なった軌跡
の動的な影である。
(上位次元では全方向=360°ではないので3次元の単純な軸の回転と同じではない)  

◆動的な影である球体はひとつではなく「見かけ上」上位次元の回転とともに
無数に分岐する。(上位次元では実際は分岐していない)
この分岐を、3次元ではパラレルワールドと呼んでいる。
上位次元の軸は平面、さらに上位では立体なので、3次元からみれば角度
によって影は均一ではなく伸び縮みする。  

◆3次元の現象が顕われては消えていくように見えるのは、上位次元の
伸び縮みする動的な影を瞬間瞬間、断続的に切り取って直列に並べているからである。  

◆3次元の瞑想においては、古典的な洞窟のアナロジーの「回転しない影」を
見切るところからはじめる。
まずは肉体の目と癒着した1対1に限定された認識を引きはがす必要があるからだ。
平面の影の極限を見切るとはじめて、立体の影の手触りが浮き上がってくる。  

◆平面の影はスクリーンに映るが、立体の影は360°のVR空間に映る。
ここから、対象としての現象の気づきではなく、現象それ自体からの気づきがはじまる。
ただし、影が影であることは、どの次元においても変わらない。
だから、どの次元からも覚醒に触れられるし、すべての次元を知る必要もない。  

◆3次元上で組み立てられた多次元立体モデルは、上位次元の回転する軌跡から
均一な時間差と角度で頂点と交点を抽出して辺と辺でつなぎ合わせたものだ。
3次元上に組み立てられた立体は、いかに多層構造であっても可視化できる時点で
3次元の視点を固定する。  

◆動的な影の本体を直観できなければ、切り取られた影の立体だけを見て、
回転のエネルギーを未知なる力と崇めるレベルで認識が気絶する。  

◆「今」とは衝撃である。今、今、今、の吸いついてくる炸裂のインパクトが強烈
すぎて前後は勝手に切れてしまうのだ。
時間がどうとか空間がどうとか自分がどうとか考えている余地なんてない。
今以外が入り込む隙間がないとしか言いようがない。  

◆それを体験すると、時間というのは「今」の物理的衝撃から肉体を守るために
引き伸ばされ薄められたもの、という感覚が出てくる。
肉体の波動はこの次元にしか耐えられない。  

◆肉体は「今」のマグマから冷え固まって遅れて出てきたもの、というのが率直な印象だ。  

◆肉体にとっての「今」そのものは寛ぎではなくむしろ痛みに近い。
痛みがあると苦痛が意識を占有するように、今の衝撃が意識のすべてを占有する。
今の痛みはエクスタシーの中心で耐えきれず死にたいと願うようなエネルギーなのだ。  

◆これもシステムとしては途上にすぎず、おそらく、この原始的な「今」の感触と肉体を
同期させて使うエソテリックな方法もあるだろうが、あまりそこには興味がない。  

◆子供の頃に夢中になったオモチャを見ると、懐かしさと温かさに心が解けこそすれ、
今それを取り上げられても泣き叫んだりはしない。
現象世界における無執着とはそのような感覚だ。
家族も、人も、モノも、国も、世界も、自分自身も、そのように見るようになる。  

◆股関節から下が足だと思わず、腸腰筋の一番上から足だと思って使うと
動きの質があがるように、眼球を目だと思わず、松果体の裏からが目で眼球は
変換レンズだと思って世界を見よう。  

◆「歩く」ことは肉体の足から起こっているわけではない。
足は結果として動きだすのであって、歩きの最初の最初をどこまでもたどっていくと、
最初の意図の発動に出会う。
すべての動きの意図がどこから生まれてくるのか、本気で見る決意をすれば、
一瞬にして源にたどりつく。  

◆承認欲求を隠している人ほど「覚醒して人々を救う」という願いを掲げて修行に励む。
それ自体は良くも悪くもないが、限定された願いは限定された結果しか生まない。
覚醒した結果、どのように生きるかは一切限定されていない。
表に顕われる覚者はそのようにプログラムされた一部の人にすぎない。  

◆皮肉なことに「救いたい」という想いが「救ってもらいたい」人を創る。  

◆「答えを知りたい」と渇望するが、答えはその、喉から出ている手の中にもある。
 
◆「死ぬまでに悟りたい」という想いが、有限の存在と時間の限定を創る。

◆病巣の痛痒さを掻きむしり一瞬の快楽を得る人間と、完治させることのない薬を
売り続ける人間。
どちらも報酬系の回路の犠牲者だ。
痛みを快楽で麻痺させるのではなく、正常な痛みを取り戻すことからはじめなくてはならない。  

◆あと何回生まれ変わるかを気にしているうちは、生まれ変わり続ける。
なぜそのことがそんなに気になるのだろうか。  

◆わたしたちの頭の上は、上でも下でもない。
頭が足だと思って宇宙にグラウンディングしてみよう。  

◆地球にくっついているからといって、まっすぐ立っていると勘違いしないように。
わたしたちは今このときも、ものすごい勢いで全方向に吹っ飛んでいっている。
でもこのことは、地球にまっすぐ立ってみないとわからない。  

◆果てしない螺旋構造を縦に昇っていこうとするから気が遠くなるのであって、
横の隙間からちょっと飛び出して蚊取り線香みたいにぺちゃんこにして
渦の中心に消えちゃえばいいんですよ。  

◆頭蓋骨の外を見るということは、私の内に映ったものを反転させて2つの穴から
「のぞき込んでいる」。
のぞき込んだ景色の中に、私は映っていない。
もちろん、エルンスト・マッハの絵のように身体の一部は視界に入るだろうが、
のぞいている私自身は反転せずに常にその場に消えていることに気づこう。  

◆映っているものは内と外が反転するが、気づきは反転しない。
気づきとともに見ている私自身は、常にその場に消えている。
(ここでは世界が先にあるのかないのかという話は置いておく。ただ、映っている事実だけを見る。)  

◆外側に見えている世界は私の内でみたもの、すなわち私の内側そのものだ。
手を前に伸ばせば、私が私の内に触れる。
世界のすべてのものは、私自身に触れるものとしてある。
だが、肉体の目の限定をはずせば、いっさいの距離がなくなって世界は直接わたしになる。  

◆手を前に出すとき、同時に、手がむこうから私に侵入してくる。  

◆股関節が折りたたまれると、膝が私に迫ってくる。  

◆世界は手品みたいに驚きに満ちている。頭で解明してしまったら、もったいない。  

◆目が前面に2つ並んでるって、なんの冗談かと思う。
なにか悪いことしてここに入ったのかと、罪の意識を持っても仕方ない。  

◆心身の構造には不条理な仕組みが多々あるが、進化というものがあると
仮定すると、突貫工事で無理やりいろんな機能をひとつの入れ物に詰め込んだ結果だろう。
例えば、目の盲点は眼球の配置の都合で残ってしまったし、直立歩行を優先したために
腰に負担がかかる構造になったりした。  

◆目は直立の獲得とともに前面に移動してきたが、これなどは意図的に視界の死角
をつくって別の機能を発達させようという何等かの意志が見られる。
その意味では、進化は意思であるといえる。
これを神の意志と呼んでもいいが、デザインはわりと行き当たりばったりのところがあるという印象。  

◆腸って長すぎるし、あまりにも狭いところに詰め込まれすぎてて笑える。
消化と吸収のためにひとつの器官がここまで長い必要があるのが不思議だし、そもそも
固形物を食べること自体が不条理と感じる。
食べなければ、生体のデザインがこの形である必要はなくなるが、
そうなったらなったで何を残す?  

◆脳なんてパーツごとに時代の古い順に積み重なってて、このせいで複雑怪奇で
矛盾だらけの悩みが出てくる。
あとから取ってつけた感がすごい。
あまり愚痴ってるとデザイン担当に怒られそうなのでこのへんでやめておこう。  

◆3Dにおいて人間の形をしているものは、覚醒の場においては人間の形を成していない。
バラバラの粒子の萌芽が可能性として待機している。

◆3Dの人間の創造というアイディアが生まれたとき、自我の芽生えと意識の進化を
見越して「最適なパーツ」が様々な次元から選択・采配された。  

◆そこにおいては、例えば、人間の手と内臓と目と脳の素材はバラバラの次元から
寄せ集められ、「人間」という形に都合のいいようにつなぎあわせて一つの個体に
仕上げられ、それが現象世界の共同幻想として「通用」するようになっている。  

◆それらのパーツは、3D世界に入り込んだときにだけ、ホログラムで多方向からの
光がひとつの像として浮かび上がるように、一続きの皮膚に覆われた一個の個体
として認識される。
逆にいえば、そのように認識されるように、3Dの人間の意識はつくられた。

◆胃にモノを入れることは、蝙蝠傘にミシンを食べさせるぐらい、ある意味シュールな行為なのだ。
でも、消化は身体のみならず意識の顕われでもあるので単純に切り捨てればいいというものでもない。
「飲み込みが早い」「知識を吸収する」などの感覚は身体と連動している。
人生の消化不良もしかり。  

◆これまでは地球の重力は人間全員、平等だったが、覚醒の局所から反重力部分だけを
利己的に利用しようという動きが出てきた。
近い将来「重力格差」がやってくる。
二極化という概念は好まないがあるとすればここだ。
これは陰謀論などではない。
UFOすご〜い!とか呑気に喜んでる私達への覚書き。  

◆三次元の覚醒は反重力感覚を「含む」から話がややこしい。
これはトンデモ話ではなく、わたしたちの心身と思考すべてが重力に支配されてきた
ことが真に見切られれば、自然に理解されること。    

◆地球が平らだと言い張る人たちを笑うけれど、地球がひとつの球体だと思い込んでる
私たちも、上の人に笑われているのです。  

◆わたしたちが神と呼んでいる存在はわたしたちの限定された認識の投影にすぎない。
それがいかに超越的に感じられたとしても。  

◆わたしたちの意識が、3次元を3次元として縛り続けてきた。
意識の「引っかかり」が、次元の法則を限定しているのだ。  

◆もともとは、意識と気づきは同義だったが、メタ認知によって意識と気づきと思考と感情を
ごちゃ混ぜにしているうちに、自己がバラバラになってしまった。
まずはその混乱を解きほぐそう。  

◆いずれ認識の区分は一元、二元、非二元、の3つだけでは間に合わなくなる。
まったく理解不能な認知形態がごまんとある。
だから、単純なうちにわかってしまおう。  

◆空は反重力を含むが、空=反重力ではない。
「反」重力は重力ありきの二元だが、空は一元でも二元でも非二元でもない。
3次元においては、どこにもつかまらない意識は原理的に反重力感覚に近いものがあって、
自動化された瞑想ではこの波のあいだに乗っていく。
UFOもこうやって操縦するのかも。  

◆よく、クンダリーニのエネルギーはどこを通るんですかと聞かれるけど、
背骨に近いけど肉体じゃなくて、どこにもくっついていないところを重力に逆らい
ゴゴゴゴゴ!っと怒涛の衝撃で昇る。  

◆そのエネルギーは本来、すべてに満ちているが、あらゆる引力から自由になった
空の道しか通れない。
逆にいえば、空いた道を見つけたら向こうから待ってました!とばかりに通り抜けてくる。  

◆「あなた」と呼びかけるのは、認識の感覚にそぐわないので苦手だ。
そう呼んだとたん、舞台と客席が分かれて演劇が始まる。  

◆肉体の意識で開けた道には、肉体に近いエネルギーしか通れない。
じゃあ、意識だけでどうやって道を開けるんですかと言うけれど、物体と意識に境界がない
ことを知れば、手で物体のゴミを取り除くのと同じように、意識で思念のゴミを取り除くだけでいい。  

◆物質の世界は意識の世界への直接的なポータルなのだ。
だから目の前の物質をつぶさに観察しよう。  

◆にわかには信じられないと思うけど、私が立ったその時その下に、重力と地球が生まれ、
全体が回転し始めるのです。
本当に信じがたいけれども。  


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【覚醒からのつぶやき 4】       

2020/10/01

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


植物

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◆存在の本体は莫大なエネルギーのアイドリング状態だ。
肉体が固形物だと信じれば、エネルギーは個体分しか通り抜けられない。
無理やり通そうとすれば木端微塵に吹き飛ぶ。
だが、肉体が無限の「あいだ」の非連続体だと知るとき、
エネルギーはすべての「あいだ」を自由自在に行き来する。

◆人間を一個体と見る認識からは、個人個人のエネルギー量は異なる
ように見えるが、境界のない「あいだ」の非連続体を見る認識からは、
すべての存在のどの瞬間にも莫大なエネルギーを見出す。
たとえ衰弱した病人にあっても、どの瞬間にも「あいだ」の莫大なエネルギーがあるのだ。  

◆このことは、エネルギーを現象面でとらえていては理解できない。
エネルギーを相対的な強弱ではなく二極の「あいだ」で瞬間瞬間に決定される
創出それ自体としてとらえるのだ。
創出そのものに強弱はない。
存在と非存在の二極の発生するあらゆる場に、相対を超えたエネルギーの爆発がある。  

◆「わかりたい」というエネルギーを、時間の前後ではなく存在の上下に貫こう。
追いかけてくる自我から、純粋な意思だけを救出するのだ。  

◆単純に、「わかりたい」と「わかる」のベクトルと位相がズレているだけなのだ。
愛を知るために冷蔵庫の中を探しているぐらい、明らかなズレがある。  

◆「わからない」ことに開き直るのでもなく、「わかりたい」という意思を固める
のでもなく、不可解の真只中に永遠に放下してしまおう。
無限後退の真空において、存在と再会する。  

◆わたしという現象は、噴水で吹き上がる水ではなく、噴出それ自体のエネルギーだ。
放物線を描いて落ちる水の軌跡は3Dにおけるわたしの残像にすぎない。
身体に同化すれば、重力によって噴出は上下に固定される。
身体に同化しなければ、噴出は360°どの瞬間にも見出せる。  

◆ここは瞑想者の盲点なのだが、噴出自体に気づきはじめると、残像を
一括して切り捨てようとする。
残像が一切認識されなければ問題ない。
しかし、残像が残像であると認識された瞬間、残像が残像でなくなり、
そこに自身の噴出の発現がある。
噴出は常にあるが、その発現は決定されるものとしてある。  

◆「それ」を神と名づけた瞬間、人間は人間の枠に気絶する。  

◆意思を「意思」として気づく段階では、すでに「目的」が伴っている。

◆ 生まれ変わりの印に前世と同じところに痣があるとか、臨死体験者が
過去を見てきた記録として建造物に印をつけておく、などという話は心情的
にわからないでもない。

◆肉体の死を迎えて意識のフォーカスのチャンネルが変わるとき、
前回のチャンネルで理解したところから始められれば効率がいいので
自分自身にヒントを残しておきたいのだ。

◆ただ、そうそう思い通りにいくものではなく、前回理解したところまで
辿り着くのに紆余曲折する場合があるが、紆余曲折の中に前世で取り
こぼした新しい発見があったりもする。

◆私自身、散りばめられたヒントに子供の頃から要所要所で出会ってきた。
(ヒントなしで唐突にフラッシュバックが起こって困惑することもしばしばあったが)
直線的時間で理解しようとするとオカルトにしか聞こえないが、過去の私からの
ヒントも、未来の私からのヒントも、現在に散りばめられている。

◆時には積極的に直接呼びかけられることすらある。
また、現在の私が過去の私や未来の私に呼びかけることもできる。
例えば今、過去に直接呼びかけられたときの私の記憶を想起してみる。
すると、呼びかけた声は他ならぬ私自身だったことに気づく。
(これは声の響きと安心感の有無で判断できる。) 

◆また、現在の私が同じ声に呼びかけられるとき、未来の私がこちらに
目を向けていることが経験的に理解できる。
ただ、過去現在未来というのはあくまでも直線的時間における私の記憶の分裂だ。
私が私に呼びかける声がひとつのところにあるとき、時間は消える。 

◆こういった話は誤解を生みやすいのであまり話さないようにしているが、
時空の仕組みとしてむしろ自然なことなのだ。

◆面白いものでこの仕組みに気づくと、例えば今この瞬間、未来の私を想起したとして、
しばらくそのことを忘れていても未来のしかるべき時点で今この瞬間
(未来から見れば過去)に想起したことを思い出す。
つまり、特別な目印をつけておかなくても意識の中で気づきの時限爆弾を仕掛けておけるのだ。

◆しかし、この仕組みの利用は目的を誤ってはならない。
だから、それがわかるまで隠されている。 

◆ハートの本質を知りたければ、現象の発生する前面ではなく「裏側」の振動に触れよう。  

◆意識も反重力装置が発動すればいいんですよ。
地球上の心身はすべて重力に規定されています。
私はその感覚を前時代的にホバークラフトと呼んでいましたが。
ただし、空中浮遊する必要はありません笑
重力に逆らおうとするのではなく瞬間瞬間に「あいだ」が決定される仕組みを
使えばよいのです。  

◆物理次元ではヴィジョンを定めないと物事が形にならないという理がある。
ヴィジョンが明確であれば強い意志とともに具現化するのだ。
そこには粗く単一的なエネルギーがある。  

◆しかし、ヴィジョンを定めないことの中にも、別次元のエネルギーがある。
決定以前のエネルギーの混沌それ自体にすべてを任せてしまえば
、限定されない未知の力が私の行先を決めてくれる。
ただし、全託の信念に盲目的に気絶すれば、それもまた単一的なエネルギーとなる。  

◆ある力が決定されるのは、同じ力が二極に分離して引きあうからだ。
強い力と弱い力が引きあうのでは「あいだ」が決定されず、現象として像を結ばない。  

◆ある力が現象として発生するとき「あいだ」は発生と同時に決定されている。
創出のエネルギーは二極のバランスのあいだが決定されるときの引きあいの作用そのものなのだ。  

◆眼耳鼻舌心意の六門の入力に対して反応しないことを修行と考えていないだろうか。
人間の知覚には、同じ刺激が続けばそれに対して反応しなくなるという特性がある。

◆たとえば、視点が一点に固定されれば周囲の視界は消えしまうし、
同じ臭いを嗅ぎ続ければ臭いの存在を忘れるし、微妙なストレスが続くと
ストレス自体に気づかなくなる。

◆単純に反応さえ出なければよいのであれば、知覚の特性によって反応が
消えることはいくらでもある。
この仕組みを利用したのがサマタ瞑想だが、ここがゴールではないことは明らかだろう。  

◆頭と感情で人間を見限る前に、まずは人間として直立しよう。
飛ぶのはそれからだ。
直立する前に無理やり飛べば、自他未分の沼に引き戻される。  

◆服着るのと、歯磨くのと、食事するのと、掃除するのと、本読むのと、メールするのと、
花飾るのと、トイレ行くのと、病院行くのと、銀行行くのと、呼吸するのと、踊るのと、
歌うのと、瞬きするのと、やるべき優先順位がすとんと抜け落ちて、焦るでもなく、
諦めるでもなく、カーンとサマディに張りつく。  

◆覚醒とは、脳の機能はそのままに、生の優先順位が組み変わることともいえる。
必死に生きようとしなくてもよくなるのだ。
もちろん、目の前の危険は回避するし、お腹が空けばご飯を食べる。
ただ、命の維持はお任せしておくだけになる。  

◆ふと思ったけど「必死」に「生きる」ってアンビバレンツの極みですね。  

◆死が必然だから生きるってことか。  

◆平面の気づきは対象と観察者が並行しつづける。
ここに気づかないかぎりヴィパッサナーは頭打ちとなる。
球体の気づきは観察者が消え、あらゆるものの中心でありながら、何もつかんでいない。
ただし、この私が球体の中心に入ろうとすれば、たちまち平面の気づきに逆戻りする。  

◆球体が先にあるのではなく全方向、何もつかんでいないことの徹底が
球体の中心に浮いている瞬間瞬間を決定する。
球体の大きさは瞬間瞬間に決定され、極小から極大まで無限に変化するが、
実体があるわけではない。  

◆球体の感触も中心の浮遊感もまた、即座に手放されると、バラバラに捩じれて
引きちぎられるような高密度の領域に触れる。
そこには、同じ極の巨大な磁石どうしを無理やりくっつける間に挟まれているような
凄まじいうねりと圧がある。  

◆鮮やかだった花が色褪せ枯れていき、最期の最期に干からびた花びらの一片が
粉々になって風に運ばれ消えていく。
最期の一片はまだ、花の一部だった。
消える間際までは、花の存在の延長だった。  

◆消えた瞬間、何がなくなったのだろうか。
花を花と見る私が消え、色と形から自由になった花が、そこに存在しつづけている。  

◆簡単なのでやってみてほしい。
手を思いっきり強くグーに握ってみる。
今度はふわっと軽くパーに開いてみる。
グーの中心とパーの中心はまったく同じものだと気づくだろうか。
これがわかれば全部わかったのと同じなのだ。
難しいことなんてひとつもない。
中心ってどこ?などと考えないように。  

◆個人的には、アナパナは気が昇りやすく、意識が身体の前面に偏りやすいので、
初心者は丹田をつくって気を落とせるようになってから移行するほうが身体の構造
としては自然という考えです。  

◆アナパナで意識が前面に偏ると、光やヴィジョンなどのニミッタが出やすくなりますが、
サードアイ付近前方にみえるニミッタは集中の度合いとしては浅く、気づきが肉体の目
を伴ってしまっています。
ニミッタの光をまぶしく感じるならば、肉体の目に囚われている証拠です。  

◆それに対し、場所のない虚空のようなところに唐突にフラッシュするニミッタは集中力が
高まってきた証拠になりますが、ニミッタ自体には囚われず手放していく必要があります。  

◆呼吸の秘伝として、鼻から吸った息を縦方向ではなく横方向のラインを意識してみてください。
(ただし身体の軸は縦方向に「置いて」おきます)縦の意識だけだと鼻孔入口付近で意識が
途切れ、気づきが平面的になります。
その意識で丹田呼吸をしても意識が前面に偏り、丹田の奥深くまで落ちません。  

◆横のラインは、鼻から入った息を上咽頭付近に向かってぶつける感じで吸い込みます。
(顎を引かず、顎先と鼻先はその場所に「置いて」おくようにします)

◆このとき、硬口蓋から軟口蓋のあたりが軽く浮いて前後にストレッチされる感覚が
すれば正しく吸えています。  

◆また上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげることで、
瞬間的にサマディに入りやすくなります。
出来る方は合気あげでこの感覚を使ってみてください。
横のラインの呼吸の感覚がつかめると呼吸とともに肋骨と筋膜が内部から風船が膨らむように
押し広げられてきます。  

◆肋骨と肋骨の間が縮こまっていると感情や思考に囚われやすくなり、気が昇って
丹田に意識を落とせません。
ワークでは毎回、この辺りを基本として調整します。
集中力の欠如は9割方、身体の基本的な使い方(および食事)に起因していると
いっても過言ではありません。  

◆眼球が左右均等にまっすぐ前を向いているかどうか意識したことがあるでしょうか。
まっすぐ向いているかどうか鏡ではなく(鏡だと鏡の中の目を見てしまうため)
他人にチェックしてみてもらってください。
たいていの場合、左右不均衡で片側だけわずかに内転していたり外転していたりします。

◆このバランスが、瞑想における思考の発生や気づきの偏りに直結しています。
偏りのあったまま眼球が微動するとその人特有の思考が発生し気づかないまま連鎖します。  

◆肉体との同化から離れて完全に眼球をその場に「置いて」おけるようになれば
偏りも無関係になりますが、それ以前は基本的な身体の型として眼球をまっすぐにする感覚
を身につけたほうが気づきが等価に入りやすくなります。  

◆肋骨の「いちばん下」を触ってみてください。
自分がイメージするよりもかなり下のほうにあって驚くかもしれません。
普段意識しているのは胸骨にしっかりくっついている第1~7番目までの肋骨で、
下のほうの第8~12番目の肋骨はあまり意識できていません。  

◆体の前面からしっかり触れる第8~10番目まで(第11~12は背骨側から浮いています)
は無意識に上の肋骨と癒着し委縮していることが多いのですが、ここが委縮すれば
気が昇りやすくなったりネガティブになったりします。  

◆先の呼吸とともに肋骨の8~10番を下方向へ「置いておく」ようにすることで徐々
に肋骨の間がストレッチされて均等になっていきます。
(この調整は多少時間がかかります)
それにより、意識は丹田の奥深くにすとんと落ちることができるようになります。  

◆サードアイやら高次元の目やらを開くまえに、まず人間としての肉体の目を開こう。
なんのために人間に産まれたのかという話。  

◆100年にひとりのバレエダンサーといわれたシルヴィ・ギエムは、ある著名な
日本人ダンサーと共演したとき「私の目をちゃんと見て!」と何度も注意したという。
日本人ダンサーは「ちゃんと見ているつもりなのに何故?」と困惑したそうだ。
ほとんどの人間がまだ肉体の目すら開いていないということ。

◆股関節周りに隙間を開ける感覚と、腸腰筋を上下に引っ張る感覚と、仙骨を
立てて仙腸関節の隙間を開けて折りたたむ感覚がつかめないうちは無理に
座禅の形を組まないほうがよい。  

◆前頭筋を頭上へひっぱり、皺眉筋をの間をふわっと開き、鼻根筋と眼輪筋の力をゆるめ、
側頭筋を盆の窪へひっぱり、咬筋の力をゆるめ、オトガイ筋と頬筋をひっぱりあい、
顔と頭の皮膚を張って、頚椎が盆の窪に刺さって頭蓋骨全体が浮いているようにしてみて下さい。
そうすれば妄想なんて出ないですよ。  

◆身体のすべてが引っ張りあいだし、意識のすべても引っ張りあいなのです。  

◆前頭筋が下方向にゆるんで妄想したり居眠りしたりしている人が多すぎる。  

◆逆にいえば、客観的に気づいて修正すればいくらでもショートカットできるという話。
むやみに走りださず、まずスタート地点に立とう。 

◆意識が意識それ自体を客観視できるようになるまで、まずはこの世界の身体を
客観視のモデルとして有難く使わせていただく。  

◆まずは肉体の目を獲得しなければ、見ることと気づきの肉体的な癒着に気づけない。  

◆ある次元の体験的理解は、常にひとつ上の次元からの俯瞰のよってもたらされる。
肉体の目にしろ、3次元にしろ。  

◆悟りとは「システムを解明すること」ではない。  

◆身体の理解と調整は途上の補助にはなるが、ある地点で一気に無効になる。
ラマナ・マハルシの曲がった首が語っている。 

◆気づきは透明だからといって、対象を銃で撃ち落とすように均一のテンションで
気づこうとしないこと。
柔らかい気づきもあれば、硬い気づきもある。
すべての気づきが世界をぴったり覆うとき、ただそのままの世界が戻ってくる。  

◆すべての教えが各自にとっての方便であることは謙虚にわきまえておくべきである。
ここにおいて例外はない。  

◆硬い身体は硬い意識がつくる。
硬さと硬さがぶつかったところが物質として固定されていると思い込んでいるのだ。
軟らかい意識は、身体を塊としてとらえないので、どこにもぶつからない。
「ぶつかる」という意識の強張りが解ければ心身は内側からバラバラにほぐれる。  

◆硬い意識のまま身体の表面だけを脱力させようとしても「脱力しよう」という
硬い意図が心身の中心を強張らせる。
このときの脱力はぐにゃぐにゃした砂袋のような重さと虚脱感を伴う。  

◆軟らかい意識の脱力は、全身が花粉になってふぁ~っと霧散しているような
飛翔感を伴う。
この感覚は物質を超えているので、肉体の柔軟性や可動域に限定されず誰でも
体感し得る。
瞑想はここからはじめたいのだ。  

◆意識のありかたで身体の重さや動きの質は変化する。
たとえば床に丸まっている相手を肉体の塊として転がそうと思っても重くて動かない。
自分の肉体と相手の肉体が塊としてぶつかるからだ。
が、水平線のはるか先まで意識して地球ごと転がそうとすればあっけなく動かせる。  

◆また、開脚するときには左右の足先と耳が水平線のはるか先まで伸びているように
意識すれば限定していた可動域を超えられる。
これはイメージトレーニングではなく、具体的な意識と身体のメカニズムなのだ。
この身体の枠にかっちりはまっていると思い込めば、意識と身体も限定されたものにとどまる。  

◆二極が離れようが近づこうが、あいだにあれば関係ない。 

◆あいだにあることは、極を設定しないこと。  

◆凪にいる魚も時化にいる魚も、そこにふさわしい力で泳いでいる。
泳ぎがあいだで起こっているのだ。意識の力学でその力を体感していこう。  

◆唾をごくんと飲むときの喉の実感、それぐらい具体的に覚醒に触れよう。  

◆今すぐ実際に水を飲んでみてほしい。
水を飲んで、体の中でその感触が消えていく最期の最期まで見つづけてみよう。
最期にある、肉体とイメージの境界に気絶しなければ、あいだの入口に出会う。  

◆好き嫌いをなくそうとしないこと。
好き嫌いはまさにその瞬間、事実として起こっているからだ。
好き嫌いをする自己嫌悪がでたらでたで、それは事実としてあるだけだ。
事実を事実として受け流しきっていくこと、それは過去現在未来のすべての
自分をその瞬間救っているのだ。
奇跡はここにある。  

◆地面に立っているということは、こちらからも押しているし、あちらからも押されている。
その真ん中に、それでしかないバランスで立たされている。
そのことさえわかれば、すべてわかる。 

◆気づきの極限を見切ったら、現象世界にもどってこよう。
現象発生の同心円の真ん中で、祈りになろう。  

◆「上咽頭に呼吸がぶつかる感覚と盆の窪を開く感覚と頭上のポイントをつなげること」
この真ん中でサマディにホワイトアウトせずに、気づきが気づいていればよいのです。
ここが団子状に癒着していると瞑想は堂々巡りします。  

◆気づきのとらえかたの癖に気づかない限り、気づきが解放をもたらすことはない。
気づきのベクトルが一定の方向になっているから自他が分離し続けるのだ。
気づきの癖は、その人そのものが顕われている。  

◆「気づきに気づく」とは、気づきそれ自体の中心で気絶せず「目覚めている」
ということです。
気づき自体は対象化できません。  

◆「すでにそれである」ということは、帰納法でも演繹法でも導き出せない。
修行のトリックに惑わされないこと。  

◆瞑想はゴールを目指す長い道のりではない。
ものを見ることの基礎が現象世界で健全に養われていれば、ほんの一瞬の瞑想で
すべてが一致する。
だから、現象世界で健全に生きる。  

◆無執着は結果として起こること。
だから無執着を目指さないこと。無執着は諦めや放棄ではない。
無執着は性質ではなく構造なのだ。  

◆それの手触りが見えてくると足元が崩れ去るように感じはじめるが、逆に、
肉体の足はしっかり大地を踏みしめるようになる。  

◆肉体と仲良くなって協力してもらおう。  

◆「先に進もう」という意識が自己の分離を生む。
ここで誤解しやすいのは「先に進んではいけない」ということではないこと。
いまここに「止まろう」とするのはちがう。
「先に進んでいること」のすべての瞬間が自己と一致していれば、
結果としてただ「進むこと」の軌跡があるだけなのだ。 

◆覚醒を「動き」の中でとらえられるようになろう。
それが、現象世界での悟りだ。  

◆動いているから止まっているし、止まっているから動いているのだ。
座禅で停止に陥っていないかチェックしよう。  

◆自分自身であることとは、想像の中の小さな自分にふてぶてしく胡坐をかくことではない。
自身の顕われは自分の想像を超えている。
そのことに畏敬の念と感謝をもとう。 

◆不足感は自分自身とのズレから生まれる。
ズレの大きさが即、不足感の大きさなのだ。

◆自分自身とぴったり重なっているとき、そこに心理的にも
物理的にも過不足があろうはずもない。 
 
◆自分自身の過不足が消えて、それでもなお何かが溢れてくるのならば、
それを表現すればよい。
そこから利他行がはじまる。 

◆なんらかの体験が起こったら、他人の言葉や経典の言葉で定義づけてしまわず、
あらゆる角度から自分の言葉で検証してみよう。
他者の定義を必要とするならば、それまでの体験だったということだ。  

◆テレビを見続けると洗脳されるように、一方的に情報を受け取る側に居座ると
意識の筋力が退化する。
それがどれほど素晴らしい教えであっても例外はない。  

◆とかく瞑想というと受動ばかりが強調されるが、最終的に「能動も受動である」
ということが腑におちなければ、この世界でエネルギーを循環させることはできない。
わたしたちひとりひとりは、世界の創造のエネルギーの中継地点なのだ。
エネルギーの循環、これが創造主の意思である。  

◆三角形のあいだは固定されるが三角錐のあいだは浮く。
3次元の身体をポータルにして意識を立体化しよう。  

◆呼吸と意識の深さで他人を受け入れる器が決まってくる。
他人を拒絶する人はたいてい鳩尾で呼吸が止まっている。
心理的に「他人を受け入れなければ」とあれこれ悩むよりも、まずは身体を変えるほうが早い。
深く境界のないところには四次元ポケットのように何でも入る。  

◆女性であれば、子宮が安らぐ感覚を知っている。
子宮の安らぎの最奥に世界がまるごと入っている。
男性であっても、女性性と現象世界の創造原理の理解によって同じ感覚が養われる。
この理解は、必ず修行者の助けになることを覚えておいてほしい。  

◆死に方がどうこうというよりも、死の瞬間の意識レベルが正確に次のチャンネルに
引き継がれる。
引き継がれる際の中間層のタイムラグ(人によって時間感覚は伸び縮みする)で、
自身の創り出す死後の世界にフォーカスする。
誰が罰するわけでもなく祝福するわけでもなく、自分自身が反映される。  

◆傍観者にも批評家にも野次馬にもそれぞれの軸があるが、自分自身が
存在の実感に撃ち抜かれたければ、プレイヤーとして世界の軸と一体化しよう。  


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【覚醒からのつぶやき 3】          

2020/09/20

ツイッターのつぶやきをランダムにまとめました。


1111.jpg
オリヅルランのランナーが伸びてきた

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◆覚醒の最短コースなどない。
もともと距離なんてなかったのだから。

◆雲が覚醒を隠しているという物語が横行している。雲を取り払って
太陽を見ましょうというのだ。
雲自体に覚醒があることに気づけば、雲も太陽もひとつの現象である
ことを知る。  

◆すべての雲を消そうとすれば56億7000万年かかるが、すべての
雲を受け入れれば1秒もかからない。  

◆「今」というとき「い・ま」というかたまりが今の今を押し出す。
「今」に実感を求めないこと。 

◆排泄の瞬間に覚醒することもあるだろうが、口外はしないかもしれない。
夢を壊さぬよう、慈悲ゆえに笑

◆ジャンクフードの後引く味覚を正確にたどっていけば覚醒にたどり着く。
オーガニックな覚醒もジャンクな覚醒もないのだ。  

◆覚者は自身の「状態」を訴えない。
「状態」は常に完結しているからだ。
つらいときにはつらさが完結している。
つらさが続けばつらさが続くことが完結している。 
 
◆つらさの連続を直列的な時間の感覚で切ろうと必死にならないこと。
「つらさの連続」もまた、引き延ばされた一瞬である。
残酷といえば残酷だが、人によってはつらさの連続で一生が終わるかもしれない。
だが、被害者意識を持たずにこの一生を受け入れると覚悟すれば、
つらさ自体の中で救われる。  

◆「自称覚者」は槍玉にあげられるが、「他称覚者」は誰が判断しているのか。  

◆教義の証明と自己の証明を取り違えていることがあるが、
そもそも自己の証明自体、いらない。 

 ◆時間を「前後に切る」という呪縛を解こう。
気づきが「上下左右前後に分離する」という呪縛を解こう。 
 
◆360°のベクトルを意識すれば私たちは回転の中で切り取られた
限定的な一形態にすぎないことを知る。
今この現象世界に肉体を持って在ることは無駄ではない。
すべての現象の顕われがヒントとなるからだ。
ヒントは今この画面を見ている方向自体にある。  

◆それがわかれば逆に、上下左右前後を消さなければと
躍起になる必要もなくなる。
人間ならざるものになろうとして、重力や内耳の平衡感覚を
消そうとするのはバカげている。
重力と回転の中で、身体も思考も感情も夢も記憶も、
自動的に天地と水平を測ろうとする。  

◆透明なカプセル(ガチャの容器でもいい)に水を入れて持ち、
直立したり逆立ちしたり仰向けに寝たりうつ伏せに寝たりでんぐり
返ししたりしてみよう。水は即座に水平を保とうとする。
この働きが、私たちの存在様式のすべてに浸透している。

◆覚醒とは、カプセルの中で水が一瞬、無重力状態になるその時に閃く。
無重力状態で、宇宙飛行士はどのような夢を見るだろうか?
惑星の記憶が薄れていけばやがて夢の認識も変わるだろう。
お腹の中で浮いている胎児はどのような夢を見るだろうか?
惑星に産まれる前の夢を見ているにちがいない。  

◆透明に見える空気も重力に従って常に落下している。
落下の運動の中の気づきは現象世界の気づきだ。
究極的な気づきは、落下も上昇もしない。  

◆自我感覚と意思の発動と重心の移動がごちゃ混ぜになったまま
気づきを入れても「私が行為している」という感覚はいつまでたってもなくならない。
無我に先走るよりも、いったん我に戻ってそれぞれの機能を意識的に分離して
正確に観察してみよう。  

◆どの機能がどの瞬間にはじまり、どの割合で混在するのかが明確になれば、
「行為する私」が生まれる以前のエネルギーのベクトルの初動を等価に
見切れるようになる。  

◆ここがごちゃ混ぜになったまま、自分の得意な感覚に特化して気づきを入れ
続けても、気づきから切り捨てられた機能の混在が気づかないうちに意識を
「この私」に引き戻す。  

◆これに気づくには、気づきを入れつづける間にふらふらっと気づきが曖昧になる
瞬間を見逃さないことだ。
(ただし見逃すまいと緊張して待ち構えるとそれ自体が気づきのベクトルを固定する)  

◆曖昧な瞬間には必ず「不得意な(見たくない)部分の気づきのごまかし」がある。
その瞬間に気絶しているのだ。現象世界の気づきはトータルで発動しないとこの
心身を同時に連れていけない。  

◆気づきの次の瞬間の「納得感」に一瞬でも気をとられるとそこに私という質量が
発生する。
気づきは薄氷の湖上をつま先立ちで走るように入れる。
一歩にとどまれば湖の底に沈む。  

◆足裏に画鋲が刺されば足裏に意識が集中するが、足裏の痛みは脳が感じている。
夜空を見上げれば遠く離れた星が見えるが、今見ているその星はとっくの昔に
消滅しているかもしれない。
3次元の世界でも、時空を超えた知覚なんていつも体験しているのだ。  

◆苦そのものは存在しない。
あるエネルギーのベクトルと私の想いのベクトルにズレがあるとき、そのズレを
私が「苦」と名付けているだけだ。  

◆「自画像を描いてください」といったときに描かれたものには、その人の意識の
次元が顕われている。
これは実際、どこに意識があるのか丸わかりだ。
小細工もすべてバレる。  

◆わたしは私のものではない。私がわたしを所有できるはずがない。  

◆星新一のショートショートで、あるサラリーマンが会社の命令であるときは
支社に行って爆竹を鳴らし、またあるときは別の支社に行って壁を塗り替え、
といった意味不明な行為を再三繰り返させられるという話がある。
実はそれは会社の繁栄のために行われていた魔術的なツボ押しだったというオチだ。  

◆現象世界の私たちの行為は、無意識である限りこのようなツボ押し要員として
今日はあっち、明日はそっち、と使われている。世界は無数の無意識によって動いている。
ミツバチは花の蜜をせっせと集めるが、自身が花の受粉のために働いていることは知らない。

◆陰謀論が横行しているが、支配ー被支配という固定化されたひとつの世界像などない。
それらほとんどの物語は爬虫類脳に組み込まれた恐れから編まれる。
とはいえ、恐れからくる世界像の幻想が共有されれば磁場が形成され、
それがリアルと認識されるようになる。  
軽々とこの世界を駆け抜けるには、いかなる世界像の磁場にも意識を向けないことだ。 

 ◆自分の口の中の味がしないように、自分の頭の中の思考の音は聞こえていない。
思考の音すべてが聞こえたらビービーガーガーうるさすぎて一日で気が狂うだろう。  

◆瞑想者は自分の体の境界線が消える感覚を必死になって求めるが、
そんなの誰だって常にやっている。
自分の体の外にあるモノ、お金、土地、家、車、家族、恋人、人間を「自分のもの」
と感じるのは境界が消えているからだ。
我が境界を侵食して外のモノに所有感を持つ。
物質次元の我執のワンネスだ。  

◆「未来の方向へ歩いてください」というとき、後ろ向きに歩いたり横へカニ歩き
する人はまずいない。
時間の方向感覚がすでに身体に組み込まれているのだ。
逆にいえば、時間を順行させるために身体はこのような構造になった。
だから時間の幻想が見抜かれると人間は上方向へ脱出しようとするのだ。  

◆「コーヒーを飲む」という意図に気絶しているとき、コーヒーカップの取っ手の形状は、
飲もうとする人の指の動きと形を無意識のうちに誘発する。
気づきの瞑想とは、客体との関係性がアフォーダンスの手前で脱落しつづけることだ。
バーナデット・ロバーツは覚醒直後、冷蔵庫にスリッパを入れた。  

◆注意が欠陥していたからではなく、注意が極まって関係性が完全に無化してしまったのだ。
自分の手を壁に置いて立体的な内部の目で見ていると、手の行為の道具としての意味が
無化され、はじめて見るもののように「そこに何かがある」という感覚になる。 

◆ はっきりとそこにあるのに手の使用目的が抜け落ちるのだ。このとき、行為の目的
とつながった神経回路が分断されれば、微動だにせずその「何か」が映ったままサマーディに入る。
神経回路がつながったままであれば、目的の脱落した行為が起こり続けるのを奇妙な
浮遊感のあいだで目撃することになる。 

◆ 人間は音の発生場所を左右の耳に届く振動の時間差で特定している。
音速340mから算出すると、10万分の1秒の左右の時差を正確に検出しているという。
 
◆ ワンネスにあっては、音の振動はあるが音源の場所は無化される。
左右の耳の時間差はあっても、意識が音源の方向へ引っぱられないのだ。
すると、遠くの音も近くの音も、右の音も左の音も、中心で生まれては消えていく。
中心でただ、炸裂している。 

◆ 「覚醒とは」とあれこれ説明するよりも「覚醒とは今たべてるバナナです。」と言ったほうが近い。
桃水雲渓は、道で行き倒れになった乞食の傍らにあった吐瀉物をむしゃむしゃと食べて
「お前にこれができるか」と、つきまとう弟子を追い払ったそうだ。

◆具体的な視点の転換は、肉体の目を切り捨ててイメージに没入するだけでは獲得できない。
これでは常に肉体とイメージが分離してしまいイメージから戻れば肉体に引き戻される。
肉体の目は目として置いておき、同時に内部の目が発動している立体的な視点を獲得して
はじめて、新しい世界が立ち上がる。 

◆自分の心身や知覚を平面的にとらえているかぎり、世界は自対他の二元にとどまる。
自身が立体となったとき、はじめて世界の立体が立ち顕われる。一元は平面から点に
戻ることではない。
平面から立体になることで内部から視座が開き、二元の固定が解かれる。 

◆「そのままでいいんだよ」そう言われたことで緩む安心は仮初の自己受容だ。
「そのままでいいんだよ」の「そのまま」は、まさにそう言われた瞬間そのままの不確定の中にある。  

◆不幸の中心と幸福の中心は同じものである。
苦痛の中心と快楽の中心も同じものである。
ただし中心は同じ場所にはない。
中心は動き続けるすべての瞬間に立ち顕われる。
あらゆる動きは自動的に起こり続ける。
すべての動きに切れ目なく中心があるから結局、動きは中心であり、中心は動きなのだ。 

◆ このことがわかるには、いったん軸を自覚してから軸を忘れ、すべての瞬間の
無限に分割された軸を見切ればよい。
ほんとうに簡単なことだ。
探求にまつわる複雑な体験は、この心身の構造に準じて起こる些末なエピソードにすぎない。 

◆直列的な時間においては、ひとつの瞬間にひとつの事象しか存在できない。
もし自分という継続する実体があるのなら、ひとつの実体が瞬間瞬間を占有しつづけて
何一つ前に進んでいかないということになる。
事象が流れ変化し続けるのは、自分のみならずあらゆるものに固定された実体がないからだ。 
 
◆自分の物語の背後にいつもうっすらとテーマソングやバックグラウンドミュージックが
流れていないだろうか。感傷や高揚を増幅する音楽は私という物語を映画のように演出
してくれるが、死の直前まで音楽に酔っていれば再び映画の中に生まれ変わる。
死は完全な無音と最後の息の一致において完成する。 

◆ もちろんこれは、音楽を否定するものではない。
音楽は自分をナルシスティックに説明してくれる小道具ではなく、音それ自体が自身として
響いてあるものだ。音それ自体は音に酔わない。

◆新緑にも紅葉にも息吹がある。
枯木にも朽木にも息吹がある。
新緑にしか息吹を感じられないのなら、生の半分しか見ていないということになる。
新緑の発現も、枯木の発現も、同じ呼吸から起こっている。

◆気づきは、見張るのではなく見守るように入れよう。 

◆人生という関数を無限回微分しても空は導き出せない。 

◆人生でも瞑想でも、とかく「一つのことに集中しなさい」といわれるが、
空は一極集中の中心だけにあるのではない。
一極集中主義は、直列的時間においてはひとつの瞬間にひとつの事象しか認識できない
という概念にしばられている。
私という定点がなければ、二極の分裂した意識のあいだにも空はある。  

◆高校生の頃、駅のホームで電車を待っているときに前に立っている人を見て
突然「誰もいない」という奇妙な感覚が襲った。
辺りを見回しても、人の姿はあるが誰もいない。
誰もいないのに人の形が保たれ動いているのでゾっとした。 

◆ 皮膚に囲まれただけのものが自立して生きているということに、未知との遭遇
のような衝撃をうけた。
自分が今までどのように動いてきたのかも、確信が持てなくなった。
学校に着いて友達と馬鹿話をしているうちにその感覚は消えていった。
 
◆その意味がわかるのはそれから15年経ってからだった。
15年の間、確信の持てなくなった身体と自分を一から取り戻す作業に費やした。
身体の獲得は、逆行するようだが無駄ではなかった。 

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